古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

なぜ、ノモンハン戦の執筆を断念したか

2016-04-08 | 政治とヤクザ
『司馬遼太郎に日本人を学ぶ』(森史郎著、文春新書2016年2月)を読みました。著者は元文藝春秋編集長。入門書として司馬作品を解説していますが、私にとっては、第9章「なぜ、ノモンハン戦の執筆を断念したか」が実に興味深かった。
 「当時の参謀本部作戦課長でのちに中将になった人にもあった」―――6時間、陽気にほとんど隙間なく語られたが、小石ほどの実のあることも言わなかった。私は40年来、こんな不思議な人物に逢ったことがない。私はメモ帳に一行もかかなかった。書くべき事実を相手は一切喋らなかったのである・・・。名前は明かされていないが、当時の作戦課長は稲田正純中佐である。
 こんな陸軍エリートたち10数名の取材をかさねながら、司馬さんは失意の中で一筋の光明を見出した。それが、
「信州の盆地の温泉宿の主人」
であった。
 その人物とは、ノモンハンの戦場で生き残り、その後軍の忌避にあって免職させられた歩兵部隊連隊長である。
当時の兵器については、司馬さんと同意見で、
「われわれが持たされた装備は元亀天正のころと同じ」
つまりは、戦国時代の火縄銃や大筒のようなものと、痛罵しているのである。そして作戦を命じながら何の責任も取らされず、取りもしない参謀たちにに対して、この元連隊長は、
「悪魔!」
と切り捨てた。
 司馬さんは、のちにこの人物を対談やエッセイで取り上げ、名前を明らかにしているが、その連隊長の名は須見新一郎大佐である。
 須見大佐はノモンハン戦を回顧して、こんな証言を残している。
「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく当時の小松原中将およびそのあとにきた荻須立平中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果に終わったことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりした」
司馬さんは、事変後の処理について、
「その責任は生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もあった。そのころの日本陸軍の暗黙の作法として、責任を取らせたい相手の卓上に拳銃をおいておくのだが、右の元大佐はこのばかばかしさに抵抗した。このため、退職させられた」
と書いている。元大佐とは、いうまでもなく須見新一郎である。
司馬さんが信州通いをはじめていたころ、どことなく確信にみちた表情でノモンハン事変を語っていたのは、この須見新一郎という第一線部隊の連隊長の存在を知り、小説の主人公候補としてふさわしいという気持ちに駆られたのであろう。
ある日、司馬さん周辺の聞き込みによると、「信州の温泉宿の主人」がはげしく怒り、司馬さんあてに絶縁状がおくられてきたという。
その理由とは、月刊「文芸春秋」誌昭和49年1月号に掲載された「昭和国家と太平洋戦争」と題された司馬対談で、相手は元大本営参謀、伊藤忠商事瀬島龍三副社長。
「あんな不埒なヤツにニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」
対談は失敗に終わった。稲田元作戦課長が失望させたように、瀬島元中佐も“小石ほどの実のあることも言わず”、責任も感じず、責任もとらなかった“典型的な陸軍エリート参謀”のままであった。―---かくて、ノモンハン戦の取材は侵攻停止状態となった。
この執筆中止を耳にして、司馬さんの知人である青木彰元筑波大学教授は、
「司馬さんの歴史小説家としての活動、日本・日本人を描こうという意欲は、ノモンハン、太平洋戦争と言う愚劣な日本人の戦争を描いて初めて完結したのではないか」と言う。

最新の画像もっと見る