スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&善悪の観点

2021-05-25 18:55:53 | 将棋
 昨日の第62期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は豊島将之竜王が22勝,羽生善治九段が18勝。
 振駒で羽生善治九段の先手となり相矢倉。先手の工夫に後手の豊島竜王が玉を固める展開に。先手の攻めが繋がるか,後手が受け切るかという将棋でしたが,先手の攻めが切れてしまい,後手の勝ちになりました。先手は早めに2筋の歩を突き捨てていて,それがあったためにこのような進展になったのですが,突き捨てたのは歩を入手すれば厳しい攻めがあったため。結果的にいうと先手の攻めは最後まで歩が足りないために苦労しました。本格的に仕掛けるところで自重すれば千日手には持ち込めたかもしれませんが,先手で千日手では面白くありませんから,先手の作戦負け。その作戦負けを最後まで先手が挽回できなかったという一局になると思います。
                                         
 第1図からは☗3四歩☖同金左☗2六飛☖2三桂☗6五歩と進んでいます。第1図で☗1一香成は☖同飛で藪蛇ですが,☗1二歩☖同香としてから香車を取る手はあるでしょう。でもそれだと☗3四歩は打てなくなります。この局面が,先手に歩が足りなかったということをよく象徴しているように思いました。
 豊島竜王が勝って挑戦者に。タイトルを失った第60期以来となる2年ぶりの王位戦七番勝負出場。第一局は来月29日と30日に指される予定です。

 なぜ善bonumと悪malumの場合には,喜びlaetitiaと悲しみtristitiaの場合と同じ意味で解してはいけないのかというと,善悪が比較上の概念notioであるからです。すなわち僕たちは僕たちに喜びを与えるものを表象しようとし,悲しみを齎すものを表象するimaginariことを厭うので,この限りでは善であるものを表象しようとし,悪であるものを表象することを厭います。ところが,もし小さな善が大きな善を阻害する限りでは小さな善は悪とみなされますし,小さな悪が大きな悪を阻害する限りでは小さな悪は善とみなされるのです。よってこうしたことが生じているという認識cognitioがある場合は,僕たちは小さな悪を表象しようとするでしょうし,小さな善を表象することを厭うようになるでしょう。つまり,ある特定の条件の下では,僕たちは善の表象を厭い,悪の表象を希求するということも生じ得るのです。これはちょうど,僕たちが善を希求し悪を忌避するという現実的本性actualis essentiaを有しているために,同じ条件下では悪を希求することもあれば善を忌避することもあるということに対応しているといえるでしょう。ですからすでに説明したように,地球の温暖化を防止する対策を忌避する人間や,新型コロナウイルスが蔓延することあるいは自身が感染するリスクを高めることの防止を忌避する人間が現実的に存在し得るのと同様に,そうしたことの表象imaginatioを厭う人間も現実的に存在するのです。というより,そうした人びとは重複しているといった方がいいでしょう。ある人間が何らかのものを悪と認識すれば,その人間はそれを忌避しようとすると同時にそのものを表象することを厭うのだからです。
 次に,第三部定理二八は,僕たちは僕たちに喜びを齎す事柄についてはそれを実現しようとするし,僕たちに悲しみを齎す事柄についてはそれを阻止しようとするという意味のことをいっています。したがって地球の温暖化を防止することについてはだれもがそれを実現しようとするのですし,新型コロナウイルスに感染することについてはだれもがそれを阻止しようとするのです。この点では現実的に存在するどの人間も一致します。ところがこれも善悪を比較上の概念としてみたら,絶対的に妥当するというわけではないのです。
コメント
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