古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

司馬遼太郎の歴史観

2017-12-25 | 読書

東区図書館を覗いたら「2018年は明治維新150年です。明治維新に活躍した人や関連する本を紹介します」と、一連の本が並べられていた。手に取ってみて3冊ほど面白そうだったので借りてきた。

『竜馬史』(磯田道史著、文芸春秋)

「坂本竜馬」(講談社学術文庫、飛鳥井雅道著)

『司馬遼太郎の歴史観』(中塚明著、高文研)

3冊目です。司馬遼太郎の歴史観とは「坂の上の雲」に対する批判らしい。

「司馬さんは昭和ヒトケタから20年を「異胎の時代」というのです。「胎」とは「はらむ」あるいは「はらごもり」の意味。「それまでとは違った非連続の時代の日本」)。そしてはらませた根源は「参謀本部だ」というのです。借りてきました。

 私も司馬さんのこうした考えに若干の疑問があります。

日露戦争までの国民の価値観が戦争後何故急に変わってしまったか説明がないからです。

 筆者はこういう。

 私はこの本で、近代日本と朝鮮のかかわりを読者に紹介したい。それによって「栄光の明治」とは異なる明治の姿が見えるはずです。

 さしあたって日露戦争の10年前、日清戦争についてふりかえってみます。

司馬遼太郎は、日露戦争後、日本はおかしくなった。日本陸軍は変質した、というのですが、、日清戦争のとき、日本がおこなった行動の中に、のちのち日本が暴走していく萌芽が現れていなかったか。そこにはその後の日本の歴史の上で、もっといえば、現在における日本と韓国の問題に関係してくる重要な問題を含んでいます。

日清戦争のとき日本軍の実弾発射第一撃は、ソウルの王宮に対してでした。日本軍は清国軍と放火を交える前に、朝鮮の王宮を占領し、国王を事実上、とりこにした。

 「清国軍を朝鮮から追い出してくれ」という朝鮮国王の公式文書を手に入れることによって、日本軍が清国軍を攻撃する建前を手に入れたかった、しかし朝鮮国王が同調するはずはない、それなら手荒なやり方ではあるが、王宮を占領して、しぶる国王を捕虜にしても清国軍攻撃の「公式要請文」を入手する。同時に、日本軍がソウルから南下して清国軍と戦っている間、ソウルの安全を確保するため、ソウル城内の朝鮮軍施設を全部占領し、城内から朝鮮軍を一層する。また朝鮮政府の敬礼で朝鮮人人馬の徴発をしやすくする。そんな目的で行われたのがこの朝鮮王宮占領とソウルの完全制圧でした。これを計画したのは誰か。発議したのは、軍よりも外交畑だったとみられる。朝鮮駐在の日本公使の大鳥圭介と外務大臣陸奥宗光、それに伊藤博文首相、勿論参謀本部との意思疎通の上計画された。

 朝鮮南部の農民蜂起(「東学党の乱」で、農民軍が政府軍を圧倒する勢いになり、朝鮮に駐在していた袁世凱らが朝鮮政府に清国軍の出兵を求めるよう圧力をかけた。それに対抗し日本軍も朝鮮に出兵する。しかし、日清両国の出兵を見た農民軍は政府軍と和睦、日清両国は出兵の口実を失う。それ以後、日本政府は開戦の口実を認めてさまざまに苦労する。さらに、下関条約(日清講和条約)の調印から半年後の1895年10月8日、朝鮮駐在の日本公使館と駐在日本軍が関わって、王宮の奥深く国王の妃の寝室に乱入し、王后を殺害するという事件が引き起こされた。「閔妃事件(みんぴ事件あるいはびんぴ事件)

 参謀次長の川上壮六らは、三国干渉後、思いのままにならない朝鮮事情、その中で王后を「親ロシヤ」の中心とみなして事件を計画したのです。」

 

 以下私見ですが、例えば英国はアヘン戦争で中国にかなりあくどいことをした。英国だけでなく、欧米の先進国はアジヤ諸国に対しかなりあくどいことをして領土を奪った。帝国主義の侵略です。日本もこうした帝国主義侵略をしてもかまわないと考えた。そういうことを認められる時代ではなくなっていたのに。日本は遅れてきた侵略主義だった。これが、日本がアジヤ諸国に嫌われた原因であったと思います。この遅れてきた帝国主義を「シベリヤ出兵」にも「満州事変」、「日支事変」にも持ち込んだ。日露戦争後に変質したのでなく、日清戦争時点で既に遅れてきた帝国主義ではなかったか。と、思います。