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マクニールの「世界史」のイスラム 2/2

『2時間でわかるマクニールの「世界史」』より

衰退の一途をたどるイスラム勢力

 オスマン、ペルシア、ムガルという3つのイスラム帝国はことのほか無力でした。

 オスマン帝国はイギリスとフランスの支援を得て、クリミア戦争でロシアに勝利しますが、その代償は、それ以前にロシアに敗れて失った以上のものがありました。

 オスマン帝国のスルタンは、この戦争からその後、西欧の外交官の指導で、西欧的な改革を「導入しなければならなかった」のです(タンジマート改革といい、1830年代から始まっている)。

 スルタンを始め、イスラム教徒たちは、その改革が帝国内のキリスト教徒に益するものであり、イスラム教の原理から外れるものであり、その不満を口にする程度のことしかできません。スルタンは、帝国の存亡が「ヨーロッパ列強の支持」にかかっていることを知っていました。1870年まではイギリス、その90年まではドイツがその役割を果たします。

 外部からの支援がないと国家がどうなるか、はムガル帝国が証明しました。

 1857年、オスマン帝国がロシアに勝利したという報道が伝わると、東インド会社のインド人傭兵(セポイ、イスラム教徒もヒンドゥー教徒もいた)は、イギリス人支配者に対し反乱(対英大反乱)を起こします。

 短期的にはイギリス人を海外に駆逐するまでの勢いを見せたが、明確な政治目標を欠いており、一般大衆も取り込めず、イギリスは本国からの援軍を送りこみ、反乱を鎮圧します。イギリス議会は、インドを支配していた東インド会社を解散させ、インドを本国の直接統治下に置きます。ここにムガル帝国は滅亡し、またイギリスヘの反抗の中心勢力がイスラム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒になります(1877年、インド帝国が成立し、ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝になる)。

 イラン(19世紀半ばは力ージャール朝)やアフガニスタンのイスラム教徒も同様な状況であり、ロシアとイギリスが勢力の拡大を図り、両国はどちらかの国の傀儡になるより、生き残る術がないような状態でした。

西欧の優越で解体されていく、イスラムの力

 19世紀のイスラム教指導者のジレンマは、宗教的に純粋なイスラム教を、世俗主義とどうかかわらせるかという問題でした。

 イスラム教徒は、アラー(神)が世界を支配すると固く信じており、もし、変革を行うとすれば、それはコーランの規律をより厳しく遵守する方向、初期イスラムの厳しい禁欲主義にむかうことになります。

 この流れで、スルタンのアブドウル=ハミト2世は、1878年(前年の露土戦争に敗北し、タンジマート改革を棚上げした)から、1908年(青年トルコのサロニカ革命の年、棚上げされていた憲法が復活された)までスルタン専制政治を復活させました。

 しかしこれは、失敗します。西欧の技術を学んだ青年将校は、政治に積極的に参加することを望んだからです。結果、アブドゥル=ハミトは失脚、さらに1912年からの2次にわたるバルカン戦争と第1次世界大戦で、バルカンの領土のほとんどを失います。第1次世界大戦の終結後、オスマン帝国領は戦勝国に分割されました。

 南フィリピンではアメリカ、インドネシアではオランダに、中央アジアではロシア、いずれもイスラム勢力は欧米勢力に屈辱的な従属を強いられ、曲がりなりにも独立していたイスラム国家はアフガニスタン、イラン、オスマン帝国だけとなります。

 第1次世界大戦後、オスマン帝国は講和条約に抵抗し、セーブル条約を改変させ(ローザンヌ条約)一部の失地を回復します。これを指導したケマル=アタチュルクは、スルタン制を廃しトルコ共和国を樹立、(カリフ制度も廃止して)世俗国家を目指した。

 彼は、女性のヴェール廃止など、イスラムの習俗の廃止(アラビア文字を止めてアルファペットの採用)といった改革を行います。彼の改革は確かに民族主義的感覚を育てますが、一方でイスラム教への愛着が社会には存在しました。ただし、近代産業の育成には、ほとんど成果を上げることができませんでした(これは現代も多くのイスラム国家が抱える問題でもある)。

 このようなジレンマは、イランとサウジアラビアではさらに深刻でした。イランで、カージャール朝に代わり、パフレヴィー朝を建てたレザー=パフレヴィーの政策は、ケマル=パシャと似た方針を実行します。しかし国王権力は脆弱で、イスラム信仰がより強かったため、近代化は遅々として進まず、アフガニスタンでも事態は同様でした。

世俗主義で西欧に対抗するイスラム新進国

 サウード家は19世紀以来のワッハーブ派を信奉していましたが、イブン=サウードは、ワッハーブ派の理念を実現するのではなく、自分の支配下にある諸都市の間の道路などを整備し、サウード家の中央集権体制を固めます。アラビア半島の地下に眠る膨大な石油がもたらす利益は、ワッハーブ派の理念を消滅させたのです。

 イスラムの世俗主義はエジプト、シリア、イラクにおいても急速に拡大します。

 この運動は、第1次世界大戦後、中東を二分していたイギリスとフランスに対する独立運動という形を取り、イラクは1932年に形式上は独立を達成した。しかしアラブの真の意昧での独立は第2次世界大戦後になります。

 1850年から1945年まで、イスラム世界の人々は政治的にも経済的にも状況を変えることができません。西欧の技術や知識に付きまとう思想から、人々はイスラム教の原理や思想を隔離したのです。このため、この問に、イスラム世界から世界的に名を上げる人は一人も出ていません。経済面でも、近代的産業はイスラム世界に根を下ろすことができません。新しい事業や技術改良は、外国人の手によるものでした。

 しかしそれでもイスラム社会は、ムハンマドヘの信仰は生きた信仰であり続け、その宗教儀礼は、極めて西欧化された信者の間でも遵守されます。すなわち、20世紀のアフリカ中央部や西部地域では、イスラム教への改宗が続いていたのです。

イスラム世界の新しい動き

 1979年のイラン革命は、マスコミが宗教的扇動を行った良い例です。ホメイニのシャー政府弾劾の演説はひそかに放送され、民衆の支持を集め、権力を掌握します。彼は、1989年まで政権を維持し、国内ではシーア派の律法をまもらせ、対外的にはアメリカ合衆国との戦いを呼び掛けました。

 イスラム教国は他の諸国と比べ、ムハンマドのイスラム教創始以来、宗教と政治は強く結びついていました。そしてこの状況が、少数派のイスラム過激派(ここの段階では、パレスチナ解放機構のことか?)の存在を生み出す一因ともなります。

 彼らはパレスチナ人と結び、イスラエルヘのテロを行い、それ以外にも矛先を向けます。この混乱は外交の同様にも現れました。1973年(第4次中東戦争)以降、アメリカは、イスラエルとエジプトに武器を供与し、両国の和平実現に貢献します。

 さらにイスラエルとパレスチナ解放機構との間にも、不安定ながら協定を結ばせます(1993~94)。しかし永きの平和は実現しません。
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