スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
習志野きらっとスプリントトライアルの昨晩の第2回川崎スパーキングスプリント 。
先行争いが激しくなり,最後まで逃げようとしたのはコパノフィーリングとキモンルビー。枠が内だったコパノフィーリングが先手を奪いきりました。3番手にファントムバレットで4番手にプリモジョーカー。ここまでが一団。2馬身差でコウギョウブライト。6番手にエンテレケイアとマッドシェリー。2馬身差でダンディーヴォーグとジョーロノ。10番手にナガタブラック。4馬身差の最後尾にヒロブレイブ。ハイペースでした。
プリモジョーカーは内から進出し,直線の入口では外のキモンルビーと並んで2番手。4番手がファントムバレットで5番手にコウギョウブライト。プリモジョーカーはそこまで。ファントムバレットも一杯となり,逃げたコパノフィーリングを追ったのはキモンルビーとコウギョウブライト。しかし並ぶというところまではいかれず,逃げ切ったコパノフィーリングが優勝。2頭の2着争いは大接戦。写真判定の結果,内目から脚を伸ばしたコウギョウブライトが半馬身差で2着。キモンルビーがハナ差で3着。後方から大外を鋭く伸びたダンディーヴォーグが半馬身差で4着。
優勝したコパノフィーリング は昨年10月に遠征した兵庫ゴールドカップ以来の勝利。南関東重賞は昨年7月の習志野きらっとスプリント 以来の2勝目。船橋記念ではキモンルビーに敗れていましたが,雪辱を果たしました。外傷の影響で5ヶ月ぶりとなったレースを勝ちましたので,習志野きらっとスプリントでもいいレースをしてくれるでしょう。逃げた方が力を出し切ることができるようです。母のふたつ下の半弟に2010年に京成杯と日本ダービー ,2012年に天皇賞(秋) ,2013年に毎日王冠を勝ったエイシンフラッシュ 。
騎乗した船橋の森泰斗騎手 はオールスターカップ 以来の南関東重賞49勝目。その後,ダイオライト記念 を勝っています。川崎スパーキングスプリントは初制覇。管理している船橋の新井清重調教師は南関東重賞2勝目。
『スピノザ〈触発の思考〉 』の第2章に関連する考察はこれですべてです。次の考察に入ります。
第3章はアドルノTheodor Ludwig Adorno-Wiesengrundを中心とした考察です。この部分からは,僕は一点だけ説明しておきたいことがあります。それはスピノザの哲学における理性ratioというものが,自然Naturaに対してどのような関係を有しているものかということです。
浅野によれば,アドルノは,科学の構成的な原理は,自己保存にあると考えていたようです。ここでいう自己保存を,とりあえずはスピノザの哲学でいわれるコナトゥスconatusと置き換えておくことにします。一方,科学というのは,理性的に物事を解明していくすべての学問であると解することにします。アドルノがどういっているのかは僕は知りませんし,このことについては浅野も詳しい説明を与えていませんが,このことについて触れられている部分,具体的にいえば第2節の冒頭部分ですが,そこでいわれている文脈から解すると,そうした学問一般のことを科学といっておくのが,最も適切な解釈になると僕には思えます。したがってこの場合の科学は,自然科学だけを指すのではありません。社会科学もそこに含まれることになります。また何となれば理性によって物事を追求するすべてのこと,したがってスピノザの哲学のような哲学も,この科学に含まれると解してよいと思います。
構成的原理というのは,スピノザの哲学でいえば本性essentiaおよびその特質proprietasに該当するものすべてと考えるのが妥当です。スピノザの哲学では本性と特質 は異なるもの,場合によっては対立的であるものですが,特質というのは本性が与えられると必然的にnecessario帰結してくるもの,あるいは流出してくるものであって,事物の本性と特質とは,その事物の一般的な性質のすべてを意味します。ただここでアドルノがいっているのは単に性質ということではなく,原理ですから,それは原理的なものに絞って解釈しなければなりません。したがって,本性と特質のすべてを含むものとしての,基本的原理あるいは第一原理のようなものと解するのがよいでしょう。ですからアドルノがいっているのは,科学いい換えれば理性的思考の第一原理が自己保存にあるということです。
昨日の第15期マイナビ女子オープン 五番勝負第五局。
振駒 で里見香奈女流四冠が先手となって中飛車。後手の西山朋佳女王が三間飛車での相振飛車 。後手から角を交換したことで,相向飛車になりました。
第1図で後手は☖4五歩と突きました。これはすぐに歩を取られないようにするための手ですが,ここではうまい一手でした。
後手から角を交換したために先手は手得になっています。なので先攻したいところ。そこで☗9五歩☖同歩☗8五桂☖5四歩に☗4四銀と進めましたがこれは失着で,攻めるのなら単に☗4四銀とぶつけるべきだったようです。
☖4四同銀☗同角に☖4六歩。
第2図で☗同歩と取ると☖4五歩と継ぎ歩をする手があります。これは第1図で☗9五歩と突いて後手に歩を与えてしまったため。これを避けて☗3七銀としましたが☖4七歩成☗同金左に☖4一飛 と回って,後手が明確な優位に立ちました。
3勝2敗で西山女王が防衛 。第11期 ,12期 ,13期 ,14期 に続く五連覇で通算5期目の女王。永世女王の称号を獲得するとともに女流四段に昇段しました。
確かに人間は理性 ratioに従う限りで,あるいは有徳的である限りにおいて,現実的本性actualis essentiaは一致します。よって何が有徳的で何が無力impotentiaであるかという認識cognitioも一致するのです。ところが自己の有 は,自己の形相formaと同時に自己の力potentiaも意味するので,形相の維持と力の維持が相反する場合は,形相の維持を重視することも力の維持を重視することも有徳的であるということになってしまうので,ある人は力の一部あるいは全部を放棄しても形相の維持を目指すことになり,またある人は形相の維持の一部を断念しても力の維持を目指すことになるのです。
ただこのことは,次のように解するべきだと僕は考えています。
形相も力も自己の有なのですからその全部であれ一部であれ,それを放棄するとか断念するということは,大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioを意味します。第二部定義六 により完全性というのは実在性 realitasのことであり,実在性というのは力という観点からみた本性であり,自己の有を維持するということは事物の現実的本性であるからです。よって,形相を維持するために力を部分的に放棄することも,力を維持するために形相の維持を部分的に放棄することも,放棄するその人にとっては大なる完全性から小なる完全性への移行になるのです。いい換えれば第三部諸感情の定義三 によって,その人にとっての悲しみtristitiaです。したがってこれを一般的にいうなら,ある人に対してその人の形相の維持と力の維持とを相反するようにさせる何かがあるとするなら,その何かは必ずその人を悲しませるのです。ということは,第四部定理八 によって,その人にとっての悪malumです。要するに,人に対して力の維持と形相の維持を相反するようにさせるものは,その人にとっての悪であるということになります。僕の見解opinioでは,この形相の維持と力の維持が相反する場合というのは,徳virtusの観点から解するより,この悪という観点から解した方がよいのです。
このようにして,ある人に対して,激烈な副反応を惹起するような治療を強いるような病は悪です。同様に,市民に力の維持か形相の維持かの選択を迫るような戦争は,市民Civesにとっての悪であると同時に国家Civitasにとっての悪なのです。
