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未唯への手紙

未唯への手紙

ストア哲学 死と自殺について

2019年05月18日 | 1.私

『迷いを断つためのストア哲学』より 死と自殺について
 わたしは死ななければならない。すぐにというなら、今、死のう。じきに、というのであれば、今は食事をしよう。食事の時間だから。その後、死ぬときが来たら死のう。--エピクテトス『語録』--
 古代のストア哲学者は、死をとても気にかけていた。いや、「気にかけていた」というのは厳密には正しい表現ではない。死ぬということと、人間がそれに加えた重みを理解し、きわめて独特で前向きな見方を発展させたのだ。
 実は、わたしはこのテーマについてエピクテトスと真剣に対話をしてきた。かつては死を気に病んだものだ。それどころか、ほぼ毎日、死のことを考えていた時期もあらたし、一日に何度も考えたこともあった。とは言っても、わたしは陰僻な考えにとらわれて、ふさぎ込むようなタイプでもない。逆に、人生に対してつねに楽観的で、運命に与えられるもの(ありかたいことにこれまで多くを与えられた)はなんでも楽しみ、最善を尽くして取り組んできた。しかも、わたしは生物学者である。死は自然の現象であり、何十億年も前からわたしたちの祖先がたどってきた進化の過程の一部であることもわかっている(もしわたしたちが仮にバクテリアであるなら、老衰ではなく、偶然の出来事によって死ぬ。よって、人生哲学を確立することもできない)。それでも、いつの日か自分の意識が消えると思うと恐怖に襲われた。ところが、本章の冒頭に掲げたエピクテトスの言葉を初めて読んだとき、それが変わりはじめた。わたしは大笑いし、こう思った。誰もが何より恐れているものに対して、なんと屈託のないことか。
 エピクテトスは、わたしがなぜあれほど悩まされたのかも説明してくれた。「麦はなんのために成長するのだろうか。太陽のなかで穂を実らせるためではないだろうか。穂を実らせるのは、刈り取られるためではないだろうか。それらは一体なのだ。麦は、もし感情を持っているとしたら、刈り取られないように祈るべきだろうか。刈り取られないのは、麦にとって災いである。同様に、人間が死なないように祈ることは、災いを為しているのだ。それは麦が、実がならないよう、刈り取られないよう祈るのと同じである。だが、わたしたち人間は、刈り取られるべき運命にありながら、刈り取られるべき運命にあることを知ると、怒りを感じる。それは自分がなんであるかを知らないからであり、馬を扱うのに長けた者が馬についてよく研究しているのとは異なり、人間について学んでいないからである」
 興味深い一節である。ここでは相互に関連する三つの考えが示されている。第一に、わたしたちはほかの生物と変わりがないということ。太陽の光を受けて実る運命にある麦のように、わたしたちも刈り取られる運命にある。ストア哲学者はある種の宇宙の摂理を信じていたので、現代を生きるわたしたちの大半よりも、運命をそのまま受け入れた。現代科学の観点からも、わたしたちは宇宙におそらく何十億と存在するであろう居住可能な惑星のひとつで生きている、何百万という種のひとつにすぎないことは明らかだ。
 第二の考えはきわめて重要なものだ。すなわち、わたしたちが自分の死という行く末に穏やかでいられないのは、麦や、地球上にあるその他多くの生物とは異なり、死について考えられるせいである。だが、死について知ったとしても、その本質は変えられない。死に対するわたしたちの態度を変えることができるだけである。これは、コントロールできることとできないこと、というストア哲学の基本的な二分法に立ち返ることになる。つまり、死そのものはわたしたちにはコントロールできない(いずれにしても避けられない)が、死をどう考えるかは間違いなくコントロールできる。そのことについてもう少し考えてみたいし、考える必要がある。
 この第二の考えは第三の考えに通じる。エピクテトスは、人間について学ぶことと、馬について学ぶことを類比させた。死を恐れるのは無知ゆえであり、調教師が馬を知り、理解するように、わたしたちがもっと人間のありようを知り、正しく理解すれば、来たるべき死への向きあい方が変わる。
