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TVは終わっている

TVは終わっている

 ジャカルタのJKT48の800kmと新潟のAKB総選挙を比べて感じるのは。TVは終わるということ。

 来週は乃木坂46TVです。双方向にはもっと乗っていきたいけど、スマホがないので、有料サイトに対応できない。アプリもアマゾンタブレットでは無理です。
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宗教の社会参入 「所有」の概念と「アナーキズム」

『仏教の冷たさ キリスト教の危なさ』より 自分だけの「解脱」を目指す、仏教の冷たさ【仏教の本質】

「所有」の概念と「アナーキズム」

 一神教の「世の終わり」と仏教の「末法」は違うが、共通点はある。それはなにかと言えば、「よりよい世界の創造」である。

 切羽詰まったこの現代において、私たち人間は何かできるのか。キリスト教の言う「神の国の実現」は大げさに聞こえるが、仏教にも「末法において正法を」という発想がある。ならば、両者が共有できるビジョンはないだろうか。

 ここからは宗教の社会参入について少し考えたいと思う。英語には「理想郷」を意味する「ユートピア」という言葉がある。その語源はギリシャ語で、直訳すれば「ない場所」になる。世直ししたいという人は実に多いが、そういう人に限って足元が見えていない。よりよい世界を目指すのはいいが、ユートピアはいまだかつて「なかった」し、未来にもおそらく「ない」であろうということを忘れてはならない。

 悲しいかな、理想が高ければ高いほど、現実を見失いがちだ。かといって、理想のまったくない現実は息苦しい。現実を踏まえた上で、よりよい世界を目指すしか手がない。

 さて、宗教にはどんな理想があるのか。

 第1章で吟味した『起世因本経』では、人類にはそもそも「所有」という概念がなく、「蓄える」という発想もなく、個人個人の対立もなかったのだから、盗みも浮気も、嘘も殺し合いもなかったとされている。人類史的に考えれば、サルが二本足で歩き出した直後、あるいは縄文時代あたりの話だったかも知れない。

 現代人の世界は、これとは対照的だ。すべてにおいて、「私」が先走って、世界は「自分のもの」と「そうでないもの」に分類されてしまう。金銭や物はもちろん、皆「所有者」がいる。配偶者も子供も、「自分のもの」になってしまった。

 しかし、いちばん身近な「自分の」夫や妻子でさえ、「自分の領域を侵しかねない」と警戒する人が増えている。現代人は時間や空間にまで、「ワーク・タイム」と「ファミリー・タイム」とは別に、自分だけの「マイ・タイム」と「マイ・スペース」がなければ落ち着かなくなってしまった。

 現実ではどうだろうか。

 「集団より個人、家庭よりも私」という考えは、「自由」「責任」「人権」などの理念を生み出した。これらは、近代の個人主義における〝光〟の部分と思われるかもしれないが、実は〝陰〟の部分である。

 その陰が問題視されて久しい。人間にエゴが芽生える以前の状態へのノスタルジアも、近代の風に吹かれてこそ強くなったのではないか。ルソーの「自然に帰れ!」という叫びはその典型である。ただ、「帰れ!」と言われても、帰り道を知らないのが現代人だ。

 フランス革命前夜から今日に至るまで、新しい社会論が次々と誕生し、革命と反革命も何度となく起こり、人類全体を巻き添えにして試行錯誤が続けられてきた。その過程のうち、重大な論点のひとつは「経済学」だ。

 それと関連しているのが、やはり「所有」という概念である。「アナーキズム」の父と呼ばれるピ予・‐・ルージョゼフ・プルードンの主著『所有とは何か』で打ち出されている「所有は盗みである」というテーゼはあまりにも有名だ。

 この言葉は、実は約100年前に活動していた、同じフランス人の政治思想家ジャック・ピエール・ブリッソーの書物ですでに登場している。「不必要なものを使用せずに蓄えることは、それを必要としている人たちからの窃盗である」という主張だ。

 2000年以上前に、「盗みは所有の裏返しに過ぎない」と分析した初期仏教と驚くほどよく似ている。

マルクスが夢見た「共産主義社会」

 アナーキズムとは違う立場で、マルクスも似たような結論に達した。方法論こそ違うが、マルクスが夢見た共産主義社会では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するはずだった。

 それは「働かざるもの食うべからず」という言葉と対照的な高い理念だが、旧ソ連をはじめ東欧諸国の社会主義というハードな「社会実験」でもついに実現できなかった。

 しかし、人類はもっと公平な、もっと幸福な社会制度の夢を未だに捨ててはいない。いろいろな提案の中、最近世界中で注目を集めている「ベーシック・インカム(基本所得)」は、比較的ソフトなアプローチと言えるだろう。すべての国民に、生きるために必要な最低限の金額を無条件に支給するというアイデアである。