松戸競輪場 で行われた昨晩の燦燦ムーンナイトカップの決勝 。並びは高橋‐阿部の北日本,菊池‐久木原‐横山‐真崎の関東,青野‐加藤の神奈川で脇本は単騎。
阿部がスタートを取って高橋の前受け。3番手に菊池,7番手に青野,最後尾に脇本で周回。残り3周のホームから青野が上昇。脇本は続きませんでした。バックの出口で青野が高橋を叩いて誘導は退避。2番手と3番手,4番手と5番手,8番手と9番手の車間がそれぞれ開く,長い一列棒状になりました。打鐘から高橋が発進。ホームの入口で青野を叩いて先行。菊池はその後から発進し,ずっと最後尾に構えていた脇本も発進。脇本は菊池をも乗り越えなければなりませんでしたのでかなり外を回ることになりましたが,最後の直線で逃げた高橋も差し切って優勝。高橋が4分の3車身差で2着。高橋マークの阿部が4分の3車輪差で3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の川崎のFⅠに続いての優勝。これで5開催連続の優勝。グレードレースは日本選手権 以来。GⅢは3月の玉野記念 以来となる10勝目。松戸では2019年に日本選手権 を優勝しています。16日から高松宮記念杯が開催されますので,ここはそれに出走しないメンバーでの争い。本来なら脇本レベルの選手の出走はないのですが,高松宮記念杯の出走権を失っていたためにこちらへ。ですから開催前から優勝の最有力候補でした。ホーム9番手からかなり外を回って前を捲り切ったというレース内容から,力が断然であったことは証明されています。ただこれはあくまでもこのレベルだから可能なレースなのであって,相手のレベルが上がればこういうレースは通用しません。たとえこういうメンバー構成であっても,ある程度の位置を取るレースをしておいた方がいいように僕は思います。
別の例も挙げてみましょう。
ある独立した市民国家Civitasが存在するとして,その国家にある帝国Imperiumが領土の拡充を目指して侵略してきたと仮定します。このとき,市民国家の国民Civesが,一般に形相formaを維持することを目指すなら,なるべく早期に講和をするのがよいでしょう。しかし市民国家の国民の力potentiaを維持するということを目指すなら,早期の講和がよい選択であるとは限りません。帝国の支配下に置かれることによって,市民国家の市民として有していた力,能動的自由 に含まれている思想の自由libertasとか表現の自由といわれる力が侵害されることが確実であるなら,そうした力を維持するため,形相の維持は犠牲にして徹底抗戦をする方が適切な選択になり得るからです。これも方向性が完全に異なる選択肢ですが,理性ratioに従っている限りではどちらも正しい選択なのであって,よってどちらも人間の徳virtusを表示する選択なのです。
上述の例は,ウクライナにプーチンが侵略戦争を仕掛けたという例を容易に想起させるでしょうし,僕もそれを意図して記述しています。そして上述の例から分かるように,ウクライナが早期に妥協をすることも,徹底的に抗戦することも,どちらも徳なのです。なので,どうするべきであるのかということを一律に決定することはできません。ただひとつだけいえるのは,市民国家の徳であっても,その徳は市民国家を構成する市民の徳がなくてはあることも考えることもできないような徳であるということです。つまりこの例が現実的に意味するのは,市民国家を構成するある人が形相の維持を重視し,同じ国家の別の市民が力の維持を重視するとしても,それはどちらも各々の市民の徳に基づく判断なのだから,市民国家がそれを超越して徳を決定することはできないということです。
抗がん剤の例は,あるひとりの人間のうちで,形相と力が相反することになり,それがそのひとりに帰せられる場合です。侵略戦争の例も,あるひとりの人間のうちで形相の維持と力の維持が相反することになるのですが,それが国家を構成するすべての市民のうちに生じることによって,ひとりの人間には帰せられず,国家全体にも帰せられてしまうという場合なのです。
『虞美人草 』は後に漱石自身が失敗作であったと振り返っています。また僕自身も漱石の小説としては優れたものではないと思っています。失敗となってしまった理由としては,僕は主にふたつあると考えていますので,その見解を順に示していくことにします。最初の理由は,この小説が,最初の連載小説であったという点と関係しています。
漱石は1907年に大学教授の職を辞し,朝日新聞に入社して職業作家の道を選びました。そしてその際に,大学教授と新聞屋 の間に,職業上の貴賤はないという主旨の入社の辞を紙面に寄せました。漱石がそのようなことをいわなければならなかったのは,世間的には大学教授が職業としては上で,新聞社の社員はそれに劣るというようにみられていたからです。たぶん漱石は,そうした世間的な評価に挑戦しよう,それを覆そうという意欲あるいは野心をもっていたのではないだろうかというのが僕の推測です。
このために,大学教授が学生に物事を教えるように,作家として読者に物事を教えようとする意識が漱石に働いていた,それも無意識のうちにではなく,そのことを強く意識していたのではないかと思うのです。僕は『虞美人草』の文章の中には,ペダンティックなものがあって,そのために小説自体が読みにくくなっているといいましたが,そういうペダンティックな文章が頻出するのは,漱石のそういった意識の表出だったのではないかと思うのです。物語の本筋と無関係のところでこうした文章が出てくるのは『虞美人草』が初めてであり,かつこの小説だけであるということを考慮すると,この推測はあながち間違っているともいえないのではないでしょうか。
もしも力potentiaが,存在する力だけを意味するのであれば,事物の形相formaと事物の力が相反するということはありません。しかしどのような事物であれ,存在するということ以上の力を有します。この力が,形相に相反するという場合があり得るのです。その場合,自己の有esseを維持するということを,自己の形相を維持するという意味に解しても,自己の力を維持するという意味に解しても,理性ratioに従う限りではすべての人間の結論は一致します。つまり,形相を維持することも徳virtusであるし,力を維持することも徳であるということは理解するのです。ですが力を維持しようとすれば形相の維持を断念しなければならず,逆に形相を維持しようとすれば力を維持することを断念しなければならないとすれば,どちらか一方しか選択することができません。ですからどちらを選択するかは人によって異なり得ます。つまり,第四部定理三六 にあるように,徳に従う人の最高の善bonumはすべての人に共通ではあるのですが,だからといって徳に従う人がすべて同じように行動するということにはなりません。形相の維持を選択することもあり得ますし,力の維持の方を選択するという場合もあり得るのです。
僕が以前に実例として示したのは,母が抗がん剤による治療を拒絶したことです。ここでは一般的に説明しますが,抗がん剤による治療を継続することによって,形相は維持することができます。いい換えれば,その治療をしない場合と比べて,長く生きることができます。しかし抗がん剤による治療には副作用が出ることがあり,そのことによって,なし得たことがなし得なくなるということがあります。いい換えれば,抗がん剤の治療を受けなければできていたであろうことが,治療を受けることによってできなくなるということがあり得ます。よってこの場合は,形相を維持することの方を重視すれば,力の維持の一部を断念することになっても抗がん剤による治療を受けるという選択になりますし,力を維持することの方を重視すれば,形相の維持の一部を断念しても抗がん剤による治療は受けないという選択になるでしょう。正反対の選択ですが,どちらも徳に従った選択ではあるのです。
