スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

燦燦ムーンナイトカップ&別の例

2022-06-13 19:14:06 | 競輪
 松戸競輪場で行われた昨晩の燦燦ムーンナイトカップの決勝。並びは高橋‐阿部の北日本,菊池‐久木原‐横山‐真崎の関東,青野‐加藤の神奈川で脇本は単騎。
 阿部がスタートを取って高橋の前受け。3番手に菊池,7番手に青野,最後尾に脇本で周回。残り3周のホームから青野が上昇。脇本は続きませんでした。バックの出口で青野が高橋を叩いて誘導は退避。2番手と3番手,4番手と5番手,8番手と9番手の車間がそれぞれ開く,長い一列棒状になりました。打鐘から高橋が発進。ホームの入口で青野を叩いて先行。菊池はその後から発進し,ずっと最後尾に構えていた脇本も発進。脇本は菊池をも乗り越えなければなりませんでしたのでかなり外を回ることになりましたが,最後の直線で逃げた高橋も差し切って優勝。高橋が4分の3車身差で2着。高橋マークの阿部が4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の川崎のFⅠに続いての優勝。これで5開催連続の優勝。グレードレースは日本選手権以来。GⅢは3月の玉野記念以来となる10勝目。松戸では2019年に日本選手権を優勝しています。16日から高松宮記念杯が開催されますので,ここはそれに出走しないメンバーでの争い。本来なら脇本レベルの選手の出走はないのですが,高松宮記念杯の出走権を失っていたためにこちらへ。ですから開催前から優勝の最有力候補でした。ホーム9番手からかなり外を回って前を捲り切ったというレース内容から,力が断然であったことは証明されています。ただこれはあくまでもこのレベルだから可能なレースなのであって,相手のレベルが上がればこういうレースは通用しません。たとえこういうメンバー構成であっても,ある程度の位置を取るレースをしておいた方がいいように僕は思います。

 別の例も挙げてみましょう。
 ある独立した市民国家Civitasが存在するとして,その国家にある帝国Imperiumが領土の拡充を目指して侵略してきたと仮定します。このとき,市民国家の国民Civesが,一般に形相formaを維持することを目指すなら,なるべく早期に講和をするのがよいでしょう。しかし市民国家の国民の力potentiaを維持するということを目指すなら,早期の講和がよい選択であるとは限りません。帝国の支配下に置かれることによって,市民国家の市民として有していた力,能動的自由に含まれている思想の自由libertasとか表現の自由といわれる力が侵害されることが確実であるなら,そうした力を維持するため,形相の維持は犠牲にして徹底抗戦をする方が適切な選択になり得るからです。これも方向性が完全に異なる選択肢ですが,理性ratioに従っている限りではどちらも正しい選択なのであって,よってどちらも人間の徳virtusを表示する選択なのです。
 上述の例は,ウクライナにプーチンが侵略戦争を仕掛けたという例を容易に想起させるでしょうし,僕もそれを意図して記述しています。そして上述の例から分かるように,ウクライナが早期に妥協をすることも,徹底的に抗戦することも,どちらも徳なのです。なので,どうするべきであるのかということを一律に決定することはできません。ただひとつだけいえるのは,市民国家の徳であっても,その徳は市民国家を構成する市民の徳がなくてはあることも考えることもできないような徳であるということです。つまりこの例が現実的に意味するのは,市民国家を構成するある人が形相の維持を重視し,同じ国家の別の市民が力の維持を重視するとしても,それはどちらも各々の市民の徳に基づく判断なのだから,市民国家がそれを超越して徳を決定することはできないということです。
 抗がん剤の例は,あるひとりの人間のうちで,形相と力が相反することになり,それがそのひとりに帰せられる場合です。侵略戦争の例も,あるひとりの人間のうちで形相の維持と力の維持が相反することになるのですが,それが国家を構成するすべての市民のうちに生じることによって,ひとりの人間には帰せられず,国家全体にも帰せられてしまうという場合なのです。
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