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マクニールの「世界史」のイスラム 2/2

『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より

衰退の一途をたどるイスラム勢力

 オスマン、ペルシア、ムガルという3つのイスラム帝国はことのほか無力でした。

 オスマン帝国はイギリスとフランスの支援を得て、クリミア戦争でロシアに勝利しますが、その代償は、それ以前にロシアに敗れて失った以上のものがありました。

 オスマン帝国のスルタンは、この戦争からその後、西欧の外交官の指導で、西欧的な改革を「導入しなければならなかった」のです(タンジマート改革といい、1830年代から始まっている)。

 スルタンを始め、イスラム教徒たちは、その改革が帝国内のキリスト教徒に益するものであり、イスラム教の原理から外れるものであり、その不満を口にする程度のことしかできません。スルタンは、帝国の存亡が「ヨーロッパ列強の支持」にかかっていることを知っていました。1870年まではイギリス、その90年まではドイツがその役割を果たします。

 外部からの支援がないと国家がどうなるか、はムガル帝国が証明しました。

 1857年、オスマン帝国がロシアに勝利したという報道が伝わると、東インド会社のインド人傭兵(セポイ、イスラム教徒もヒンドゥー教徒もいた)は、イギリス人支配者に対し反乱(対英大反乱)を起こします。

 短期的にはイギリス人を海外に駆逐するまでの勢いを見せたが、明確な政治目標を欠いており、一般大衆も取り込めず、イギリスは本国からの援軍を送りこみ、反乱を鎮圧します。イギリス議会は、インドを支配していた東インド会社を解散させ、インドを本国の直接統治下に置きます。ここにムガル帝国は滅亡し、またイギリスヘの反抗の中心勢力がイスラム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒になります(1877年、インド帝国が成立し、ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝になる)。

 イラン(19世紀半ばは力ージャール朝)やアフガニスタンのイスラム教徒も同様な状況であり、ロシアとイギリスが勢力の拡大を図り、両国はどちらかの国の傀儡になるより、生き残る術がないような状態でした。

西欧の優越で解体されていく、イスラムの力

 19世紀のイスラム教指導者のジレンマは、宗教的に純粋なイスラム教を、世俗主義とどうかかわらせるかという問題でした。

 イスラム教徒は、アラー(神)が世界を支配すると固く信じており、もし、変革を行うとすれば、それはコーランの規律をより厳しく遵守する方向、初期イスラムの厳しい禁欲主義にむかうことになります。

 この流れで、スルタンのアブドウル=ハミト2世は、1878年(前年の露土戦争に敗北し、タンジマート改革を棚上げした)から、1908年(青年トルコのサロニカ革命の年、棚上げされていた憲法が復活された)までスルタン専制政治を復活させました。

 しかしこれは、失敗します。西欧の技術を学んだ青年将校は、政治に積極的に参加することを望んだからです。結果、アブドゥル=ハミトは失脚、さらに1912年からの2次にわたるバルカン戦争と第1次世界大戦で、バルカンの領土のほとんどを失います。第1次世界大戦の終結後、オスマン帝国領は戦勝国に分割されました。

 南フィリピンではアメリカ、インドネシアではオランダに、中央アジアではロシア、いずれもイスラム勢力は欧米勢力に屈辱的な従属を強いられ、曲がりなりにも独立していたイスラム国家はアフガニスタン、イラン、オスマン帝国だけとなります。

 第1次世界大戦後、オスマン帝国は講和条約に抵抗し、セーブル条約を改変させ(ローザンヌ条約)一部の失地を回復します。これを指導したケマル=アタチュルクは、スルタン制を廃しトルコ共和国を樹立、(カリフ制度も廃止して)世俗国家を目指した。

 彼は、女性のヴェール廃止など、イスラムの習俗の廃止(アラビア文字を止めてアルファペットの採用)といった改革を行います。彼の改革は確かに民族主義的感覚を育てますが、一方でイスラム教への愛着が社会には存在しました。ただし、近代産業の育成には、ほとんど成果を上げることができませんでした(これは現代も多くのイスラム国家が抱える問題でもある)。