⑪ の最後のところで天龍がいっている輪島大士 の存在とは,概ね次のようなものです。
興行という側面を考えたとき,輪島と外国人が戦うと,外国人選手が死んでしまうというように馬場は考えていたのだと天龍は推測しています。死んでしまうというのは,外国人選手が輪島に合わせた試合をしてしまうことによって,選手自身の持ち味が殺されてしまうという意味です。要するに輪島は外国人選手と対等に戦えるだけの力量を持ち合わせていないので,プロレスの試合として成立させるためには外国人選手の方が輪島に合わせる必要があり,しかしそうしてしまうと外国人選手の持ち味が激減してしまうということです。これは天龍の推測ですから,天龍はこの当時の輪島を,その程度の力量の選手であるとみていたことは確実で,馬場がプロモーターとして本当にそう思っていたのかは分かりませんが,少なくとも馬場が輪島をプロレスラーとして高く評価していたというようには考えにくいので,馬場が天龍と同じように輪島を評価していたということは,僕は事実であると判断します。輪島はたぶん本気でプロレスをやろうとしていたと僕は思っていますし,馬場もそのための指導はしたとも思っていますが,日本テレビがプロレス中継の視聴率を上昇させるために売り出そうとしていたという側面はあり,その点では戸口の雑感⑧ および⑨ でいった,アントン・ヘーシンクと似たような面もあったのも事実です。
外国人選手を相手にすると外国人選手の輝きが失せてしまうのであれば,日本人選手と当てるほかありません。そのとき,天龍と阿修羅・原 のコンビは絶好であると馬場は考えて,だから天龍が原と組んでジャンボ・鶴田 を相手に戦うことを馬場は許容したのではないかというのが,天龍の推測の全貌です。ただし,この推測が正しいかどうかは不明です。天龍は大相撲の出身で,輪島は大相撲で横綱まで務めた選手なので,天龍は輪島に対してかなりの敬意を抱いていたと僕は推測します。実際に天龍の発言の中には,あまりに輪島を過大に評価したと思えるものもあるのです。輪島という存在は馬場に一定の影響を与えたということは,『1964年のジャイアント馬場 』でも指摘されていることなので,天龍の誤解であるということはないでしょうが,いくらかのバイアスも必要なのではないでしょうか。
存在するということ,あるいは存在し得るということは力potentiaであり,存在しないということ,あるいは存在し得ないということは無力impotentiaであるというテーゼは,スピノザの哲学の基本的な原理のひとつです。そして事物の本性essentiaは,その事物の存在existentiaを鼎立します。よってスピノザの哲学でいわれる本性というのは,単に事物の形相formaだけを意味するのではありません。事物の形相も意味しますが,それと同時にその事物の力も意味するのです。その分だけ,スピノザの哲学でいわれる本性は,一般的に哲学でいわれる本性よりも広きにわたるのです。
事物が存在する力は,哲学では実在性realitasといわれます。スピノザも事物の実在性といういい方はします。ただそのときに注意しなければならないのは,事物の本性と事物の実在性は,単に観点の相違にすぎないということです。哲学的には本性と実在性は,概念notioの上で区分されます。スピノザの哲学でも概念として区分されるといういい方は可能ですが,理性的に区別されるというのが正確です。事物の形相と事物の力は,同じ事物のふたつの側面であって,理性ratioの上では分けて考えることができますが,一方だけがある事物に属して他方はその事物に属さないというようには考えることができないのです。
このために,第三部定理七 で,各々のものが自己の有に固執するsuo esse perseverare conaturといわれるときの自己の有は,自己の形相であると同時に自己の力でもあるのです。もちろん,存在するということが力であって,存在しないということが無力なのですから,自己の形相に固執するということと自己の力に固執するということは同じことを意味します。ある事物の形相が現実的に存在するということは,その事物が現実的にある力を有するということであり,ある事物が現実的に存在しない,あるいは現実的に存在することをやめるということは,その事物の無力を意味することになるからです。ですから,基本的には自己の有に固執するということを,形相の観点からみても力の観点からみても,異なった結論が下されるということはありません。ところがこれはあくまでも原則であって,そのふたつが相反してしまうという場合が生じることもあるのです。
『人間における自由 Man for Himself 』では,冒頭部分だけでなく,本文の中でもスピノザに言及されている箇所があります。適切な言及であると思われる部分が多いですが,僕からすれば不適切ではないかと思える言及も含まれていますので,それぞれの個所を紹介しておきます。ただし,フロム Erich Seligmann Frommがそこで何をいわんとしているのかということは無視して,フロムによるスピノザの解釈の正当性にのみ関連して記述していきます。
スピノザに対するまとまった言及が最初に出てくるのは,第二章の4節です。ここではまずスピノザによる人間の働きについての言及があります。それが第三部定理七 に依拠されています。人間の働きをこの定理Propositioだけに依拠してよいのかは何ともいえませんが,そのことを問題とする必要はありません。フロムが重視しているのは,この定理に依拠することによって,スピノザは,人間の働きとか人間の目標というものが,人間以外のあらゆる事物と異なったものではないといっているという点にあるからです。スピノザが人間の目標というものを明示しているのかどうかは別として,この解釈自体は妥当なものであるといえます。第三部定理七は,人間,現実的に存在する人間にだけ妥当するものではなく,自然Naturaのうちに現実的に存在するあらゆるものに妥当する定理であるからです。一方,スピノザは人間の徳virtusの基礎というのをこの定理においていました。ということは,この定理は一般的に徳の基礎であるということになるでしょう。したがって,たとえば馬にとっての徳というものがあるとすれば,その馬の徳の基礎はこの定理にあるということになるのです。同様に,もしも三角形に徳というものがあるのであれば,三角形の徳の基礎もまたこの定理にあるということになるでしょう。だからスピノザは人間の働きや目標といったものを,人間以外の事物とは異なっていないといっているのです。つまりこの部分でフロムが働きとか目標といっている事柄を,徳と解すれば,この点に関連するフロムによるスピノザの解釈は妥当であるということになるのです。
働きと目標を徳に置き換えることも,大きな問題を引き起こすわけではありません。フロム自身がこれをいった直後に,スピノザが何を徳といっているのかということに言及しているからです。
シュトラウスLeo Straussがスピノザのいう徳virtusに対して抱いていたであろう疑問,あるいは一般的に共有されるであろう懸念に対する解答はこれですべてです。ただ僕は,スピノザの哲学で徳というとき,気を付けておかなければならないことがあると考えています。これはスピノザ自身が指摘していることではありませんから,僕の見解opinioになるかもしれませんが,僕は重要なことと思っていますから,ここで指摘しておきます。
一般に哲学で事物の本性essentiaといわれるとき,それは事物の形相formaを意味しています。どのような事物にも不変の本性があって,それによって事物の形相を不変的なものとして考えることができるというのがそういった解釈の一般例であるといえるでしょう。