 それでもまだ、わたしが十分に納得していないのを察したエピクテトスは、戦術を変えた。すぐれた教師なら、前途有望ながら大事な点を頑として受け入れようとしない生徒を前にすればそうするだろう。「それではきみは、人間の悪意や、卑怯や臆病のおもな源は死でなく、むしろ死に対する恐怖であることはわかるか。わかるなら、どうか自分自身を訓練してほしい。すべての思考、すべての訓諭、すべての鍛錬をそれに向けるがいい。そうすることによって人はようやく自由になれるのがわかるだろう」セネカなど他のストア哲学者や、ストア哲学者に影響を受けたモンテーニュなど後世の人々もこうした考えを受け入れた。哲学が役立つことがあるとすれば、もっとも良く生きることに加え、死を恐れるべきではないという事実をいかに受け入れるべきかを示して、人間をより深く理解できるようにすることだ。それについては、ストア派の最大のライバルであるエピクロス派も、完全に同意している。エピクロス派の創始者であるエピクロスは『メノイケウス宛の手紙』で次のように記した。「それゆえ死は、もっとも恐ろしく悪いものだが、われわれにとってはなんでもないことなのだ。われわれが存在するかぎり、死はやって来ず、死が来たときには、われわれはもはや存在しないからである」
 それでは、病気になったときは? おそらく真の問題は死ぬことではなく、死に至る過程ではないかと考えながら、わたしはエピクテトスに尋ねた。「きみは立派に耐えるだろう」とエピクテトスは言った。もちろん。だが、誰がわたしの面倒を見てくれるのだろうか。「神と友人たちが」とエピクテトスは答える。けれど、わたしは固いベッドに横たわらなければならないでしょうね。「だが、男らしく耐え抜けばいい」きちんとした家は持てないのでしょうか。「それでも、病気になるのは変わらない」手厳しい師である。だが、すべて、ストア哲学の枠組みにおいては筋が通っている。人間が病気になるのは紛れもない事実であり、多くの人はそのひとつによって死に至る。だから、友人や愛する人々がそばにいてくれるなら、自分は幸運だと思うべきだし、それは、自分が他者とそうした関係を維持できるまともな人間であったことを意味する。彼らは病気を治すことも、命を救うこともできないが、最期に至る過程に付き添い、安らぎを与えてくれる。もちろん、ちゃんとした家の柔らかいベッドの上で人生の旅を終えられればもっといいだろう。だが、これから確実に起こり、わたしたちの意識のすべてを向けるべきものに比べれば、家もベッドも些細な問題にすぎない。
 そこで当然ながら、わたしは言った。いずれ死ぬときが来ますからね。「なぜ『死』などと言うのか」エピクテトスはわたしを正した。「もったいつけずに、事実をそのまま言えばいい。『物質がそれを構成していた元素に戻るときだ』と。その何が怖いのか。その損失は宇宙にとっては何を意味するのか。奇妙で、不合理な出来事だろうか」自分自身のことばかり考えるのではなく、もっと視野を広げろ、と冷静な理性の声が言う。子どもの頃、わたしが科学者のロールモデルと仰いでいた天文学者のカール・セーガンは、人間は星屑であるという事実を考えてみるようにと言った。人間の身体を形作る分子は、太陽系の近くで超新星が爆発して生じた元素が、数十億年にわたる進化を経たものだという。それを思うと厳粛な気持ちになる。それを裏返したのが、エピクテトスの言葉だ。わたしたちは塵に戻り、わたしたちを作っていた化学元素は宇宙の営みのなかで再生されて、新しい生命に生まれ変わる。こうした宇宙の営みに意味があるのか、あるいは、ただそういうものなのかはどうでもいい。いずれにしても、わたしたちは宇宙の塵から生まれ、宇宙の塵に返るのだ。そう考えれば、この世に存在して、飲んで、食べて、愛するという、宇宙から見ればごく短い瞬間が愛おしくなる。その瞬間がいずれ終わるのを嘆くのは合理的でないばかりか、無益だ。
 それでも、納得できない人もいるだろう。それどころか、技術楽観主義者の多くは、死を治すべき病と考え、その努力に多額の資金を投じている。みずからを「トランスヒューマニスト」と呼ぶこうした技術楽観主義者は、世界でもとくに影響力の大きいテクノロジー企業が集まるシリコンバレーの、大富豪の白人男性のなかに多く見られる。もっとも有名で強い影響力を持つのはレイ・カーツワイルだろう。現在、グーグル社で自然言語を解するソフトウェアの開発にあたっている未来主義者だ。フューチャリストとは未来についての研究や予測ができると考える人たちである。
 カーツワイルは、史上初のOCR(オムニフォント光学式文字認識システム)の開発をはじめ、大きな成功をいくつか収めている。本書執筆時点では六八歳で、以前から、永遠に生きるにはわたしたちの意識をコンピューターにアップロードすればいいと論じてきた。それももうすぐ可能だと言う。実際、その究極の技術は、いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)の到来の前に適切な扱いを考えておくべきだろう。シンギュラリティとは数学者のスタニスワフ・ウラムの造語で、コンピューターが人間の知能を超えて独自に、そして、おそらくは人間がいなくても、技術的な発達を始める時点のことである。


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