 このようなジレンマは、イランとサウジアラビアではさらに深刻でした。イランで、カージャール朝に代わり、パフレヴィー朝を建てたレザー=パフレヴィーの政策は、ケマル=パシャと似た方針を実行します。しかし国王権力は脆弱で、イスラム信仰がより強かったため、近代化は遅々として進まず、アフガニスタンでも事態は同様でした。

世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国

 サウード家は19世紀以来のワッハーブ派を信奉していましたが、イブン=サウードは、ワッハーブ派の理念を実現するのではなく、自分の支配下にある諸都市の間の道路などを整備し、サウード家の中央集権体制を固めます。アラビア半島の地下に眠る膨大な石油がもたらす利益は、ワッハーブ派の理念を消滅させたのです。

 イスラムの世俗主義はエジプト、シリア、イラクにおいても急速に拡大します。

 この運動は、第1次世界大戦後、中東を二分していたイギリスとフランスに対する独立運動という形を取り、イラクは1932年に形式上は独立を達成した。しかしアラブの真の意昧での独立は第2次世界大戦後になります。

 1850年から1945年まで、イスラム世界の人々は政治的にも経済的にも状況を変えることができません。西欧の技術や知識に付きまとう思想から、人々はイスラム教の原理や思想を隔離したのです。このため、この問に、イスラム世界から世界的に名を上げる人は一人も出ていません。経済面でも、近代的産業はイスラム世界に根を下ろすことができません。新しい事業や技術改良は、外国人の手によるものでした。

 しかしそれでもイスラム社会は、ムハンマドヘの信仰は生きた信仰であり続け、その宗教儀礼は、極めて西欧化された信者の間でも遵守されます。すなわち、20世紀のアフリカ中央部や西部地域では、イスラム教への改宗が続いていたのです。

イスラム世界の新しい動き

 1979年のイラン革命は、マスコミが宗教的扇動を行った良い例です。ホメイニのシャー政府弾劾の演説はひそかに放送され、民衆の支持を集め、権力を掌握します。彼は、1989年まで政権を維持し、国内ではシーア派の律法をまもらせ、対外的にはアメリカ合衆国との戦いを呼び掛けました。

 イスラム教国は他の諸国と比べ、ムハンマドのイスラム教創始以来、宗教と政治は強く結びついていました。そしてこの状況が、少数派のイスラム過激派(ここの段階では、パレスチナ解放機構のことか?)の存在を生み出す一因ともなります。

 彼らはパレスチナ人と結び、イスラエルヘのテロを行い、それ以外にも矛先を向けます。この混乱は外交の同様にも現れました。1973年(第4次中東戦争)以降、アメリカは、イスラエルとエジプトに武器を供与し、両国の和平実現に貢献します。

 さらにイスラエルとパレスチナ解放機構との間にも、不安定ながら協定を結ばせます(1993~94)。しかし永きの平和は実現しません。
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マクニールの「世界史」のイスラム 1/2

『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より

アジアからヨーロッパに広がるイスラム世界

 ムハンマドがイスラム教を創始して以来、イスラム世界の領域は拡大し続け、1500年以降もそれは変わりませんでした。1700年までの200年間は、イスラム史の中で一番の成功をおさめた時代ともいえるでしょう。

 一例をあげれば、16世紀インドに成立したムガル帝国は、17世紀後半にアウラングゼブ帝によりほぽ全インドを統一します。

 東南アジア地域は、イスラム商人やスーフィーの活躍で、イスラム教が徐々に広がり、16世紀にはマレー半島にはイスラム教をとりいれた海港都市(マラッカが有名)も現れます。16世紀前半にはジャワのマジャパイト王国を滅ぼし、イスラム教はフィリピンにまで進出します。

 またアフリカでは、初期の交易に加え、さらに軍事的・政治的圧力もあり、地方にまでイスラム教が広まりました。

 ヨーロッパでもイスラム勢力の拡大は続きました。16世紀中ころまでにハンガリーがオスマン帝国の支配下に入りました。1683年(第2次ウィーン包囲の年)まで、ポーランドやオーストリアのハプスブルク家に対する戦いは、オスマン帝国側に有利に進められます。しかし第2次ウィーン包囲の失敗以降も続いた戦争の結果、ついにハンガリーはオーストリアの支配下に入りました。それでもなお、ルーマニアなどではオスマン帝国が支配を行いました。

 ただ中央アジアでは少し事情が異なりはじめます。すでにロシアがカザン=ハン国やアストラハン=ハン国を滅ぼし、中央アジアの西方にモンゴルが進出、ラマ教が影響力を持ったのです。

 この地帯は、海上の交通路が盛んになったこともあり、商業的には大きな利益が期待できません。よって、イスラムの商人や伝道者が進出を止めた、という事情も考えてみるとユニークかと思います。

後退の兆しが見え始めるオスマン帝国

 しかしながらこのような新しい経済状況が出てきても、オスマン帝国で、マニュファクチャー(工場制手工業、産業革命の前段階として考える)への脱皮は始まりません。16世紀後半、オスマンの軍団(猛勇で知られるイェニチェリ)の兵士たちの結婚が認められ、彼らは都市の職人たちの家族と通婚、その結果得られた利益を産業や商業には向けず、高位を望む官僚への高利貸しに使います。そして、借りた官僚は支払いのため、民衆を搾取します。

 このような状況で、オスマン帝国の輸出品は農産物に限られる、という事態になってしまいます。これはビザンティン帝国の末期、イタリアの諸都市がレヴァント貿易のド権を乗っ取ったという状況に似ており、オスマン帝国には不吉な兆しとなりました。

イスラム世界におけるシーア派のうごき

 16世紀、イスラム世界は深刻な宗教的対立を経験します。イスラム教の大きな宗派のスンナ派とシーア派の対立、特にシーア派は細かな宗教的セクトに分裂していたことが火種となっていました。

 しかし、それぞれの地方で、宗教的寛容があり、特別な攻撃を受けない限り、異論を唱える集団の存在も黙認しました。ですが1502年、この均衡が破れます。

 シーア派を信奉するイスマーイール=サファヴィーは、1502年(01年とも)、イランのタブリーズでシャー(ペルシア語で「王」の意味)として即位、サファヴィー朝が始まります。彼は、瞬く間に新国家を建設します。

 イスマーイールはシーア派で定めた12人のイマーム(シーア派で「カリフ」にあたる称号)の7番目の人物(同名異人だがイスマーイールという)の子孫として、権威づけを行うのです。

 サファヴィー朝が正統となると、イスラム世界で成立した他の王朝の権威を否定する、つまり、創設者たちは簒奪者となります。

 イスマーイールの支持者たちが1514年、オスマン帝国に立ち向かいます。当時のオスマン帝国のスルタン・セリム1世は、シリアやエジプト、アラビア半島を支配、メッカとメディナの2大拠点をおさえ、イスマーイール派の拡大を防ぎます。

 セリムに続くスレイマン大帝は、宗教上の公職者を国家管理の下に置き、スンナ派の教義の組織化を図ります。シーア派の狂信性を嫌う神学者たちは、この方針を受け入れます。一方のイスマーイール=シャーは、スンナ派やシーア派内の異端を弾圧し、さらにはキリスト教プロテスタントで行われた「家族の信仰の確認問答(小教理問答書)」のようなものまで部下に行わせ、その教理の浸透を図ります。

 このような対立は、他の多くのイスラム教徒を困惑させました。

 インドのムガル帝国は、創設者のバープル、2代目のフマーユーンらは、立場を強化するためサファヴィー朝の力を頼ります。しかしインドでの覇権が確立すると、シーア派から独立、スンナ派を採用、アクバル大帝はヒンドゥー教やキリスト教にも寛大な姿勢を示します(その後、アウラングゼブはスンナ派イスラム教を強制する)。

 サフアヴィー朝は、16~17世紀に君臨したアッバース1世の時代に最盛期を迎えました。この時代になると宗教的革新の火は衰え、彼の死後にはオスマン帝国と継続的な休戦協定を結びます。

 緊張がゆるみ、オスマン帝国でも、隠れシーア派の信仰が認められると、クレタ島やブルガリア南部やアルバニアなどで、キリスト教からイスラム教に改宗するものも増えます。マクニール先生は触れていませんが、旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ地方でも、オスマン軍団のイェニチェリに入営する目的で、イスラム教に改宗するものが増えます。これが、現代史のバルカン問題を複雑化させる一因となるのです。

新進の軍事力かアラーの恩寵か

 オスマン帝国は、1699年のカルロヴィッツ条約(第2次ウィーン包囲後の講和)で、ハンガリーのほとんどをオーストリアに割譲しました。戦闘での勝利こそがアッラーの恩寵の証と信じるイスラム教徒にとって、この敗北は衝撃でした。

 さらに18世紀の後半、ロシアとの戦いにも敗北し続け、1774年のキュチュクカイナルジー条約の結果、ロシアがバルカン半島に大きな影響力を持つようになります。

 ロシア人はかつてキプチャク=ハン国の支配を受けた民族であり、オスマン帝国で、ギリシア正教はスルタンの庇護下にありました。つまりロシア人は、バルカン半島のキリスト教徒と同様、スルタンの臣下であるという感覚でみていたのです。

 そのロシア人に敗れたのは、屈辱でした。イランのサファヴィー朝はすでになく、インドでも1774年(1757年のプラッシーの戦い以後、ムガル帝国の形骸化は急速に進んでいた)イスラム教徒の主権は揺らいでいます。

 このような状況で、イスラム教徒は「背信」か「アラーが再び歴史を変えてくれる日を待つか」の選択を強いられます。すなわち、ヨーロッパの軍事力を学ぶか、イスラム世界の腐敗を取り除きアラーの恩寵を取り戻すか、でした。しかし改革者たちの努力は相殺され、一般の民衆はさらに大きな混乱の中に置かれることとなります。

時代に追いつけないワッハーブ派の運動

 イスラム世界が混乱する18世紀、アラビア半島の有力者イブン=サウード家に頼って改革運動を行ったのが、ムハンマド=イブン=アブドウル=ワッハーブでした。

 彼の教えは簡単で、「ムハンマドの昔の信仰生活に戻ろう」というものでした(イスラム近現代史の原理主義の初めになる)。

 改革運動は18世紀後半アラビア半島全域で支持を集めていましたが、19世紀初め、近代的装備のエジプト軍(当時のエジプトの指導者はムハンマド=アリー、彼はナポレオンの遠征をみて目覚め、やがてオスマン帝国から独立)に敗れました。

 (サウド家とワッハーブ派の関係は今日まで続いているが)ワッハーブ主義は、インドやオスマン帝国の敬虔なイスラム教徒の心を掴みます。

 スンナ派の「聖句の機械的な暗唱でよし」とする立場に、ワッハーブ派は厳しく反対しました。しかしベドウィンのような純朴な人々には受け入れられても、都市生活者たちは、世界が非常に複雑な様相であることを知っており、ワッハーブ派の教えに従えば全てが上手くいくとは信じません。

 ワッハーブ派は、イスラム社会の中で活発な知的活動を作り出すことができず、古い行動様式から脱することをさらに困難なものにしたのです。

変われないオスマン帝国

 ヨーロッパの技術を借用して、イスラム諸国を強大に蘇らせようという試みは、1850年以前には成果を上げませんでした。一部改革らしきものも行われましたが、続いているオーストリアやロシアとの戦争で、たまに勝利することがあると、その時こそ改革の必要性を認識するチャンスであったにもかかわらず、改革を継続しようという機運は出てきません。

 本格的な改革は、ギリシア独立戦争(1821~29年)およびセルビアでの反乱(1804~17年)の後になってからでした。しかし、ムハンマド=アリー(マクニール先生は、成り上がり者の反逆者と手厳しい)によるエジプト独立、イェニチェリ軍の反抗などがあり、改革は一向に進みませんでした。
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公共図書館の増加とその在り方 2015年11月