僕はスピノザがこの考え方を否定しているとは考えていません。ただスピノザの哲学で事物の本性といわれる場合は,それよりも広くわたっていると考えなければならないとも考えています。つまり確かに事物の本性というのは事物の形相のことを意味するのであり,とりわけ事物が第二部定理八 でいわれている,神の属性Dei attributisの中に含まれている形相的本性essentiae formalesとしてみられるとき,この哲学の一般的な解釈はスピノザの哲学にも妥当すると僕は考えます。ですがスピノザの哲学で本性といわれるときは,この種の形相的本性だけを考えればよいというものではないと僕は考えているのです。
第二部定義二 によれば,ある事物はその本性がなければあることも考えることもできないものであるのと同時に,ある事物の本性はその事物がなければあることも考えることもできないものとなっています。つまり事物の形相と事物の本性はふたつでセットであって,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えることもできないものです。これはスピノザの哲学における本性の,ほかの哲学とは異なった特徴のひとつなのですが,その点はここでは置いておきましょう。ここではこの定義 Definitioから帰結する意味 として,事物の本性は事物の存在existentiaを鼎立するのであって,事物の存在を排除することはないということがあるということを重視します。それがあることとというのは,それが存在するという意味なのです。
昨晩の第68回東京ダービー 。すべての馬が枠に入った後でミヤギザオウが座り込んでしまい,競走除外となって15頭。
イルヴェントは躓いて2馬身の不利。シャルフジンがすぐに先手を奪いました。2番手以下はカイル,タツノエクスプレス,フレールフィーユ,リコーヴィクターとリヴィフェイス,キャッスルブレイヴ,ミゲルとナッジ,トーセンエルドラド,クライオジェニック,イルヴェント,レディオスター,ノブレスノアの順で一団。ライアンはレース中に手綱が切れてしまうアクシデントがあって,それ以降はレースに参加できず,周回してくるだけになりました。前半の1000mは63秒4のミドルペース。
3コーナーから直線の入口にかけては,シャルフジン,カイル,フレールフィーユ,リヴィフェイス,キャッスルブレイヴの5頭が大きく横に広がり,内からリコーヴィクターが追い上げるという隊列。直線はまず逃げたシャルフジンと2番手で追っていたカイルの2頭の競り合いになり,競り勝ったのがカイル。内からリコーヴィクター,大外からクライオジェニック,2頭の間からフレールフィーユが追い上げてきたものの,悠々と抜け出したカイルが優勝。2着争いは接戦になりましたが,大外のクライオジェニックが2馬身差で2着。リコーヴィクターがアタマ差の3着でフレールフィーユはクビ差で4着。
優勝したカイル は南関東重賞初制覇。2歳の6月にデビューしてすでに12戦のキャリアを積んでいました。今年はクラシックを目指していて,京浜盃がシャルフジンとクビ差の2着。ですから能力の上限はここでも勝ち負けできることは確かでした。このレースはシャルフジンがハナに立つとほかの馬が競りかけなかったために,先行馬には楽なペースに。おそらくシャルフジンは距離が長かったために,2番手で追ったカイルに凱歌が上がったということだと思います。ペースを考慮すれば2馬身差は圧勝といえますが,圧倒的な能力差があるというわけではないのではないでしょうか。父は2004年にサラブレッドチャレンジカップ,2009年に黒船賞 と兵庫ゴールドトロフィー ,2010年に兵庫ゴールドトロフィー を勝ったトーセンブライト 。母の父はクロフネ 。3つ上の半姉に2019年のNARグランプリ で3歳最優秀牝馬に選出されたトーセンガーネット 。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手は大井記念 以来の南関東重賞26勝目。第58回 以来10年ぶりの東京ダービー2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞55勝目。第61回 以来7年ぶりの東京ダービー2勝目。
現実的に存在する人間が理性 ratioに従うということは,その人間の精神の能動actio Mentisを意味しています。一方,人間にとっての徳virtusは,現実的に存在する人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなすこと,つまりその人間の能動を意味します。そして理性に従う限りでは人間の現実的本性actualis essentiaは一致します。よって,人間は理性に従う限りでは徳も一致するのです。つまり,徳の基礎が人間の現実的本性であり,各々の人間が自身のコナトゥスconatusに応じて何かをなすとしても,それが理性に従ったことである限りでは,各々の人間の利益に反しません。いい換えれば,何が有徳的であり何が無力impotentiaであるかという認識cognitioは,すべての人間において一致するのです。これはたとえば,平面上に描かれた三角形が存在するとして,現実的に存在する人間はだれであれ理性を用いてその三角形を認識するcognoscereなら,その三角形の内角の和が180°であるという認識に至る,その認識で一致することになるというのと同じなのです。現実的に存在する人間は理性に従う限りでは,認識する対象が何であるのかとは関係なく,必ずこれと同じような一致した認識に至ります。ですから現実的に存在するある人間の徳とそれとは別の人間の徳が異なることにはならないのです。
このことから分かるように,第四部定理二〇 とか,第四部定理二二 は,人間に一般的な徳というものが存在しないということをいっているのではありません。むしろ徳の基礎は諸個人の現実的本性にあり,そのコナトゥスを基礎とする徳が,すべての個人において一致するということをいっているのです。なのでシュトラウスLeo Straussが感じたであろう疑問のうち,ふたつめの疑問はスピノザの哲学に対しては的外れであるのです。むしろこの種の疑問は,現実的に存在する人間は理性に従うことが困難であるとか,現実的に存在する人間が有徳的であるということは稀であるという事実を指摘しているにすぎません。そしてそれが事実であるということは,おそらくスピノザも認めるでしょうし,僕も認めます。ただいくら困難で稀なことであるといっても,それが不可能であるというわけではない以上,第四部定義八 のように徳を定義しても構わないと僕は考えます。
徳島市で指された昨日の第33期女流王位戦 五番勝負第四局。
里見香奈女流王位の先手で中飛車。後手の西山朋佳白玲・女王の三間飛車で相振飛車 。後手が一段飛車から5筋に転換し,先手が位を取った5筋から反撃していく乱戦に。この乱戦の中で先手が駒得になり,優位に立ちました。
第1図はすでに先手が有利ではあるものの,居玉なので楽観はできません。後手としてはここが最後のチャンスだったようです。
実戦は☖4五銀と打ったのですが,☗4三飛と催促するのが好手でした。☖5六銀☗同金で☖5二金打とされてしまうのですが,☗同馬☖同金☗4一飛成。☖5一歩 に☗5四香と攻め立てました。
第2図となっては後手は攻め合うのは無理。しかしそれでは先手の駒得だけが生きますので,大勢が決しています。第1図では先に☖4六歩と打ち,☗同金に☖3五銀と攻めれば,実戦の☗4三飛はなく,先手はすぐに反撃に出られないため,正しく受け続ける必要がありました。
3勝1敗で里見女流王位が防衛 。第23期 ,26期 ,27期 ,28期 ,30期 ,31期 ,32期 に続く四連覇となる通算8期目の女流王位獲得です。
