古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

4月3日,駅ちかウオーキング

2016-04-04 | 旅行
 『駅ちかウオーキング』に久しぶりに参加しました。4月3日、地下鉄星ヶ丘駅をスタートし、平和公園を経てアクワタワーを見て香流川緑道の桜並木、明徳公園を回って地下鉄上社駅までの9.4kmのコースでした。
 9時半、星ヶ丘駅の東口を出て西へ。千種スポーツセンター

を過ぎて平和公園の入り口です。
 平和公園は戦後の都市計画で市街地の寺院のお墓を東郊に移転させて作った公園です。約2300本の桜が植えられ、桜の名所になっています。
坂道を北に上がると、見どころの「桜の園」です。

散策道を歩いていると、「法光寺墓所」とか「長園寺墓所」とかの表示がみられる。徳川宗春墓碑の表示もあった。

「献体の碑」というモニュメントもあった。

平和公園の北側にはアクアタワーがあった。給水塔である。

最上階が展望台になっていて、土日祝日は開館している。見晴らしのいい眺めがみられるかなと、エレベータ前の待ち列に並んで上がってみたが、雲が多くて期待ほどの眺めでなかった。
ここまで4km、東へ歩くと猪高車庫である。北へ曲がり道なりに1㎞ほど歩くと、「京命」です。毎年中学の同級生から貰う賀状の住所だ。どのあたりが彼女の住いかな?

更に北に進むと香流川にでました。
香流川は長久手市岩作三ヶ峯辺りに源を発し同市の中心部を東南から北西にかけて流れた後、名古屋市名東区に入り、藤ノ木川が合流。同区の北部を東から西にかけ流れ、千種区で矢田川に合流している。香流川は矢田川流量の四分の一を占めるとか。
散策道が両岸に整備され桜並木がきれいです。(巻頭写真)
気の早い鯉のぼりが風に舞っていました。

川沿いに1kmほど歩くと引山小学校の校庭で香流川桜まつり、売店が店を広げていました。土産にからすみ1本購入し、その後さらに歩いて7㎞地点で右、猪子石小学校へ、小学校の交差点を東へ曲がると明徳公園です。
高台になった森を生かした公園で、山道のような散歩道を登ると。名古屋市内を眺望でき、比較的植物類も充実した印象です
ここまで来るとゴールの上社駅までは1㎞弱。9.4㎞完歩して13時ゴールしました、

あぁ、、疲れた!

さくら満開

2016-04-02 | 旅行
 19日に開花宣言したもののなかなか満開にならなかったさくらが我が家の周辺でも昨日からさきほこっています。明日は、天気が下り坂ということなので、今朝は名城公園に花見にいきました。ジョギングしている人も多く、今は走れなくなった小生にはうらやましいかぎりでした。

織部

2016-04-01 | 読書
 31日午前、BS3でニューヨーカー「織部」に挑戦という番組が放映されていた。
ハイビジョンスペシャル ニューヨーカー 織部に挑む(四回放送:2004年) 2003年、ニューヨークのメトロポリタン美術館で織部展が開催され、日本の陶芸家の指導のもと、現地の学生たちが、織部の特徴を意識した陶芸制作に挑戦した。アメリカの若者たちの目に、日本の美はどのように映ったのか
「織部」と言う場合、陶器の「織部焼」のことなのか、戦国武将古田織部のことなのか、
TV番組は織部焼のことだが、人物の織部は、ウィキペデアによると
「古田 重然(ふるた しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。・・
 先日、大学図書館で「古田織部」(諏訪勝則著、中公新書2016年1月刊)なる本を見つけ借りてきていた。番組が面白かったので、「そうだ、あの本を読まなくっちゃ」と目を通した。著者は陸上自衛隊高等工科学校教官の歴史家で「戦国織豊期の政治と文化」などの著書がある。
 本書は、史料を辿って記した「古田織部」の評伝である。
「織田信長に仕えて調略の才を発揮した織部はのち秀吉に従って天下取りに貢献いた。中川清秀の妹「せん」と結婚し、賤ヶ岳合戦で清秀が死ぬと、中川家の後見役として活躍した。他方、茶の湯を千利休に学んで高弟になる。利休死後/特異な芸術センスで桃山文化に多大な影響を及ぼし、公武にわたる広範な人脈を築いた。だが、大阪夏の陣で豊臣側への内通を疑われ幕府から切腹を命じられる。この本は、織部の死についての解釈に新味がありました。
その死の背景に、徳川政権の盤石を期す家康の思惑があった?「天正19年の利休の切腹、文禄4年の豊臣秀次の切腹、そして織部。いずれも触法時代を代表する文化人3名の死には共通点があった、と述べる。
大阪の陣は、徳川政権の永続を願う家康にとって、危険因子を取り除く総決算事業であった。織部の弟子は、豊臣・徳川に関係なく存在しそのつながりの広さ深さは確たるものであった。依然として豊臣恩顧の武将とも親しかった。もちろん文化的なつながりで政治的なものではない。しかし徳川政権にとっては、そのネットワークは排除すべきものだった。
 権力の維持という視点に立つと、秀次の切腹と共通点がある。秀次は文化の庇護者として公家屋かいや五山[臨済宗の寺院]と深いつながりを持ち、秀頼に豊臣家を託したい秀吉にとって秀次の築いたネットワークは潜在的脅威であったのだ。
尚、茶道薮内流の祖、薮内剣仲は、は織部の義弟であり、上田流の祖、上田宗箇は織部の高弟です。また、織部の出生地は郡上市美並町との説がある。