スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&第四部定理二二

2022-06-02 19:02:20 | 将棋
 一昨日の第63期王位戦挑戦者決定戦。豊島将之九段と池永天志五段は公式戦初対局。
 振駒で豊島九段が先手となり,角換わり相腰掛銀攻め合いの将棋になりました。
                                        
 第1図から池永五段は飛車を引かず☖6六飛と歩を取りました。これは角取りなので受けるとすれば☗5六銀の一手。そこで☖8六歩と打ち,☗6七歩に☖8七歩成☗同金☖8六歩という攻めに出ました。先手としてもこうなると☗6六歩☖8七歩成☗同王と応じるほかありません。
                                        
 後手はこれで寄せきれるとみていたのでしょうが,この先手玉がどうしても捕まらず,先手の勝ちとなりました。ただ先手としてもこの順で逃げ切れるとみていたわけではなく,この順で攻められたら仕方がないとの見立てであったように思えます。先手にとって幸運があった一局だったといっていいのかもしれません。
 豊島九段が勝って挑戦権を獲得第62期に続いての七番勝負出場。第一局は28日と29日に指される予定です。

 virtusの基礎については,スピノザは第四部定理二二で,次のようにいっています。
 「いかなる徳もこれ(すなわち自己保存の努力)よりさきに考えられることができない」。
 この定理Propositioは,証明するだけなら簡単です。まず,ここで自己保存の努力といわれているのは,コナトゥスconatusを意味します。したがってそれは,第三部定理七により,現実的に存在する事物の本性essentiam,あるいは同じことですが,事物の現実的本性actualem essentiamを意味することになります。次に,徳は第四部定義八により,現実的に存在する人間が十全な原因causa adaequataとなってあることをなす力potentiaを有する限りにおけるその人間の本性natura humanaです。いい換えれば,人間が能動的に何事かをなす限りにおいて,その人間の現実的本性を意味します。したがって,もし人間にとっての徳が,その人間のコナトゥスより先に考えられるとしたら,ある人間の現実的本性が,その人間の現実的本性よりも先に考えられるといっているのと同じことです。もちろん,第三部定理九により,コナトゥスというのは人間が十全な観念idea adaequataを有していようと混乱した観念idea inadaequataを有していようと,同じように妥当する現実的本性です。したがって,第三部定理一により,コナトゥスというのは人間が能動的状態にあろうと受動的状態にあろうと,同じように人間の現実的本性なので,徳が人間の現実的本性であるといわれるのよりは,広がりを有しています。つまり,コナトゥスと徳を,同じ意味で人間の現実的本性ということはできません。しかし人間の現実的本性である徳は,やはり人間の現実的本性であるコナトゥスの一部をなすとみなければなりません。よって,徳がコナトゥスよりも先に考えられるというのは,人間の現実的本性の一部が,人間の現実的本性の全体よりも先に考えられるといっているのと同じことになりますから,同じように不条理なのです。つまり徳がコナトゥスよりも先に考えられるということはあり得ません。
 このことから分かるように,コナトゥスすなわち現実的に存在する事物の本性を考えることなしに,その事物にとっての徳を考えることはできません。つまり人間にとっての徳は,人間の現実的本性なしに考えることができないのです。
コメント
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