第四部定理三五系二 は,確かに僕たちをを当惑させるようなことをいっているのではないかと思います。各人がそれぞれにとって有益なものを求めるときには,各人はお互いに最も有益であるどころか,最も対立し合うように思えるからです。実際に,もしも人間が与えられたままに自己の利益を追求するだけなら,人と人とは対立し合うでしょう。少なくとも対立し合う場合もあるでしょう。第四部定理三四 からして,人間が与えられたままに利益を追求するなら,ある人間と別の人間は対立的であり得るからです。
では第四部定理三四と第四部定理三五系二は矛盾するのかというと,そういうわけではありません。なぜなら第四部定理三五系二というのは,第四部定理三五 の系Corollariumであって,第四部定理三五は,人間の現実的本性actualis essentiaが一致するという意味のことをいっているからです。したがって各人はそれぞれに有益なものを求めるのですが,その求めるものが一致するので,その限りでは対立せず,むしろ相互に有益であることになるのです。ある事柄を追い求めるときに,ひとりでそれを追い求めるよりふたりで追い求める方がより大きな力potentiaでそれを求めることができるでしょう。そしてふたりよりも3人,3人よりも4人といった具合に,協同する人数が増えていけば増えていくほど,有益なものを求める力は大きくなっていきます。なのでなるだけ多くの人が自己の利益を追求すればするほど,各人は各人に対して有益になるのです。
したがって,人間が受動感情に隷属する限りでは第四部定理三五系二は成立しないのですが,人間が理性ratioに従う限りでは成立するのです。そしてこれは徳virtusの場合にも成立します。それを示しているのが第四部定理三六 だといえます。この定理Propositioは善bonumについて言及していますが,徳に従う限りでは善は万人に共通するのです。これはちょうど,理性に従う人びとにとっては最高の善が一致し,かつそれはすべての人に共通するので,すべての人がそれを楽しむことができるというのと同じ意味なのです。なぜこのようなことになるのかといえば,徳に従うということ理性に従うということは,スピノザの哲学では同じことを意味しているからです。
取手記念の決勝 。並びは吉田‐吉沢‐杉森の茨城,元砂‐三谷‐南の近畿,石原‐松浦の瀬戸内で宿口は単騎。
吉田と吉沢がスタートを取りにいって吉田の前受け。4番手に石原,6番手に宿口,7番手に元砂で周回。残り3周のバックの半ばから元砂が上昇開始。石原の横に並び,ホームの出口からまた動いていき,吉田を叩きました。バックに入って石原が反撃。元砂を叩きにいって打鐘。先行争いになりましたが,石原が叩いて先行。宿口は続かず,叩かれた元砂は後退。3番手に三谷,4番手に南という隊列に。石原ラインに続かなかった宿口は自力で発進したものの不発。この動きに乗る形になった吉田が捲り上げてきました。最終コーナーの手前で松浦が番手から発進して吉田と競り合い。この競り合いを松浦が制すると,直線は松浦の内を突いた三谷も牽制。この間に大外から伸びた吉沢が,競り合う内のふたりを差し切って優勝。松浦が半車輪差の2着で三谷が4分の3車輪差で3着。
優勝した茨城の吉沢純平選手は先月の大垣のFⅠから連続優勝。その後に出走した全日本プロ選手権記念も連勝していて,近況は好調でした。昨年8月のアーバンナイトカーニバル 以来となるGⅢ4勝目。2017年 以来となる5年ぶりの取手記念2勝目。このレースは脚力では松浦と吉田の争い。そのふたりが互いを意識しすぎるようだと,別の選手の出番もありそうとみていました。番手から発進した松浦が吉田の捲りを止めましたから,展開的には松浦が有利でしたが,三谷の差しも牽制しなければならなかった分だけ消耗も大きくなりました。その間隙を,吉田にスピードをもらった吉沢が突いたという結果でしょう。
すべての人間がひとつの原因 causaとして協同し,何らかの結果effectusを産出するproducereことが,論理的には可能です。その場合はすべての人間がひとつの個物res singularisとみなせます。よってすべての人間のコナトゥスconatus,人間一般のコナトゥスが存在し得ます。コナトゥスは徳virtusの基礎なのですから,すべての人間にとっての徳というものがあるということが帰結します。ただしその徳は,現実的に存在する諸個人の徳に反するものではありませんし,まして現実的に存在する諸個人の徳を超越するような徳ではありません。スピノザの哲学では,この条件の下で人間に一般の徳というのが考えられることになります。
諸個人の徳に反しないような人間に一般の徳,あるいは人間集団における徳がいかなる形であり得るか,つまり諸個人の徳に反しないような人間一般の徳というのがどのような形であり得るのかということの基本的な原理は,さほど難しいものではありません。第四部定理三五 によれば,理性 ratioの導きに従って生活する限りでは,すべての人間の本性natura humanaが一致するからです。このとき,この人間というのは,現実的に存在する個々の人間を意味しています。したがって,一致するといわれている本性は,個々の人間の現実的本性actualis essentiaにほかなりません。人間の現実的本性というのはコナトゥスのことですから,現実的に存在するすべての人間のコナトゥスが,それら諸個人が理性の導きに従う限りでは一致するのです。そしてこのコナトゥスが徳の基礎であるのですから,現実的に存在する人間は,理性の導きに従って生活する限りでは,徳が一致するのです。よって一致するその徳は,人間に一般の徳,人間集団の徳であるということができます。すべての人間に共通の徳であり,当然ながらそれは諸個人の徳を超越したり反したりするような徳ではないからです。
このようにして,スピノザの哲学では第四部定理三五系二が成立することになるのです。
「おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に,人間は相互に最も有益である 」。
この系Corollariumは,一読すると間違ったことをいっているように思えるのではないでしょうか。むしろこの限りでは人間が対立するようにみえるからです。
『漱石と三人の読者 』では,『彼岸過迄 』を読む際には,物語の中の時制に注意しなければならないということが指摘されています。この点を簡単に紹介しておきます。
『彼岸過迄』は,6編の短編がまとまってひとつの小説となっています。その小説全体の主人公は,須永という男なのですが,須永は最初から登場するのではありません。短編でいえばふたつめの「停留所」という物語の冒頭から登場します。そこではある男の友人という形で紹介されます。その友人が敬太郎で,『彼岸過迄』の全体は,こちらの敬太郎があちらこちらを動き回ることで成立するのです。要するに敬太郎が物語を回していく役で,その敬太郎が須永と関係することで,物語の全体の主人公が須永になるという形です。『こころ』は私が先生と出会うことで,物語の主人公は先生になるわけで,その意味では構造は似ています。ただ先生の手記のような内容は『彼岸過迄』にはありません。
須永が最初に登場する「停留所」というのは,時制でいえば現在のことです。現在というのは,敬太郎にとっての現在を意味します。その現在が,その次の短編である「報告」に続いています。しかし残りの3編の短編は,「報告」の後にあるのですが,敬太郎が知ることになる須永の過去の話なのです。そしてそのまま『彼岸過迄』は終わりますから,『彼岸過迄』の物語の終了部分というのは,物語の中の時制でいえば,「報告」で語られている内容までよりは前のことになります。いい換えれば,もしも物語が時制の順で並べられれば,第4章,5章,6章,1章,2章,3章の順です。