『クロニクルⅣ』より 2015年11月 ⇒ 出版界は完全に本の意味をなくしている。本は読まれて、市民の間に変化を起こさせるもの。それがわかっていない。

TSUTAYA図書館に対して、批判が出され続けている。それらの主たるものとして、福富洋一郎「武雄市をモデルとした新図書館建設の再考を求める要望書」(『出版ニュース』11/5』、田井郁久雄「虚像の民営化『ツタヤ図書館』」(『世界』12月号)、相川俊英「嫌われツタヤの『図書館戦争』」(『FACTA』12月号)が挙げられる。ここでは田井の言及を取り上げてみる。

 *ツタヤ図書館の本質的問題は選書や分類ではない。表面化した事例の下に根を張っているのはCCC指定管理の、図書館民営化そのものの構造的問題なのである。

 *武雄図書館の改修前の11年度入館者数と貸出点数は25万人、34万点、改修後の13年はそれぞれ92万人、54万点で改修前と比較し、3・6倍と1・6倍、14年は80万人、48万点で3・1倍、1・4倍になったと喧伝されたが、これにはトリックがある。改修後の武雄図書館は、図書館・歴史資料館と商業施設の蔦屋書店・スターバックスの複合で、「入館者数」はこの建物全体の入口でカウントされたものであり、図書館の入館者数ではない。

 *13年度の貸出利用者数は16万人弱で、入館者数に対し、18%でしかなく、通常の割合は多くても3倍だから、あまりに少な過ぎるし、ほとんどの図書館の場合、入館者数より貸出点数のほうが多い。これから推測すると、13年の92万人と発表された入館者数のうち、貸出利用者数は50万人、それ以外の40万人は商業スペース利用者と見学を目的とする人たちである。

 *貸出点数はH年の1・6倍だが、開館時間は1・8倍になっているので、それに見合うほどの増加になっていないし、4・5億円の改修費用も反映されているとはいえない。それに登録者数は市内在住者は35%であり、武雄市民に限れば、貸出点数はむしろ減少したのではないか。

 *武雄図書館改修はCCC指定による運営を前提としたもので、総務省の指定管理者は複数の申請者から事業計画書を提出させ、その中から適切な提供者を議会の議決を経て指定するという手順を必要とするが、それを無視し、市長が独断で決定している。これにより、すべてがCCC主導となり、自治体は主体性を失い、指定管理者にお任せする関係となった。これは武雄市に限らず、その後計画された「ツタヤ図書館」に共通するものである。

 *そのために蔦屋書店とスターバックスによる商業スベースが前面に展開され、その背後に図書館が配置される構成になっている。つまり蔦屋書店とスターバックスが主役で、図書館は引き立て役なのである。しかも指定管理期間は5年で、継続は可能だが、CCCが撤退してしまえば、商業スペースも含め、他の事業者が引き継いだり、直営に戻すことは難しい。すでに市長は交代してしまっているし、あとはどうなるのか。

 【その他にも経費削減のレトリック、施設使用料の問題、税金の使途などにも及んでいるのだが、それらは直接読んでほしい。『世界』はそれこそTSUTAYAでは売っていないし、買切少部数雑誌であるけれど、ここまで武雄図書館の実像に迫った分析はないからだ。図書館のみならず、出版社や取次も必読の論文である。大学図書館科教師を見直す思いだ。なお福富洋一郎の「要望書」も田井の「虚像の民営化『ツタヤ図書館』」と同様の指摘を行なっていることを付記しておく。また慧眼な読者はこの「ツタヤ図書館」問題が、前回の本クロニクルで言及したTSUTAYA書店の出版物販売実態と重なっていることに気づかれるであろう】

第7回図書館総会展のフォーラム「公共図書館の役割を考える」で、新潮社の佐藤信隆社長は図書館に向けて、「著者と出版社が合意した新刊本」に限定し、1年間の貸出猶予を求める要望書を年内に通知すると発表。その理由として、「著者からの声が強く、放置できないほどになっている。すべて貸出に原因があると思わないが、相関関係はあると感じられるし、著者が書くことのモチペーションを維持できなければ、最終的に出版文化の衰退につながる」ことを挙げている。

