スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

JRA賞&第四部定理四

2008-01-10 18:57:57 | 中央競馬
 8日に昨年のJRA賞が発表されました。競走馬の部門についてのみ紹介し,短評を入れておきます。
 年度代表馬にはアドマイヤムーンが選ばれました。ドバイデューティーフリー,宝塚記念,ジャパンカップと大レース3勝。いずれも国際GⅠであった点も評価の対象になったと思います。同時に最優秀4歳以上牡馬にも選出されましたが,これに関しては文句なしでしょう。
 最優秀2歳牡馬は朝日杯フューチュリティステークスを勝ったゴスホークケンで,最優秀2歳牝馬は阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったトールポピー。このカテゴリーはそれぞれのレースが代表馬決定戦のようなものなので,当然の選出です。
 最優秀3歳牡馬は菊花賞を勝ったアサクサキングス。このカテゴリーも選ぶとすればこの馬しかいないでしょう。
 最優秀3歳牝馬はダイワスカーレット桜花賞,秋華賞,エリザベス女王杯と勝ち,有馬記念でも2着なのですからこれも当然です。
 最優秀4歳以上牝馬はコイウタヴィクトリアマイルを勝っただけなのですが,このカテゴリーは大レースを勝ったのがこの馬だけでしたので,妥当でしょう。ここは該当馬なしの票が多数ありましたが,僕はどんな成績であっても代表馬は選ばれるべきものと思います。
 最優秀父内国産馬はアグネスタキオン産駒のダイワスカーレット。これは妥当な選出ですが,最優秀3歳牝馬よりもウオッカとの票差がありませんでした。多くの馬を選出したいという意向は分からないではないですが,一方でダイワスカーレットに入れ,もう一方ではウオッカに入れるというのは,本当はあってはならないことと思います。今年からは父内国産のレースが全廃されることもあり,このカテゴリー自体がもう不要かもしれません。
 最優秀短距離馬はダイワメジャー。昨年も有馬記念で3着したように短距離馬ではないのですが,安田記念マイルチャンピオンシップを勝ちましたので,選ぶならこの馬しかないところでしょう。昨年も同じカテゴリーで選出されていて,2年連続の受賞。
 最優秀ダートホースはヴァーミリアン川崎記念,JBCクラシック,ジャパンカップダート,東京大賞典と大レース4勝。このカテゴリーは満票でなければおかしく,ほかの馬に投票した1名の見識を疑います。またこの馬は,年度代表馬争いでアドマイヤムーンに肉薄しておかしくない筈で,どうもダート競馬の評価が異常に低いように思われます。少なくとも5票というのはあり得ないです。
 最優秀障害馬は中山大障害を勝ったメルシーエイタイムで,これは妥当な選出です。
 このほか,ダービーを勝ったウオッカと,春の天皇賞秋の天皇賞を勝ったメイショウサムソンの2頭が特別賞に選ばれています。受賞するのはおかしくない馬たちですが,あまりこのような賞を乱発しては,かえって格式を落とすおそれもあるのではないかと思います。なお,この2頭は共に昨年から連続しての受賞です。
 
 明日は和歌山記念の2日目優秀の熊野古道賞になります。並びは小嶋-山内-伊藤の中部,渡部-井上-野田の西国で,稲垣には平沼-白戸の東日本2名。ここは小嶋選手。

 人間が理性的である限り,その人間は憐憫commiseratioという感情affectusを抱くことはないというのが,スピノザの哲学における,理性と憐憫の第一義的な意味になります。そこでこのことから憐憫の無用性をさらに考えていくのですが,その前に今度は,憐憫の有用性ということを考えておかなくてはいけないと思います。というのは,一般に,ある場合にXが無用であるという言明は,逆にある場合にはXが有用であるということを意味しています。そしてこの場合,Xが無用であるというのは,実際にはXは有用ではないということを積極的にいい換えているに過ぎないからです。したがってここでの考察に関連させていうなら,まず憐憫が有用である場合を考え,その場合になぜ憐憫が有用であるかを考えた後に,人間が理性的である場合には,なぜそうした有用性自体が不要であるのかを考えていかなければならないわけです。
 ところで,人間が理性的である限り憐憫という感情は不要とされているわけですから,まずは,人間が常に理性的であるということはできない,あるいは少なくとも人間は理性的ではない場合があるということを証明しておく必要があると思います。これを証明しておかないと,第三部定理五九により,そもそも人間が憐憫という感情を抱く場合があるということすらいえなくなってしまうからです。
 このことに関してはここでは第四部定理四に訴えることにします。
 「人間が自然の一部分(Naturae pars)でないということは,不可能であり,また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化,自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする