16日の黒潮盃を勝ったオオエライジンの母の父,ブルードメアサイアーはリンドシェーバーです。
1988年アメリカ産。2歳7月にデビュー戦を勝つと続くオープンも勝利。函館3歳ステークスは2着に負けたものの,朝日杯3歳ステークスを優勝。この年の最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳2月に58キロを背負ってオープン勝ち。続いて弥生賞に出走しましたが,ここは前年の西の2歳チャンピオンであったイブキマイカグラの2着。結果的にこれで競走成績を終えることになってしまいました。
この当時の外国産馬は日本馬よりも早熟傾向にあり,キャリアを積み重ねてさらに活躍できたのかどうかは永遠の謎。ただ日本では希少な,アメリカでGⅠを6勝もしたAlydarの産駒で,それなりの競走成績を残しましたので,このクラスの馬としては種牡馬としての生活にも恵まれたと思います。後継種牡馬は輩出しませんでしたが,これは産駒の重賞勝ち馬6頭のうち4頭が牝馬であったことも関係。ブルードメアサイアーとしては2008年の川崎記念を勝ったフィールドルージュを送り出しました。同じ年に青葉賞を勝ったアドマイヤコマンドの祖母は,リンドシェーバーの妹です。
精神mensというのをスピノザの哲学に従った形で理解するならば,第三部定理三というのは,もっと別の形で解釈することが可能であるように僕には思えます。つまり,この定理Propositioというのは,あくまでも人間の精神mens humanaの能動actioと受動passioについての,あるいは人間の精神と身体が同一の秩序ordoにあることを考慮に入れるならば,身体corpusまでを含めた人間の能動と受動に関係するある言及です。しかし,精神というものが実在するそのあり方というのは,実は人間とその他の個物res singularisの間で何らの相違があるわけではありません。もちろん各々の精神の機能,あるいはなし得ることというのは大きく異なるでしょうが,精神が実在的なものとして理解される場合のそのあり方,構造とでもいうべきものは,どんなものの精神にあっても同一なのです。したがってこのことを考慮においた場合には,実は人間の能動と受動についての言及である第三部定理三というのは,人間以外のすべての個物の能動と受動についても妥当すると考えられるのではないでしょうか。いい換えれば,精神のあり方というものがすべての個物にとって同様であるならば,能動と受動のあり方というものもすべての個物にとって同様であるだろうと僕は考えるのです。
僕は今回のテーマである第三部定義二で,スピノザが示している我々というのを,単に人間とは考えずに,すべての個物という範囲にまで広げて考えるとしましたが,その根拠がここの部分にあるのです。そしてこのことは,おそらくは我々と第三部定義二で書いたときには,単に人間だけを考慮のうちに入れていたであろうスピノザ自身によっても補強されます。というのは,スピノザ自身がこの直後の第三部定理三備考においては,このような仕方で受動というものが人間の精神に帰せられるように,すべての個物にも帰せられるであろうし,またこうした仕方以外では受動というものを説明することは不可能であるという意味のことをいっているからです。そしてスピノザは,しかしそのようには能動と受動について記述しなかった理由についてもはっきりと述べていて,それはスピノザ自身が意図していることが,人間の精神について探求することだったからなのです。
1988年アメリカ産。2歳7月にデビュー戦を勝つと続くオープンも勝利。函館3歳ステークスは2着に負けたものの,朝日杯3歳ステークスを優勝。この年の最優秀2歳牡馬に選出されました。
3歳2月に58キロを背負ってオープン勝ち。続いて弥生賞に出走しましたが,ここは前年の西の2歳チャンピオンであったイブキマイカグラの2着。結果的にこれで競走成績を終えることになってしまいました。
この当時の外国産馬は日本馬よりも早熟傾向にあり,キャリアを積み重ねてさらに活躍できたのかどうかは永遠の謎。ただ日本では希少な,アメリカでGⅠを6勝もしたAlydarの産駒で,それなりの競走成績を残しましたので,このクラスの馬としては種牡馬としての生活にも恵まれたと思います。後継種牡馬は輩出しませんでしたが,これは産駒の重賞勝ち馬6頭のうち4頭が牝馬であったことも関係。ブルードメアサイアーとしては2008年の川崎記念を勝ったフィールドルージュを送り出しました。同じ年に青葉賞を勝ったアドマイヤコマンドの祖母は,リンドシェーバーの妹です。
精神mensというのをスピノザの哲学に従った形で理解するならば,第三部定理三というのは,もっと別の形で解釈することが可能であるように僕には思えます。つまり,この定理Propositioというのは,あくまでも人間の精神mens humanaの能動actioと受動passioについての,あるいは人間の精神と身体が同一の秩序ordoにあることを考慮に入れるならば,身体corpusまでを含めた人間の能動と受動に関係するある言及です。しかし,精神というものが実在するそのあり方というのは,実は人間とその他の個物res singularisの間で何らの相違があるわけではありません。もちろん各々の精神の機能,あるいはなし得ることというのは大きく異なるでしょうが,精神が実在的なものとして理解される場合のそのあり方,構造とでもいうべきものは,どんなものの精神にあっても同一なのです。したがってこのことを考慮においた場合には,実は人間の能動と受動についての言及である第三部定理三というのは,人間以外のすべての個物の能動と受動についても妥当すると考えられるのではないでしょうか。いい換えれば,精神のあり方というものがすべての個物にとって同様であるならば,能動と受動のあり方というものもすべての個物にとって同様であるだろうと僕は考えるのです。
僕は今回のテーマである第三部定義二で,スピノザが示している我々というのを,単に人間とは考えずに,すべての個物という範囲にまで広げて考えるとしましたが,その根拠がここの部分にあるのです。そしてこのことは,おそらくは我々と第三部定義二で書いたときには,単に人間だけを考慮のうちに入れていたであろうスピノザ自身によっても補強されます。というのは,スピノザ自身がこの直後の第三部定理三備考においては,このような仕方で受動というものが人間の精神に帰せられるように,すべての個物にも帰せられるであろうし,またこうした仕方以外では受動というものを説明することは不可能であるという意味のことをいっているからです。そしてスピノザは,しかしそのようには能動と受動について記述しなかった理由についてもはっきりと述べていて,それはスピノザ自身が意図していることが,人間の精神について探求することだったからなのです。