 【これらの問題の根底に横たわるのは、日本の書店事情を弁えることなく、80年以後バブル的に膨張した公共図書館の増加とその在り方である。60年代に800館だった公共図書館は現在では3300館近くに及ぶに至った。それは単に館数が4倍になっただけでなく、面積においてはそれをはるかに上回るものとして設置された。都市の場合は事情が異なるにしても、80年代以後に増加した地方の公共図書館の場合、地元の書店よりも広く、在庫も多く、さらに地方ならではの車社会に対応するように、これも広い駐車場を備えて開館されている。つまりいってみれば、全国各地において、いずれも最大の坪数、在庫、駐車場を有する「無料貸本屋」が出現したことになる。

 その結果として、80年に1億3000万冊だった貸出数は、10年に7億冊を超え、書籍の推定販売冊数を超えるに至る。街の中小書店がこれらの影響を蒙らないはずもなく、坪数、在庫駐車場、そして何よりも「無料」に対抗できずに退場していくしかなかった。その結果、地方によってはTSUTAYAとブックオフしか残らず、それでいて町村合併もあったことで、生活環境において書店よりも公共図書館のほうが多いという現実を見ている。日本の出版社は町の中小書店によって支えられてきたわけだから、その販売拠点だったそれらが失われれば、売れなくなるのは自明の理といえよう。

 80年代に隆盛を迎えたロードサイドビジネスを主とする郊外消費社会は、コンビニエンスと安さをコアにして成長したのであり、公共図書館も「無料」をコアとし、広い駐車場を備えたロードサイドビジネスの一種と見なすことができる。しかし各分野のロードサイドビジネスが「民」によって担われたことに比し、公共図書館は「官」によって推進されたことに留意すべきだろう。他の分野では見られない民業圧迫とも捉えられる。すなわち町の中小書店と公共図書館の棲み分けの問題、それに連なる公共図書館の蔵書と在り方に関しての論議もなく、各自治体の横並び政策によって出現してきたのが現在の大半の公共図書館の位相と考えられる。

 それゆえに「ツタヤ図書館」問題は、現在の公共図書館と構造的に地続きなのである。もちろん新潮社の思いもわかるが、貸出猶予はそうした公共図書館の歴史と構造、それこそ現在のユーザーのリクエスト状況からいっても、実現は難しいだろう。それよりも出版社、取次、書店は自己破産しかねない危機にあるのに、公共図書館だけが他人事のように傍観していていいのかと発し、現在の在り方を問い、ひるがえって無料貸出を待つのではなく、一刻も早く買ってでも読みたいと思わせる著作の出版に邁進すべきだ。それが新潮社の歴史だったといえるのではないか」

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TSUTAYA図書館問題 2015年10月

『クロニクルⅣ』より 2015年10月

『週刊朝日』が『週刊ダイヤモンド』と同じスタンスで、「『ずさんな選書』にCCCが反省」(10/2)、「『リアル図書館戦争』各地で戦線拡大」(10/9)、「『海老名ツタヤ図書館』内幕新たな疑惑に市民が激怒」(10/16)、「海老名TSUTAYA図書館ポリシーなき選書と驚愕のジャンル分け」(10/23)という記事を毎週発信し、最新号ではまさに「週刊ツタヤ図書館山口・周南市でも反対署名」(11/6)とあるので、まだ続いていくのだろう。これらの記事に併走するように、新聞などでも同様の記事が発信された。その一方で、小牧市は住民投票でツタヤ図書館は否決されている。