 この発想には、約200年の歴史があり、近年のドイツでは、革新的な「海賊党」から保守的な「キリスト教民主党」にまで支持者が増えている。

 生活保護・失業保険・年金・子供手当てなど、すべての社会保障が一本化されるため、面倒な手続きなどが不要になり、無駄な予算も削減されるというものだ。当然、「その財源はどこから?」という問題がある。

 ある提案者は「消費税100%」と言い、別の人は「相続税100%」と言い、あるいは「所得税を上げればいい」「政府紙幣を発行すればいい」など、様々な案があるようだ。

 「ただでお金がもらえるなら、そもそも仕事をする人はいるのか?」という疑問を持つ人も多いだろう。しかし、「いる」という見解もある。人間にとって、何もしないことがいちばん苦痛だということだ。それは、坐禅をすれば実感できるだろう。

 そもそも人間は、「誰かに必要とされたい」と思う生き物である。だから、働かなくても食えるという社会の中でも、「働きたい!」という気持ちが当然生じてくるはずだ。食うために働くのではない。働くことによって、人として生かされていること、人を生かせていることを実感できる。だから、働くこと自体、仕事自体が「報酬」となり得る。働くことを美学としている日本人なら容易に理解できると思う。

 いまから約60年前、ビルマ(現・ミャンマ士に赴き、しばらく政府のアドバイザーを務めたエルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーというドイツ出身の経済学者がいる。仏教国ビルマでの体験を踏まえ、彼はその主著『スモール・イズ・ビューティフル』にも収録されている「仏教経済学」を発表する。

 シューマッハーは、キリスト教圏の資本主義をビルマに押しつけるどころか、欧米の労働観を次のように批判している。「現代の経済学者は、労働や仕事を必要悪ぐらいにしか考えない教育を受けている。雇い主の観念からすれば、労働はしょせんひとつのコストにすぎず、これは、例えばオートメーションを採り入れて、理想的にはゼロにしたいところである。労働者の観点からいえば、労働は。非効用〃である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。したがって、雇い主からすれば、理想は雇い人なしで生産することであるし、雇い人の立場からいえば、働かないで所得を得ることである」

 シューマッハーがビルマで目にしていた「仏教経済学」は、彼がそれまで学んでいた西洋型の経済学とまるで違っていた。そのキーワードは八正道の「正命」、すなわち「正しい働きによって営まれる生活」だ。その観点から、シューマッハーは、欧米では負の意味しかない仕事に対して3種類の意義が見えてくるという。

 まず、働くことによって人間は自分の内にある能力を発達させ、表現することができる。それから人々と共同し、ひとつの目的に向かって働くことによって、自分のエゴを捨てることができる。そして最後には、社会生活をするために必要な物資を生産し、サービスを提供することができる。

 仏教経済学の観点から見た場合、オートメーションによって労働量を減らすことは必ずしもいいことではない。それは、肝心な「人間」を不必要なものにしてしまうからである。

 シューマッハーは、現代の経済学ではもっぱら生産を問題にし、人間と自然環境を見失っているという。政治家も消費を促しながら、そもそもなんのために消費するのかを考えていない。

 足ることを知らなくなった現代人は、幸福を追求しているつもりで、実は経済成長という回し車の中で走り続けているネズミにすぎない--。
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「難民」「移民」問題 難民受け入れは、大規模な「シェアハウス」

『仏教の冷たさ キリスト教の危なさ』より 一神教はなぜ争うのか【現実問題としての宗教】 「難民」「移民」問題

国境に「壁」を作れば争いはなくなるか

 ここでひとつ、宗教をタバコに置き替えて考えてみよう。「タバコを吸う人と吸わない人が、同じ国で生活できるだろうか?」--。それはできるだろう。

 以前の日本では、どこでもタバコを吸ってよかったし、タバコの煙が嫌な人は我慢するか、どこか別のところへ行けばよかった。いまではだいぶ風潮が変わり、様々な場所で「喫煙」と「禁煙」スペースに分ける「分煙」が一般的だ。

 そのような手段をとれば両者は共存できるが、「まったく自由にしてください」とすると、タバコを吸う人はいいが、吸わない人は困ってしまう。かといって、困る人がいるから「タバコは絶対禁止」とすると、それもまた窮屈な社会になる。

 現実に、タバコの分煙のように「宗教の違う国や民族はフェンスでも作って分ければいい」という発想も出てきている。

 まっ先に思い浮かぶのは、アメリカとメキシコの国境に建てられたフェンスである。米墨の国境は約3200キロメートルあり、そのうち1000キロメートル以上にわたってフェンスが建設されている。陸続きの国境ゆえ、不法入国者が後を絶たず、その数は毎年100万人以上とも言われる。その対策としてのフェンスなのだ。

 しかし、フェンスを建てただけでは問題の解決にはならない。

 民族や宗教ごとに仕切ったとしよう。でも、インターネット経由で、フェンスの向こう側が見えてしまう。見えてしまうだけでも迷惑という人もいるだろう。価値観や言葉、宗教などが違う人はそれぞれ別々の国や地域に住まわせておこうというのは、日本のような島国ならある程度の機密性は保たれるかもしれないが、完璧はない。

