第72回安田記念。
好発のレシステンシアを内から追い上げていったのがホウオウアマゾンとダイアトニック。ホウオウアマゾンの逃げとなり,2番手にダイアトニック。3番手にカフェファラオとレシステンシア。5番手にダノンザキッド。6番手にファインルージュとサリオス。8番手にヴァンドギャルドとソングライン。10番手にロータスランドとシュネルマイスターとセリフォス。13番手にカラテとソウルラッシュ。15番手にナランフレグ。16番手にカテドラル。17番手にイルーシヴパンサーで最後尾にエアロロノアという隊列。前半の800mが46秒7というスローペースになったこともあり,18頭が一団でのレースとなりました。
直線の入口の時点ではダノンザキッドが2番手に。逃げたホウオウアマゾンは内に進路を取りましたが,ダノンザキッドは外の方に出てきました。この内からファインルージュが追ってきて,この2頭が競り合いながらホウオウアマゾンの前に出て先頭。競り合いが続く中,外から後続も追い上げてきました。シュネルマイスター,サリオス,ソングラインの3頭が競り合いながら迫ると,内の2頭を差し,優勝争いは3頭に。一番外のソングラインが優勝。一番内のシュネルマイスターがクビ差の2着。サリオスがアタマ差で3着。この3頭にやや遅れて外から追い上げてきたセリフォスが半馬身差で4着。先んじて競り合った2頭はファインルージュがクビ差の5着でダノンザキッドがハナ差の6着。
優勝したソングラインは1351ターフスプリント以来の勝利で重賞3勝目。大レースは初制覇。このレースは実績で最も上なのは,カフェファラオを別とすればシュネルマイスター。この馬は昨年のNHKマイルカップでシュネルマイスターのハナ差の2着に入っていましたので,当然ながら逆転の可能性を秘めていました。このレースもシュネルマイスターがクビ差の2着に入っているわけですから,2頭の力関係は五分五分とみていいようです。左回りの方がよいのかもしれません。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで,そのふたつ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントとさきたま杯と東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー。
騎乗した池添謙一騎手は一昨年の安田記念以来となる大レース27勝目。2年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師は開業から4年3ヶ月で大レース初勝利。
徳virtusの基礎がコナトゥスconatusであるということは,逆にいえば,コナトゥスを有するすべてのものに,独自の徳があるということでもあります。したがって,複数の人間の集団をひとつの個物res singularisとみなすことができて,その個物にコナトゥスがあるなら,その個物に特有の徳があることになります。したがって,たとえばひとつの都市が現実的に存在しているとして,その都市の市民Civesのすべてが協同してひとつの結果effectusに対する原因causaとなっている場合は,その都市はひとつの個物であるとみなせることになりますから,その都市はコナトゥスを有し,よってその都市にはその都市の徳があることになるのです。もちろんここでいう都市は一例であって,複数の人間がひとつの組織を構成するすべての場合にこのことは妥当します。ですからそれをある宗教団体としても,あるいは国家Civitasとしても,同じことがいえることになります。
このとき,市民それぞれの徳と,その市民によって構成される都市の徳は一致します。これは,市民全体がひとつの結果を全体として産出するproducereがゆえに,その市民によって構成されている組織が都市といわれていることから明白だといえるでしょう。しかしこのことは,市民の全体がひとつの原因として結果を生み出しているというその限りにおいていわれているのです。この点によく留意しなければなりません。これとは逆に,もし都市が都市を構成する市民の徳を阻むような作用を及ぼすのであれば,それは都市の徳とはいえないのです。もちろんこの場合も都市というのは一例でしかありませんから,複数の人間によって構成されるすべての組織に妥当します。つまり,どのような組織であったとしても,その組織の徳というのは,その組織の成員の徳に反するような徳であってはならないのです。というか,成員の徳に反するようなことをその組織がなすとすれば,それは組織の徳とはいわれず,むしろその組織の無力impotentiaを示していることになります。
諸個人の現実的本性actualis essentiaを徳の基礎とすることの意義は,僕の見解opinioではこの点にあります。たとえば国家の徳があって国民の徳があるのではありません。国家の徳は国民の徳なしには考えることができない徳なのです。