 【本クロニクルは一貫して、CCC=TSUTAYAと日販、MPDのジョイントによる大型出店などに対して批判してきたが、このようなマスコミのTSUTAYA図書館への一斉バッシングには違和感を覚える。これらのバッシングの背景にあるのは、まず公共図書館は「官」に属するもので、「民」にまかせるべきではないという「官雄民県」の考えが抜きがたく潜んでいるように思われるからだ。しかし拙著『図書館逍遥』でも示しておいたが、近代図書館史をたどれば、戦前は私立図書館の時代であり、出版物がそうであるように、「民」の領域に属していた。戦後の公共図書館、学校図書館にしても、それらはGHQ占領下に教育改革の一環として設置が推進されたのであり、内発的なものではなく、60年までは全国で公共図書館は800館で小規模なものだった。現在の3300館というバブル的増殖は90年以後のことで、そうした時代において、日本図書館協会、大学図書館科の教師たち、各地の教育委員会からなる図書館官僚たちが新たに形成されてきた。TSUTAYA図書館に向けられた一斉バッシングは、彼らの思考とまったく重なる地平から発せられている。しかし現在の社会状況から考えれば、公共図書館の一部の民営化は必然的な流れであり、そうした中で新しい図書館、図書館人が生まれてくるべきなのだ。それゆえにこのような一斉バッシングは、すべての図書館民営化の否定になってしまうことを危惧せざるを得ない。また最も問題なのは、市長や行政側が政治的パフォーマンスのために文化政策をスローガンとして図書館事業を利用し、市民に説明責任を果たすことなく、トップダウン方法でCCC=TSUTAYAを選んだことにある。しかも本クロニクルで既述しておいたように、元武雄市長のCCC誘致エピソードはまったくのフィクションだったという事実も明らかにされている。その絡みもあって、CCC子会社の社長に就任したと思われる」

海老名市立図書館で、TRCはCCCと共同事業体となり、中央図書館はCCC、有馬図書館はTRCが運営、2館の統一館長をTRCの谷一文子会長が務めていた。しかしCCCとの関係を解消し、今後共同で図書館事業は行なわないし、海老名市立図書館も離脱すると表明。

 TRCの石井昭社長はその理由として、図書館運営に関する理念の違い、コミュニケーションの不成立、個人情報の扱い方に関する意見の相違などを挙げている。

 【すでに04年からTRCは公共図書館の指定管理・業務委託事業に参入し、双方で450館近くを運営している。それゆえに今回のCCCとのジョイント、CCCをめぐる海老名市立図書館報道、小牧市の住民投票などにより、図書館事業におけるCCCとの提携を断念したと考えるべきだろう。もちろん図書館官僚たちとの板挟みになるのを避ける意味も含めて。

 〈付記〉これを書いたのは10月29日だが、30日になって、TRCが海老名市立図書館からの離脱表明を撤回し、今後もCCCと共同運営を継続していくことが明らかにされた。それは内野優市長の定例会見によるもので、所謂「政治的決着」であることをあからさまに示している】

『週刊東洋経済』(10/31)が巻頭特集「TSUTAYA破壊と創造」を組み、CCCの「企画会社」としての素顔、TSUTAYA図書館問題、増田宗昭社長への「独占直撃インタビュー」を掲載している。

 【〔5〕と〔6〕などのTSUTAYA図書館問題を背景にして、この「特集」が組まれたことは明らかだ。だがそれはともかく、増田社長自身も登場し、「俺たちはお化けなんだよ、本当の姿を見たことがない」というCCCの実像の簡略なチャートが提出されたことだけでも評価すべきだろう。これまでこのようなまとまった特集は業界紙でもビジネス紙でも、組まれたことがなかったからだ。「企画会社」としてのCCCは書店、レンタル事業のTSUTAYA、出版などのカルチュア・エンタテインメント、カード事業のCCCマーケティングなどの連結子会社49社を抱え、15年3月期は売上高2004億円で、前年比2・3%増となっている。これは6年ぶりの2000億円台の回復だが、11年に非上場化したので、詳細な業績数値は不明とされる。しかし特集の推定するところによれば、収益源の5割はFC料、直営店2割強、Tポイント2割強、インターネット1割強である。それはCCCが「マルチ・パッケージ・ストア」と呼ぶ複合型書店を対象とするFC企業であることを示している。カード、ネット、出版、図書館事業などにも進出し、様々に展開しているように映るけれど、その収益の7割強はTSUTAYAのFCと直営店事業によっていることになり、CCCは「お化け」ではなく、その「本当の姿」はFCとレンタル事業をコアとする企業なのだ。

