古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

商品化できない

2017-12-24 | 読書

フクオカ博士の訳した『生命に部分はない』(講談社現代新書、2017年6月)を読みました。福岡ハカセ持論の「動的平衡」の説明かなと思って読んだのですが、違っていました。

訳者あとがきに以下の記述がありました。

 

古くは売血から始まり、やがて人間が自らの身体を切り刻み、あたかも自動車の部品工場に売られているようなパーツとして、商品化するにいたった。その詳細をあとづけた本だった。章を追うごとに組織、細胞、遺伝子と細分化が進んでいく。人間を部品化し、人体を商品化しているアメリカで、この潮流がどのように位置づけられているのか、

 ボストンの本屋で、ああこういう本を読みたかったのだ。そう痛感した。

購入して辞書を片手に食い入るように読み進めた。

 特別な病気にかかった人の血は特異抗体が含まれるからより高価で売れる。精子や卵子は、余剰として商品価値を持つ。特定の遺伝子に特許が付与される。動物の身体が薬品を製造する工場として利用される。ここまで事態が進行していることはショックだった。

 本書が優れているのは、ルポや事例研究の面白さや多彩さだけではない。むしろその白眉は後半にこそある。なぜ私たち人間は、自ら自分自身の身体を商品化するようになったのか、いや、商品化しうると考えることが出来るようになったか。

 人間の文明史を紐解くところに戻って考察は開始される。私たちは、本来、商品になりえないものを商品化してきた。それが人類の歴史である。大地を分断し商品にした。あるいは時間、誰のものでもない時間を対価と引き換えに差し出される。すべてのものを分節化し、分節化したものを切り売りする。

水や資源、ついには元素循環の一形態でしかない二酸化炭素まで取引対象になる。この志向がついに未開の地だった私たちの生命と身体に及んできた。

 私は衝撃を受けた。分子生物学者として、実験室の中で、日夜、遺伝子ハンチングとタンパク質の精製に明け暮れいしていた私は、このような「文明史観」をついぞ持ったことがなかった。

 本書を読んで、私が最も教えられたこと。そしてその後、ずっと考えることになったことは生物を、文字通り生きたモノとしてみるか、それとも生命という「現象」としてみるか、ということをめぐる生命観の相克である。

 もし物質の集合体として生物をとらえれば、生物を機能単位に分節し、分断化することが可能だし、それをモノとして交換、改変、あるいは別の何かに代替しうる。そして物品として価格を設定できるだろう。

しかし、それを物質の集合体ではあるものの、そこに成立している関係性を重視した「現象」としてとらえるなら、機能単位ごとに分節化することは、関係性を断ち切ることになる。関係しているものの関係性を分断することは不可能で、無理にそれを強行すれば、現象としての生命辞退を損なういことになる。

同じことは生命の空間的な関係性だけでなく、時間軸に対しても行われる。人はいつ人になるのか、人はいつ生まれたことになるのか、という問題は、生命操作技術が進展することと軌を一にして、私たちの前に深刻な疑問として問い直されている。

 生命現象はまごうことなく動的な平衡にある。生物は常に交換することで、蓄積するエントロピーを外部に捨て、わずかに変化し続けることによって新しい環境に適応してきた。生命は空間的にも時間的にも連続しており、分節化しうる部分と言えるものは本来、存在しない。

 

現在の資本主義の「市場原理」は、取引対象を商品化できる(対象を部品に分断して商品化、取引できる)という前提で成立している。しかし、今日、我々が対処すべき対象には商品化できないものが多々出てきているのではないだろうか。