好発のレシステンシアを内から追い上げていったのがホウオウアマゾンとダイアトニック。ホウオウアマゾンの逃げとなり,2番手にダイアトニック。3番手にカフェファラオとレシステンシア。5番手にダノンザキッド。6番手にファインルージュとサリオス。8番手にヴァンドギャルドとソングライン。10番手にロータスランドとシュネルマイスターとセリフォス。13番手にカラテとソウルラッシュ。15番手にナランフレグ。16番手にカテドラル。17番手にイルーシヴパンサーで最後尾にエアロロノアという隊列。前半の800mが46秒7というスローペースになったこともあり,18頭が一団でのレースとなりました。
直線の入口の時点ではダノンザキッドが2番手に。逃げたホウオウアマゾンは内に進路を取りましたが,ダノンザキッドは外の方に出てきました。この内からファインルージュが追ってきて,この2頭が競り合いながらホウオウアマゾンの前に出て先頭。競り合いが続く中,外から後続も追い上げてきました。シュネルマイスター,サリオス,ソングラインの3頭が競り合いながら迫ると,内の2頭を差し,優勝争いは3頭に。一番外のソングラインが優勝。一番内のシュネルマイスターがクビ差の2着。サリオスがアタマ差で3着。この3頭にやや遅れて外から追い上げてきたセリフォスが半馬身差で4着。先んじて競り合った2頭はファインルージュがクビ差の5着でダノンザキッドがハナ差の6着。
優勝したソングラインは1351ターフスプリント以来の勝利で重賞3勝目。大レースは初制覇。このレースは実績で最も上なのは,カフェファラオを別とすればシュネルマイスター。この馬は昨年のNHKマイルカップでシュネルマイスターのハナ差の2着に入っていましたので,当然ながら逆転の可能性を秘めていました。このレースもシュネルマイスターがクビ差の2着に入っているわけですから,2頭の力関係は五分五分とみていいようです。左回りの方がよいのかもしれません。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで,そのふたつ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントとさきたま杯と東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー。
騎乗した池添謙一騎手は一昨年の安田記念以来となる大レース27勝目。2年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師は開業から4年3ヶ月で大レース初勝利。
徳virtusの基礎がコナトゥスconatusであるということは,逆にいえば,コナトゥスを有するすべてのものに,独自の徳があるということでもあります。したがって,複数の人間の集団をひとつの個物res singularisとみなすことができて,その個物にコナトゥスがあるなら,その個物に特有の徳があることになります。したがって,たとえばひとつの都市が現実的に存在しているとして,その都市の市民Civesのすべてが協同してひとつの結果effectusに対する原因causaとなっている場合は,その都市はひとつの個物であるとみなせることになりますから,その都市はコナトゥスを有し,よってその都市にはその都市の徳があることになるのです。もちろんここでいう都市は一例であって,複数の人間がひとつの組織を構成するすべての場合にこのことは妥当します。ですからそれをある宗教団体としても,あるいは国家Civitasとしても,同じことがいえることになります。
このとき,市民それぞれの徳と,その市民によって構成される都市の徳は一致します。これは,市民全体がひとつの結果を全体として産出するproducereがゆえに,その市民によって構成されている組織が都市といわれていることから明白だといえるでしょう。しかしこのことは,市民の全体がひとつの原因として結果を生み出しているというその限りにおいていわれているのです。この点によく留意しなければなりません。これとは逆に,もし都市が都市を構成する市民の徳を阻むような作用を及ぼすのであれば,それは都市の徳とはいえないのです。もちろんこの場合も都市というのは一例でしかありませんから,複数の人間によって構成されるすべての組織に妥当します。つまり,どのような組織であったとしても,その組織の徳というのは,その組織の成員の徳に反するような徳であってはならないのです。というか,成員の徳に反するようなことをその組織がなすとすれば,それは組織の徳とはいわれず,むしろその組織の無力impotentiaを示していることになります。
諸個人の現実的本性actualis essentiaを徳の基礎とすることの意義は,僕の見解opinioではこの点にあります。たとえば国家の徳があって国民の徳があるのではありません。国家の徳は国民の徳なしには考えることができない徳なのです。
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