過去の話が物語の後の方に出てくるので,時制もその順であるように読解される可能性がありますし,実際にある時代までは『彼岸過迄』はそのように読まれていたようです。主人公である須永の現在は,後半で書かれている姿ではありません。「停留所」で説明されている須永が,敬太郎が動き回る現在の須永の姿なのです。
徳 virtusの基礎を諸個人のコナトゥスconatusに訴求するスピノザの考え方の僕が解する意義は,シュトラウスLeo Straussが抱いたであろう疑問に対して一定の解答を与えます。というのもこのことによって,人間の徳,とくに人間集団の徳をどう考えるべきかということについて,部分的な解答を与えているからです。
人間集団の徳は,その集団の成員の一人ひとりの徳に反するものであってはなりません。あるいはそれが成員の徳に反するものであったら,それはその集団の徳とはいえません。その場合は,集団の成員の全体がひとつの原因causaとなって何らかの結果effectusを産出するproducereことが不可能になってしまうからです。したがってまず,現実的に存在するある人間の徳を超越するような徳というものは存在し得ないことになります。むしろ個人のコナトゥスを超越するいかなる事柄も,それを徳ということはできません。
次に,それが現実的であるかどうかは別として,現実的に存在するすべての人間が,ひとつの原因となるように協同して何らかの結果を産み出すということは,論理的には可能です。要するに地球上に存在するすべての人間が協同してひとつの原因となるということが,論理的には可能なのです。よって,現実的に存在するある人間の徳を超越するようないかなる徳も存在し得ないということになるのです。したがって,もしもシュトラウスが,あるいはシュトラウスに限らずだれであっても,個人の徳を超越するような観点から何らかの徳を解しているとすれば,それはスピノザに対する疑問として成立しないのです。スピノザは初めからそのような徳があるということを想定していない,というかそういう類の徳があるということを否定しているからです。要するに社会societasであれ共同体であれ,もう少し具体的にいえば宗教団体であれ国家Civitasであれ,それらはいずれも現実的に存在する個物res singularisではありますから,それに特有のコナトゥスを有し,よってそれに特有の徳も有するのですが,その徳というのは,その集団の成員の徳を超越するような徳ではありません。むしろ個人のコナトゥスおよび徳を超越するいかなるものも,それはその集団の徳とはいえず,その集団の無力impotentiaを表示するのです。
第72回安田記念 。
好発のレシステンシアを内から追い上げていったのがホウオウアマゾンとダイアトニック。ホウオウアマゾンの逃げとなり,2番手にダイアトニック。3番手にカフェファラオとレシステンシア。5番手にダノンザキッド。6番手にファインルージュとサリオス。8番手にヴァンドギャルドとソングライン。10番手にロータスランドとシュネルマイスターとセリフォス。13番手にカラテとソウルラッシュ。15番手にナランフレグ。16番手にカテドラル。17番手にイルーシヴパンサーで最後尾にエアロロノアという隊列。前半の800mが46秒7というスローペースになったこともあり,18頭が一団でのレースとなりました。
直線の入口の時点ではダノンザキッドが2番手に。逃げたホウオウアマゾンは内に進路を取りましたが,ダノンザキッドは外の方に出てきました。この内からファインルージュが追ってきて,この2頭が競り合いながらホウオウアマゾンの前に出て先頭。競り合いが続く中,外から後続も追い上げてきました。シュネルマイスター,サリオス,ソングラインの3頭が競り合いながら迫ると,内の2頭を差し,優勝争いは3頭に。一番外のソングラインが優勝。一番内のシュネルマイスターがクビ差の2着。サリオスがアタマ差で3着。この3頭にやや遅れて外から追い上げてきたセリフォスが半馬身差で4着。先んじて競り合った2頭はファインルージュがクビ差の5着でダノンザキッドがハナ差の6着。
優勝したソングライン は1351ターフスプリント 以来の勝利で重賞3勝目。大レースは初制覇。このレースは実績で最も上なのは,カフェファラオを別とすればシュネルマイスター。この馬は昨年のNHKマイルカップでシュネルマイスターのハナ差の2着に入っていましたので,当然ながら逆転の可能性を秘めていました。このレースもシュネルマイスターがクビ差の2着に入っているわけですから,2頭の力関係は五分五分とみていいようです。左回りの方がよいのかもしれません。父はキズナ 。母の父はシンボリクリスエス 。祖母の父はアグネスタキオン 。3代母がソニンク 。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念 ,2013年に浦和記念 ,2014年に佐賀記念 を勝ったランフォルセ で,そのふたつ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリント とさきたま杯 と東京盃 ,2015年にさきたま杯 を勝ったノーザンリバー 。
騎乗した池添謙一騎手は一昨年の安田記念 以来となる大レース27勝目。2年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師は開業から4年3ヶ月で大レース初勝利。
徳 virtusの基礎がコナトゥスconatusであるということは,逆にいえば,コナトゥスを有するすべてのものに,独自の徳があるということでもあります。したがって,複数の人間の集団をひとつの個物res singularisとみなすことができて,その個物にコナトゥスがあるなら,その個物に特有の徳があることになります。したがって,たとえばひとつの都市が現実的に存在しているとして,その都市の市民Civesのすべてが協同してひとつの結果effectusに対する原因causaとなっている場合は,その都市はひとつの個物であるとみなせることになりますから,その都市はコナトゥスを有し,よってその都市にはその都市の徳があることになるのです。もちろんここでいう都市は一例であって,複数の人間がひとつの組織を構成するすべての場合にこのことは妥当します。ですからそれをある宗教団体としても,あるいは国家Civitasとしても,同じことがいえることになります。
このとき,市民それぞれの徳と,その市民によって構成される都市の徳は一致します。これは,市民全体がひとつの結果を全体として産出するproducereがゆえに,その市民によって構成されている組織が都市といわれていることから明白だといえるでしょう。しかしこのことは,市民の全体がひとつの原因として結果を生み出しているというその限りにおいていわれているのです。この点によく留意しなければなりません。これとは逆に,もし都市が都市を構成する市民の徳を阻むような作用を及ぼすのであれば,それは都市の徳とはいえないのです。もちろんこの場合も都市というのは一例でしかありませんから,複数の人間によって構成されるすべての組織に妥当します。つまり,どのような組織であったとしても,その組織の徳というのは,その組織の成員の徳に反するような徳であってはならないのです。というか,成員の徳に反するようなことをその組織がなすとすれば,それは組織の徳とはいわれず,むしろその組織の無力impotentiaを示していることになります。
諸個人の現実的本性actualis essentiaを徳の基礎とすることの意義は,僕の見解opinioではこの点にあります。たとえば国家の徳があって国民の徳があるのではありません。国家の徳は国民の徳なしには考えることができない徳なのです。