 歴史をさかのぼると、日本も江戸時代に「鎖国」という〝壁〟を建てたことがある。1639年のポルトガル船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの215年間であるが、その鎖国時代がいちばんよかったと言う日本人もいる。

 一方、鎖国期は「文明」も「仏教」も停滞していたという見方もできる。鎖国時代、仏教は幕府に飼い猫のように可愛がられたが、堕落してしまった。明治時代に入り、鎖国という壁がなくなると、仏教は叩かれて逆に成長した。

 「国も人も壁を作って、過度に異文化と交流しないほうがいい」という考えにも一理ある。しかし、私は反対だ。

 社会問題になっている「引きこもり」のように、ずっと部屋にこもって、インターネットだけを見て、バーチャルな世界にいるのはいちばん安心できるが、そのままでは成長しない。部屋から出て、知らない人と交流するのは煩わしく不安もあるが、それをしないと成長しないし、どんどん堕落する。リアルな人間関係にこそ見つけられるものがあるはずだ。

 例えば、結婚--。結婚も生活習慣の違うふたりが出会って、その違いに気づかされることがあるだろう。味噌汁の出汁ひとつとってみても、鰹節が好きだったり、昆布や煮干しがよかったり、薄味、濃い味……、人の好みは様々だ。

 ましてや私のように国際結婚だと、生活習慣どころか宗教も違う。しかし、日本人の妻から学ぶことはとても多い。

難民受け入れは、大規模な「シェアハウス」

 シリア難民に話を戻すと、難民受け入れには宗教的な対立や治安への影響、財政問題など、様々な問題があるのは事実だ。しかし、ちょっと見方を変えて、難民受け入れを大規模な「シェアハウス」だと思ってみてはどうだろう。

 この20年ほどで、日本でもシェアハウスは増えているようだが、私も昔ベルリンで大学に通っていたころ、シェアハウスで暮らしていた。生活習慣も価値観も違う者同士が集まると、「自分が冷蔵庫に入れたものを誰かが使った」「交代でトイレ掃除をするのにいつもしない人がいる」などの問題が起こる。食器を片づけていない人がいたり、夜遅く友達を連れてきて騒がしくする人がいたり、彼女を連れ込む人もいた。

 不愉快なことや煩わしいこともあり、少し家賃が高くてもひとり暮らしをしたほうが楽ではないかと思ったが、学ぶこともとても多かった。

 現時点では断定しかねるが、メルケル首相の政策も下手をすると失敗に終わるかもしれない。しかし、たとえ失敗したとしてもそれは〝意義ある失敗〟だと思う。宗教や文化の違いにより揉め事が起こったり、テロや犯罪の増加が心配されるといったデメリットもあるだろうが、経済的にも文化的にも国も国民も成長する機会にもなるはずだからだ。

 シリア人をシリアに閉じ込めて周りに壁を作ったところで、テロの問題を解決できるわけでもない。さらには世界中に壁を作り、ドイツが引きこもりの国になり、フランスもそれに続く。イギリスはもともと引きこもり体質だが、それでは国も国民の心理もあまり健全なあり方ではないと思う。

 むしろ、最初は大変でも異質なものを受け入れれば、それが免疫になるのではないか。風邪をひけば熱も出るし鼻水も出るが、何度か風邪をひくうちに身体に闘う力(抗体)ができて、風邪にかかりにくくなるのと一緒だ。

 一般的な日本人が宗教に無関心なのは、ある意味よいことでもある。しかし、それは「宗教に対する免疫がない」という弱点でもある。もう少し宗教のことを知って、かつてのカルト宗教団体が起こしたような悲劇が再び起こらないようにするために、免疫力をつけることも大事である。

 もちろん無条件に難民や移民をどんどん受け入れるのにも、やはり限度がある。また、問題も多出するだろうが、それを覚悟の上で、大きなシェア(ウスの中で切磋琢磨して、一個人として、国民として自分が成長するチャンスだと思って対処したい。それは、「明治維新」で日本が大きく成長したことを見ればわかると思う。

 お互いの社会や宗教のことを伝え合い、わかり合う努力をすることが必要であろう。

 さて、ここからは日本人のための宗教原論を考察してみたいと思う。それは言ってみれば、宗教的な無菌状態の中で育った日本人が、一神教徒に接するための予防接種のようなものだ。

 日本人は仏教に長いあいだ慣れ親しんで、自らの文化に取り込んだ。

 一方のキリスト教はなぜか、未だに「外来」のニオイがする。

 次章ではまず私が生まれ育った西洋のキリスト教と、高校生の頃から興味を持ち始めた仏教を比較してみたいと思う。そうすれば、キリスト教の「ニオイの出所」がわかると同時に、仏教の少し意外な面も見えてくるかもしれない。
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