 FCということでいえば、セブン-イレブンがトーハンをビジネスモデルとしてスタートしたように、CCCは日販の金融と流通システムの中にFCとレンタル事業を持ちこみ、成長してきたといえるだろう。そして出店においても様々な手法が駆使され、いくつもの子会社が絡み、FC事業そのものがロイヤリティだけでなく、多様な利益を生み出す仕掛けになっていると思われる。CCCの歴史は80年代のビデオレンタルの発祥とともに始まり、それは全国各地で無数に族生したが、CCCがサバイバルし、90年代にビデオ・CDレンタル業界の最大手に成長したのは、ひとえに日販との提携であった。日販はトー(ンに追いつき、追いこすために、書店は書籍雑誌より収益率の高いレンタルを導入するために、複合型出店を選択せざるをえなかった。また大店法の規制緩和と廃止によって、90年代以後の大型出店化も、CCCの成長に拍車をかけたのである。しかしその一方で、CCC=TSUTAYAの成長と反比例するように、出版物売上高はマイナスの一途をたどり、この20年間で1兆円が失われる状況を迎えてしまった。これが「縮小市場でひとり成長を遂げた」、「リアル書店では国内最大手」CCCのかたわらで起きていた事実に他ならない。

 そしてさらに補足しておけば、本クロニクルなどで指摘しておいたが、TSUTAYAの直営店にしてもFC店にしても、大型店としては書籍や雑誌を驚くほど売っていない。ちなみにこの特集で15年3月期の書籍雑誌売上高は804店で1212億円とされている。ということは1店当たり約1億5000万円、月商1250万円である。これでは書籍雑誌販売は赤字の店が多いと推測される。ただ代官山蔦屋書店は月商9000万~1億円だとされているが、紀伊國屋、ジュンク堂、有隣堂はいずれも1店舗当たりがそのレペルにある。したがって特集において、TSUTAYAの書籍雑誌マーチャンダイジングとしての「管理力」「展開力」「商品力」が写真入りで紹介されているが、実効力に関しては疑問を抱いてしまう。日販にしても、TSUTAYAの書籍雑誌販売で売上に見合う利益を上げているのだろうか。それゆえにCCC=TSUTAYAは「書店チェーン最大手」となっても、それはFC企業としての集積の結果で、それも単店における出版物販売状況がいかに危ういものであるかがわかるだろう。それでもCCCは16年も蔦屋書店とTSUTAYAを次々に開店させるという。その先には、CCCにしても、日販やDMPにしても、また出版業界にしても、何か待っているのであろうか】
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図書館の目的は変革を起こすこと

ズボンがほしい

 普段用のズボンがほしい。簡単にはけるやつ。だけど、短パンだと、また、奥さんから文句を言われる。金曜日のユニクロの広告で決めましょう。2千円以下であることが条件ですね。

本は進化しないといけない

 本は事実をどう伝えようか、または主張をどう伝えようか。それに拘る時です。今のように、受けた人が勝手に頭の中で再構成しようとするから売れないのです。そんなリテラシーがなくても、本来はできるはずです。人間にとって、考えることは自然なんだから。

図書館の目的は変革を起こすこと

 図書館の目的を「無料貸し出し」とすることは間違っています。変革が目的です。本を貸すと言っても、コンテンツがつながっていないのではダメです。コンテンツを自分たちのモノにしていく。市民と一緒になって考える。そのための母体です。無料とか有料とか関係ないです。TSUTAYAも関係ない。関係あるのは教育委員会です。

 学校と家庭を変える、最大限のモノが図書館にあります。アマゾンとかジャンク堂とかTSUTAYAのこととかビレッジバンガードのこと、これらをつなげていって、どうなっているのか、どうしたいのか、本当に救うための手段を皆で考えることです。

人工知能で知識を駆動させる

 人工知能は知識を駆動する装置です。参考資料にしてもコンテンツも時系列とかNDCで並んでいるだけではダメです。個人の趣味でつながり、それらがまとまっていく、そのダイナミックさです。始めて、それで活きてきます。

『帰ってきたヒトラー』

 『帰ってきたヒトラー』イギリスにもアメリカにもよみがえっている。ドイツは東ドイツ生まれの原子物理学のメルケルがどうにか持ちこたえている。多様化への反発の仕方としては間違っています。不幸への道です。市民が覚醒する道を選ぶしかない。そのことを人類は早く理解しないと滅亡する。
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