古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

竜馬の手紙

2017-12-13 | 読書

磯田道史著『竜馬氏』(文芸春秋社、2010年9月刊)という本を市立図書館の棚で見つけた。磯田道史って、最近時々TVで見かけるな、と手に取ってみた。

 

 手紙を読まずして竜馬を語るなかれ、と。竜馬の手紙を子細に読み解くことで竜馬を分析し、合わせて暗殺の真相に迫っています。

 文久2年3月、28歳で脱藩した竜馬は、松平春嶽そして勝海舟との大きな出会いがある。翌文久3年3月20日、姉乙女に向けて有名な手紙を書きました。

「うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり」、ここに彼の欠点が現れている。運が良いから自分だけは死なないとの過信です。結局、何度も危険な目にあって生き延びるが最後は死んでしまう。常に自分だけは死なないと根拠のない自信もっていた。

 この手紙で竜馬は勝海舟のことを「日本第一の人物」と表現します。脱藩した竜馬が、自分がい生きてゆく路をはっきり見つけた瞬間にかかれたものだと言ってよい。19歳で江戸に出て以来、剣術や砲術を一所懸命学んでたわけですが、ついにこれこそ自分の歩むべき路だ、と確信できるものに出会う。それが海舟に教えられた「海軍」だった。

 竜馬は海軍の本質を良く理解していました。海軍というとすぐ大砲をぶっぱなす武力的利用のイメージがありますが、それは皮相の見方です。海軍のもう一つの威力は貿易に使えて国に利益をもたらす点にあります。勝に出会った竜馬は海軍=商船艦隊=富国強兵という当時の日本人を超越した思想を内面化した。

手紙の最後も竜馬らしくユニークです。この手紙を「乙様/おつきあいの人にも、お心易き人には内内お見せあれ」と結んでいる。

 

竜馬の人生をいくつかに分けるおすれば、一、土佐時代、二江戸での修業時代、三、脱藩から勝海舟と出会い海軍に目覚め、亀山社中を結成した時期、そして第四の最も重要な時期が慶応二年からその死までの最後の字か年です。その第四期の入り口にかかれたのが慶応二年2月6日の木戸宛書簡です。いわゆる「薩長同盟」が竜馬の仲立ちで結ばれたのが1月22日、その翌日の夜、竜馬と三吉慎蔵の二人は、伏見寺田屋で伏見奉行所の捕り方約100人に襲撃されます。この手紙はその時の様子を簡潔に報告したもの。「かの高杉より送られ候ピストルを持って打ち払い一人を打倒し候」と報じている。手紙を貰った木戸孝允は、骨も凍る思いになったと返信に書いている。木戸は油断ならない世の中だから気をつけろと、心底龍馬のことを心配している。しかし竜馬は木戸や仲間の心配に耳を貸さず、最後まで根拠なき自信のもと、無防備な人生をおくってしまう。本来、竜馬が桂に報知しないといけないことは、ピストルを使っての大立ち回りのことでなく、別にあった。寺田屋で薩長同盟に関しての書類が伏見奉行所=幕府方に差し押さえられた可能性が高い。ので本来ならどんな書類が敵の手にわたったかを木戸に伝えなければならない。でもそんな要素は城戸宛の手紙に微塵も出てこない。この手紙の一月余りのちの手紙に「当時実に歎ずべきは伏見にとり逃がし浪人の取り落とせし書面」という一文があり、どうも竜馬は命からがら寺田屋を逃れた時、重要書類を抑えられたらしい。

 寺田谷事件を報告する手紙がもう一つある。「慶応二年12月4日、坂本権平、一同宛て」、は膨大な内容で、寺田屋で襲われた時の様子を家族に語っている。幕府の襲撃から逃れた本人がその様子をこれほど詳細に書いた書簡は見たことがない。日本史上残るテロ遭遇者の体験記です。

 興味深いのはここにかかれた「竜馬がねらわっる理由です。幕府大目付は次のように言って伏見奉行所に竜馬殺害を命じたと、竜馬は自分の家族に説明している。

「坂本竜馬なるものハ決して盗み、かたりは致さぬ者なれどもこの者がありてハ徳川家の御為にならぬと申して是非殺す様にとのこと。この故ハ幕府の敵たる長州・薩洲の間に往来して居るとのことなり」

 竜馬暗殺の黒幕は誰か、定説はなく、“幕府を温存しようと竜馬が邪魔になり薩摩が殺した”との説もしばしば語られます。しかし、要するに『この者ありては徳川家の御為にならぬ』ということが、竜馬がこの世にいられなくなった理由ではないでしょうか。本人もちゃんとその容疑がわかってて家族に説明している。

 慶応3年の秋から冬、つまり暗殺される直前には、竜馬は土佐と『薩摩を結びつける動きを活発に始める。幕府からすれば、これ以上自由にさせておくわけにいかない。それで竜馬を捕縛に向い殺すにいたった。手紙を虚心坦懐に読むとそう考えるのが自然です。

竜馬の手紙の顕著な特徴は、家族に指示活動の内容、自分が知ったさまざまな内幕などを全部喋ってしまうことで、この手紙はその典型です。

このおしゃべりな性格は、竜馬暗殺に大きく関係している。今どこにいて何をしようとしているかをすぐ手紙に書く。だから、竜馬の居場所などの情報はすぐ外部に漏れます。

 竜馬が人並み外れた求心力を持ち、数々の大胆な周旋を可能にしたのお彼のこの身軽さ、警戒心のなさ、無邪気さによるところが大きいのは間違いない。ただ、しばしば、最大の長所が最大の欠点になるように、彼の長所が彼の命を奪うことにもなりました。

 慶応3年8月、竜馬は薩長土連合艦隊を作って幕府と闘うつもりでした。同月下旬にかかれた土佐藩の佐々木孝之宛て書簡でわかる。

この手紙では、いきなり「先、西郷、大久保一翁のこと、戦争中にもかたほ(方頬)にかかり一向忘れ申さず」と書き出し、自分がいかに西郷、大久保一翁の二人に男ぼれしているかを語っている。もし戦死をしても西郷と大久保一翁の二人の手ずら「ただ一度の香花を手向けくれ候らわば必ず成仏いたしそう牢固と」とまで言う。

勝でなく同じ幕臣の大久保一翁と言っているのがポイントです。

勝は毀誉褒貶別れるけれど大久保一翁には大変な人望があった。

思うに竜馬には、その藩や組織の中で「あいつのいうことだったらしょうがない」と人を納得させる人間を見つけそういう人間と付き合う。

 身分も立場もない一介の浪人でありながら、幕末史の中で重要な仕事ができたのはこの主軸となる人を使うという行動パターンが影響している。

 

 以上、竜馬直筆の手紙を読んでいくと、意外と知られていない竜馬の素顔が見えてくる。

竜馬は幕末の志士のなかで日本一面白い手紙を書いた人です。司馬遼太郎の『竜馬が逝く』だけ読むのはもったいない。竜馬自身の手紙(講談社学術文庫の宮地佐一郎編「竜馬の手紙」139通の手紙がある)と二つながら読めば片方だけ読むより数倍も楽しい。