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デルフォイとオリュンピアの求心性

『世界歴史4 地中海世界と古典文明』より ギリシア本土との遠近--デルフォイとオリュンピアの求心性-―
デルフォイ
 シチリアヘのギリシア人の植民は、ごく初期には交易を目的にしていたとしても、まもなく農地を求めての移住、すなわち農業植民が主流となったことはすでに指摘した。農業植民の具体例として残存史料のなかに見いだされるのが、よく知られている北アフリカ、リビアのキュレネである。
 干ばつに苦しむテラはデルフォイの神託を受けてキュレネヘ植民することを決めたとヘロドトスは記述しているが、「植民者たちが定住地を確保したならば、その家族であとになってリビアに航行する者は、市民権と役職とをともに享受し、所有者のいない土地の割り当てをうけること」と碑文史料が伝えるように、農地を獲得することが先遣の植民者の課題であった。農業植民は自立・自営のポリスの建設を目指すもので、母市との政治的な従属関係はなかったとされている。キュレネの場合も母市テラとのあいだに従属関係が当初からなかったことは、前四世紀に相互に対等な両国のあいだで締結された友好条約に、植民者を派遣する際の協定を引用していることから明らかである。
 このキュレネ建設にあたって、テラはデルフォイの神託に伺いをたてて得られたアポロンの勧告にしたがって植民を敢行した。テラの場合に限らず、デルフォイの神託と植民活動とのあいだには密接な関係が成立していた。ヘロドトスは、前六世紀末にスパルタ王クレオメネスの弟ドリエウスがリビアヘ植民に出かける際にデルフォイに神託伺いもせず、また、その他の慣行も守らなかったため失敗した、と述べている。前六世紀末には植民者がデルフォイの神託に伺いをたてることが慣行化していたことは、この記述が伝える通りである。すでに触れたように、シチリアのナクソスでも国の守護神としてデルフ″イのアポロンが祀られていた。
 デルフォイはパンヘレニック(全ギリシア的)な神域であり、ギリシア世界の各地から人々が集まるから、それだけでもここに情報は集まってくる。そのうえ、植民に成功したポリスが感謝の奉納にやって来れば、関連の情報ももたらされる。こうして、どこに植民することが望ましいか、あるいは、特定の地への植民が適当であるか否か、どこにどのような障害があるか、というような問に対してデルフォイの神託は適切な判断をくだすことが可能となったのであろう。
オリュンピア
 オリュンピアはパンヘレニックな神域としてデルフォイと並び称せられた神域である。しかし、植民活動とオリュソピアとの関係は、デルフォイの場合ほど明らかではない。
 シュラクサイのオルテュギアにはアレトゥサの泉があった。現在もその遺跡は多くの観光客が訪れる名所となっている。古代にはこの泉の水はオリュンピア近くを流れるアルフェイオス河から地下を通って供給されている、と信じられていた。さらに、狩人アルフェイオスがアレトゥサに恋したが、結婚を嫌うアレトゥサはオルテュギア島に渡って泉に変身してしまった、という神話がパウサニアス『ギリシア案内記』にも紹介されている。オリュンピアとシュラクサイとのあいだの関係を示唆しているような神話ではある。
 そのほかに、シュラクサイとオリュンピアとの関係について触れているものに、ピンダロス『第六オリュンピア祝勝歌≒がある。これはシュラクサイのアゲシアスのために作られたものだが、そこには、イアミダイ一族出身のアゲシアスは、オリュンピアの競技の勝者にして、オリュンピアの神域を一時支配下におさめていたピサのゼウス祭壇の守り手、かつアルキアスとならんでシュラクサイの共同創設者であると歌われている。
 しかも、イアミダイ一族はオリュンピアを活動の中心にしていた占い師を出す家柄だった。このように辿っていけば、オリュンピアとシュラクサイとのあいだに因縁が存在していると言えるかもしれない。特に、植民に出かける者が神頼みしてすがったのは、デルフォイの神託だけではなく、事あるごとに試みた吉兆占いもあったはずである。したがって、植民団が占い師を伴ったことは十分に考えられ、植民が成功したあかっきには、その占い師が建国者のひとりに祭り上げられることもあり得ただろう。シュラクサイ建国とオリュンピアの連関の可能性は、ますます濃厚になってきたようにもみえる。しかし、ピンダロス『第六オリュンピア祝勝歌』の表現は、後述二〇六頁)する前四七八年に僣主になったヒエロンの時代のシュラクサイに向けられたものと解釈することもできる。残念ながら、シュラクサイ建国譚とオリュンピアとの連関についてこれ以上の探求はいまのところ放棄しなければならない。
 ところで、パンヘレニックな神域であるデルフォイとオリュンピアについては、前古典期の末や古典期になると文献史料や考古資料に基づいて比較的よく知ることができるものの、それ以前の両神域については不明なことが多い。祭祀の存在は前一〇世紀頃までさかのぼることが発掘によって確認されているが、デルフォイ、オリュンピアにおいて前七世紀末以前の祭祀に関係する建造物や記念碑は発見されていない。これはたとえば、サモスのヘラ神殿やアルゴスのヘラ神殿が前八世紀にさかのぼる事実と比べて、むしろ遅いと言わねばならない。しかし、前六世紀以降には両神域でいろいろなポリスの宝庫が建造されており、そのなかに植民市の建設した宝庫が少なくないことが注目される。両神域がとりわけ植民市と密な関係をもっていたことがここから明らかとなる。
 なぜ、植民市はデルフォイあるいはオリュンピアとのあいだに密な関係を築くことに積極的であったのだろうか。それは、こう説明できるだろう。植民市は母市にょって建設されたのではあるが、母市からの政治的独立を確保する必要があった。そのょうな植民市が移住以後も持ち続けているギリシアの神々への崇拝の念は、デルフォイやオリュンピアのようなパンヘレニックな神域に向けた方が、母市との密な関係を作り出すことなく、しかもギリシアの神々の加護を得られるという利点があったにちがいない[文献⑩二〇頁]。つまり、パンヘレニックな神域に敬虔の念を示すことは、ギリシア人のポリスとしてのアイデンティティを維持し、強固にするという結果をもたらしたのである。
 視点を変えて、デルフォイ、オリュンピアの側に注目すれば、いずれの場合も、パンヘレニックな神域としての規模の拡大には、植民市による奉納が関係していたと言えるだろう。パウサニアス『ギリシア案内記』のなかの両神域に関する記述を見れば、神域内にシチリアの諸ポリスからの奉納物や彫像や宝庫が立ち並び、人目を引いていたことは明らかである。パンヘレニックな神域としてのデルフォイ、オリュンピアが拡大、発展し、ギリシア世界のなかでの権威を高めていくに当たっては、植民活動にょってギリシア人の世界が拡大し、しかも、植民市が母市とは独立した国となる、というギリシアに独特の植民活動の性格が関係していたと思われるのである。

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