淡路島で指された昨日の第93期棋聖戦 五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋聖が7勝,永瀬拓矢王座が3勝。
振駒 で藤井棋聖が先手となって相掛り 。この将棋は千日手 になりました。
永瀬王座が先手となった指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋も千日手 になりました。
藤井棋聖が先手に戻っての再指し直し局は角換わり相腰掛銀に。この将棋は後手の研究が上回ることになりました。
この局面で☖7一飛と寄ったのが先手の意表を衝いたようです。実戦は☗7四歩 ☖8六歩☗同銀☖6六角☗7八王☖7四飛と進みましたが,これで一気に差が開きました。
第1図から第2図は一直線というわけでなく,先手にも変化の余地が大きいので,第1図がもう実戦に出現しないということはないかもしれません。ただ後手がこれで悪くはならないという前提で飛車を寄っている筈ですから,第1図が出現しにくい図になったのは確かだと思います。最近の藤井棋聖の戦型選択から察して,角換わりの先手番での準備が不足していたのは何となく分かる気がします。
永瀬王座が先勝 。第二局は15日に指される予定です。
第四部定理二二系 からは当然の疑問が生じてくるわけですが,この疑問を解決していく前に,この系Corollarium自体が有している意義,つまり徳virtusの基礎を諸個人のコナトゥスconatusに求めることの意義について,僕の見解opinioを表明しておきます。
第三部定理七 は,ある人間が現実的に存在しているときに,その人間にだけ特有に成立する定理Propositioではありません。これはこの定理の文言から明白で,このことは現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当するのであって,現実的に存在するひとりの人間というのは,まさにそうした個物のひとつであるがゆえに,人間にも適用することが可能な定理となっているのです。そしてこのとき,個物といわれているのは第二部定義七 でいわれているように,複数の個物から形成されている場合もあり得ます。僕は基本的に個物の複合の無限連鎖 が成立するという立場を採用していますので,実際にある個物が現実的に存在するといわれる場合には,そうした複合的な個物である場合が大多数であると考えています。
仮にAという人間が現実的に存在し,またBという人間も現実的に存在するとして,AとBとが協力してひとつの結果effectusに対する原因causaとなるのであれば,Aという人間とBという人間の組み合わせ自体をひとつの個物とみなさなければなりません。先述した第二部定義七がいっているのはまさにそういうことだと解するべきであるからです。するとこのことはさらに拡張していくことが,それが現実的であるとはいえないかもしれませんが,論理的には可能になります。つまり現実的に存在するすべての人間が協同することによって,ひとつの結果に対する原因となるということは,論理上は可能になります。するとこの場合は,現実的に存在するすべての人間が,集団としてひとつの個物を形成しているということになるでしょう。そして第三部定理七は,すべての個物に適用されるのですから,そういった人間の集団にも適用されることになります。つまり一般的にいえば,複数の人間が協力してひとつの結果に対して原因となるようなある作用をなすとき,その複数の人間はひとつの個物であり,かつひとつの個物としてのコナトゥスを有するのです。
昨晩の第26回北海道スプリントカップ 。
フジノパンサーは加速が鈍く4馬身の不利。ダンシングプリンスが逃げて2番手にアザワク。3番手にヒロシゲゴールド。2馬身差でハートプレイスとリュウノユキナ。2馬身差でスマートダンディー。3馬身差でスティールペガサス。8番手にヴォーガ。9番手にメイショウミズカゼ。フジノパンサーは大きく取り残されました。前半の600mは34秒3のハイペース。
3コーナーで逃げたダンシングプリンスは少し外に進路を取りました。アザワクはついていかれなくなり,ヒロシゲゴールドはダンシングプリンスより内に進路を変更。その外にリュウノユキナが追い上げてきました。直線は逃げるダンシングプリンスに内からヒロシゲゴールド,外からリュウノユキナが追い上げようとしましたが,差は詰まりませんでした。その間に後方にいたスマートダンディーがリュウノユキナの外から猛追。しかし一杯に逃げ切ったダンシングプリンスが優勝。スマートダンディーがクビ差で2着。リュウノユキナが1馬身差の3着でヒロシゲゴールドが1馬身差で4着。
優勝したダンシングプリンス はこれがリヤドダートスプリント 以来のレース。重賞3連勝となりました。能力が最も上であることは分かっていましたが,久しぶりのレースであったことと,速いタイムでの決着となるレースが得意だったので,門別コースへの適性が不安点でした。重馬場で1分10秒台の決着となったことで2点目はクリア。1点目は影響があったかもしれませんが,能力でクリアしたといったところでしょうか。2着馬に対しては着差以上の能力の差があると思います。父は2012年にアイビスサマーダッシュとキーンランドカップ,2013年に函館スプリントステークスを勝ったパドトロワ 。母の父はバブルガムフェロー 。母の3つ上の半兄がデュランダル 。
騎乗した北海道の落合玄太騎手は一昨年の北海道スプリントカップ 以来となる重賞2勝目。管理している宮田敬介調教師は北海道スプリントカップ初勝利。
人間の徳 virtusが,人間の現実的本性actualis essentiaなしには考えることができないとすれば,人間の徳の基礎は人間の現実的本性であることになります。しかもそれは,単に人間の徳の基礎であるというだけでなく,絶対的な意味での基礎,あるいは唯一の基礎であるということになるでしょう。第四部定理二二には系Corollariumが付せられていて,スピノザはまさにそのようにいっています。
「自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である 」。
厳密にいえば,このことは第四部定理二二 でいわれていること,すなわち自己保存 の努力conatusいい換えればコナトゥスconatusより先に徳を考えることはできないということだけから帰結させることができるわけではありません。なぜなら,コナトゥスがなければ人間の徳を考えることができないということは,その定理Propositioの中に含まれているわけではないからです。ただこのことは,人間に何らかの徳が考えられるとすれば,それは人間が現実的に存在する限りにおいてであって,もしも人間が現実的に存在しないのであれば,人間の徳について考えること自体が無意味であるということから論証することができます。というか,これで論証できているということはそれ自体で明らかだといえるでしょう。一方,コナトゥスを有さないようなあるもの,つまり自己の有 に固執しないものが現実的に存在するということはそれ自体で不条理だといえます。したがって,これは人間であるかどうかということとは関係なく,あるもののコナトゥスなしにはそのものの徳を考えることはできない,あるいはそのものの徳を考えることは無意味だといえるでしょう。なのでこの系が成立するということは問題がないとしておきます。
これは,シュトラウスLeo Straussが感じていたことそのものであるとはいえないかもしれませんが,徳というのをこの系のように規定するなら,ある疑問が生じてくるでしょう。というのは,事物の現実的本性というのは,現実的に存在する事物が個々に有する本性であり,したがって,たとえばAという人間とBという人間が現実的に存在するとすれば,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なることになります。すると,Aの徳とBの徳も異なることになります。
一昨日の第63期王位戦 挑戦者決定戦。豊島将之九段と池永天志五段は公式戦初対局。
振駒 で豊島九段が先手となり,角換わり相腰掛銀 。攻め合い の将棋になりました。
第1図から池永五段は飛車を引かず☖6六飛と歩を取りました。これは角取りなので受けるとすれば☗5六銀の一手。そこで☖8六歩と打ち,☗6七歩に☖8七歩成☗同金☖8六歩という攻めに出ました。先手としてもこうなると☗6六歩☖8七歩成☗同王と応じるほかありません。
後手はこれで寄せきれるとみていたのでしょうが,この先手玉がどうしても捕まらず,先手の勝ちとなりました。ただ先手としてもこの順で逃げ切れるとみていたわけではなく,この順で攻められたら仕方がないとの見立てであったように思えます。先手にとって幸運があった一局だったといっていいのかもしれません。
豊島九段が勝って挑戦権を獲得 。第62期 に続いての七番勝負出場。第一局は28日と29日に指される予定です。
徳 virtusの基礎については,スピノザは第四部定理二二で,次のようにいっています。
「いかなる徳もこれ(すなわち自己保存の努力)よりさきに考えられることができない 」。
この定理Propositioは,証明するだけなら簡単です。まず,ここで自己保存の努力といわれているのは,コナトゥスconatusを意味します。したがってそれは,第三部定理七 により,現実的に存在する事物の本性essentiam,あるいは同じことですが,事物の現実的本性actualem essentiamを意味することになります。次に,徳は第四部定義八 により,現実的に存在する人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなす力potentiaを有する限りにおけるその人間の本性natura humanaです。いい換えれば,人間が能動的に何事かをなす限りにおいて,その人間の現実的本性を意味します。したがって,もし人間にとっての徳が,その人間のコナトゥスより先に考えられるとしたら,ある人間の現実的本性が,その人間の現実的本性よりも先に考えられるといっているのと同じことです。もちろん,第三部定理九 により,コナトゥスというのは人間が十全な観念 idea adaequataを有していようと混乱した観念idea inadaequataを有していようと,同じように妥当する現実的本性です。したがって,第三部定理一 により,コナトゥスというのは人間が能動的状態にあろうと受動的状態にあろうと,同じように人間の現実的本性なので,徳が人間の現実的本性であるといわれるのよりは,広がりを有しています。つまり,コナトゥスと徳を,同じ意味で人間の現実的本性ということはできません。しかし人間の現実的本性である徳は,やはり人間の現実的本性であるコナトゥスの一部をなすとみなければなりません。よって,徳がコナトゥスよりも先に考えられるというのは,人間の現実的本性の一部が,人間の現実的本性の全体よりも先に考えられるといっているのと同じことになりますから,同じように不条理なのです。つまり徳がコナトゥスよりも先に考えられるということはあり得ません。
このことから分かるように,コナトゥスすなわち現実的に存在する事物の本性を考えることなしに,その事物にとっての徳を考えることはできません。つまり人間にとっての徳は,人間の現実的本性なしに考えることができないのです。
第26回さきたま杯 。
1コーナーまでにサルサディオーネがハナを奪いきりました。2番手にシャマルで3番手にサクセスエナジー。2馬身差でヘリオス。5番手にルーチェドーロ。6番手にティーズダンク。4馬身差でウインハイラントとエアスピネル。9番手にマイネルサーパス。3馬身差でバーナードループ。5馬身差の最後尾にグレートコマンダー。最初の600mは35秒9のミドルペース。
3コーナーを回るとサルサディオーネにシャマルが並び掛けていきました。その後ろがサクセスエナジーとヘリオスの併走になりましたが,内が開いたのでそこをティーズダンクが突いて3頭が横並びとなり,この5頭が圏内。直線はサルサディオーネとシャマルの競り合いに,外に出してきたティーズダンクが迫り,この3頭がほぼ横に並んでフィニッシュ。優勝は一杯に逃げ切ったサルサディオーネ。外のティーズダンクがアタマ差で2着。真中のシャマルがアタマ差で3着。
優勝したサルサディオーネ は日本テレビ盃 以来の勝利で重賞5勝目。この馬は実績や相手関係からは能力はメンバーの中で最も高いと思えました。ただ,逃げなければ力を出せない馬ですから1400mに距離が短縮する点が不安材料でした。わりと楽にハナを奪うことができた上に,さほど速いペースにならなかったことでその点はクリア。この形になるととてもしぶとい馬ですから,やはり展開が結果に最も結びつくタイプの馬だといえるでしょう。父はゴールドアリュール 。母の父はリンドシェーバー 。母は2002年に東京プリンセス賞を勝ったサルサクイーン 。
騎乗した大井の矢野貴之騎手は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。管理している大井の堀千亜樹調教師は日本テレビ盃以来の重賞6勝目。さきたま杯は初勝利。
フロム Erich Seligmann Frommが良心についていっていることと同様のことが,スピノザがいう徳virtusの場合も成立すると僕は考えます。確かに現実的に存在する人間が有徳的であることは困難です。それは第四部定理四 から明らかだといえます。この定理Propositioから分かるように,現実的に存在する人間が常に有徳的であるということ,いい換えれば常に能動的であるということはできません。しかし,だからといって現実的に存在する人間が有徳的であるということができないというわけでもありません。たとえば僕たちが共通概念notiones communesに基づいて何事かを認識しているとき,あるいは『エチカ』の定義Definitioや公理Axiomaから何らかの定理を導き出すとき,僕たちには精神の能動actio Mentisが働いています。つまりそのとき,僕たちは有徳的であるのです。ですからたとえそれがどんなに困難なことであったとしても,そのことを有徳的であるということに意味がないということにはなりません。そして同時に,徳というのがだれでも容易に達成することができるものでなければならないという理由は何もないでしょう。したがって,確かにシュトラウスLeo Straussがいうように,徳というのは個人の資質に帰せられるもので,だれでも達成することができないようなことではあるかもしれませんが,徳というのがそういうものであっても構わないと僕は考えます。そしてスピノザも,そのこと自体は否定しないのではないかとも思います。第五部定理四二備考 では,高貴なものは稀で困難difficiliaだといわれていて,『エチカ』はその一文で締め括られているわけですが,有徳的であるということは高貴なことであって,ですからそれは稀でありまた困難であるとスピノザは考えているのだろうと僕は解します。
ですから,最初の疑問については僕は否定しません。つまり,シュトラウスがいっている通りであると思いますし,それで構わないと思います。しかしもうひとつの疑問はそうではありません。こうした疑問はスピノザの哲学を十全に理解してない場合に生じてくるものであって,スピノザに対する疑問と限定して解するなら,見当違いのものだといえるからです。なのでこの疑問に関しては詳しく解答することにします。そのためにまず徳の基礎を考えます。