古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

前立腺がんの疑い

2015-12-13 | Weblog・人生・その他
 「前立腺がんの疑いがあります」。「前立腺の組織をとって顕微鏡検査が望ましい。一泊2日の入院が必要です。」。医者がこういいました。12月10~11日、名古屋市立西部医療センターに入院することになりました。
 事の起こりはこうです。
9月末、後期高齢者保健の特定診断、つまり健康診断を受診したら、血液中のPSAが高い!5.64ng/dl(正常値は4以下)。若先生は一度MRIで画像診断した方がいい、と言い西部医療センターを紹介してくれた。帰宅後パソコンでPSAを検索してみたら、PSAは前立腺がんのマーカーで、4を超えていた場合がんである確率は30%程度とある。
 多分大丈夫と思ったが、せっかく若先生が進めるから受診するだけ受診しようか。紹介状をもって医療センターに行ったのが、先月の15日。すぐMRIを取ってもらえるのかと思ったら、尿検査、血液検査(MRIは造影剤を入れるので使っても大丈夫か肝機能、腎機能をチェックするのだそうです)、問診、触診(お尻の穴から指を入れて前立腺が大きくなっているか触ってみる)。その結果触診だけではわからない(当然だろう)。MRIの画像診断をやってみるから11月10日に来なさい。結果は1週間後の17日に知らせるというのです。
10日に行き、MRIの診断室に入る。着替えをして、「閉所恐怖症はありますか」。「ない、ない」。ベッドに寝て機械の中にもぐる。
以前頭部のMRI受診をしたことがあるが、機械の騒音がものすごく、まるで耳元でジェット機のエンジンが回っている感じで閉口したのですが、今回は機械が頭部でなく、腰部ですから、音はさほどでなかった。
機械が停まって、これで終わりかと思ったら、「造影剤を入れます。」と腕の静脈に針をさした。
「なんだこれから本撮影だ」。その後機械が動いて撮影終了。
 17日午後、結果を聞きに行きました。
「画像には11mm程度の影がうつっていますが、これががんかどうかはっきりしないのです」と医師が言う。
「ですから生検、つまり前立腺の組織をとって顕微鏡で見る必要があります。」
「真のがんである確率は?、「3割です」
おいおい、それじゃ、写真を撮るまえとおなじじゃない。写真を見ても判断できないの?と不満だったが、ここはおとなしく質問した。
「ほうっておいて半年後の血液検査でPSA値をもう一度みるというのはどうですか」
「がんでなければ全く問題ありません。しかし真のがんであれば手遅れです」
「がんであった場合どういう治療をやるのですか」
「75歳以上の場合手術はやりません。従って放射線治療と飲み薬ですね」
「医者としては生検をすすめるわけですね」。「そうです。生検するには、前立腺から組織を採る手術が必要です。そのため一泊二日の入院が必要です」
結局12月10日入院することになりました。検査入院ですから11日には退院できるそうですが、入院とは大ごとになったものです。青天の霹靂ですが、もう80歳に近い。平均寿命ぐらいまでは生きているから、どんな病気になっても不思議ではない。
次便は?11日の退院後に報告します。


年とったなぁ

2015-12-07 | Weblog・人生・その他
師走に入ってもう一週間が過ぎました。例年この時期になると「喪中につき年賀は辞退します」という挨拶状がきます。今年も5通到来しました。「母が亡くなり」とか「義母が永眠し」とか言うのは毎度ですが、今年は1通「長男が永眠しました」という便りがあって愕然としました。子どもに先立たれるほどの高齢者の仲間に自分もなったのか、とおもったからです。
あぁ、俺も年とったと思った第一です。

 5日、午前中にかかりつけの若先生を訪れました。特にどこが悪いということでなく、月に一度は血圧の薬を貰いがてら健康相談をしているのです。
 先月はpSAが増えたことから前立腺のmRIを受けることをすすめられたものですから、早速「MRIの結果は?」と聞かれました。
「生検が必要だから一泊二日で入院するよう言われました。10日に入院し、結果は17日に知らせるということでした。と報告した後、「大したことはないだろうと思ってましたが、入院という大ごとになったので閉口しています。」と返事して、「何が悪くて前立腺が悪くなったのでしょう。何も悪いことはした覚えはないのですが・・・」。
「病気というものは、因果応報でなるものではないのです。別に悪いことをしてなくても、年をとれば病気がでます。」
「人間はすべて死にます。“自然死”という言葉は、正確な言葉ではありません。すべての臓器が自然であれば死ぬはずないからです。死ぬときにはどこかが病気になって死ぬのです。前立腺がんになったとしたら、その原因は「強いて言うと“長生き”したからですよ」
「それに前立腺がんは難しい病気ではありませんから、がんであったとしても治療をすれば治る病です」。あぁ、俺も年とったと思った第二です。
第三があります。
 6月13日、駅ちかウオーキングにでかけたのです。東海通り駅がタスタートで、七里の渡し、白鳥公園、熱田神宮を回って堀田に戻る9㎞ぐらいのコースでしたが神宮まで歩いて、後、左足の裏が痛くて歩けなくなりました。
 それ以後、5~6㎞歩くと左足の裏が痛くなる。何故痛くなるのか?それも左だけ痛いのか?
70年以上歩いていますが、そうした体験がない。両脚ともに足裏が痛くなったことはあります。
30年前、フルマラソンを走ろうと思い立ち、練習を始めました。毎日練習していたら、足の裏が腫れてきたのです。腫れた部分が地面に接触すると痛い(この時の痛さと今回の左足裏の痛さと同じなのです)。つまり足裏を酷使した所為らしい。
でもあの時は両脚です。今回は左足だけ酷使しているのだろうか? 思い当たるのは、頸の怪我です。頸は沢山の神経が走っている。左足を動かす神経に異常をきたして左の腰・太ももの筋肉に力が入らない?そのため、歩くときの衝撃が、左腰や太ももで受けることが出来ず、すべて足の裏にかかり、足裏を酷使することになる。それで、5~6㎞も歩くと足裏が腫れてくるのでは?
 それに水泳があります。怪我以後バタフライの泳ぎが出来ない。泳ぎ仲間に診てもらうと左足が動いていないという。コーチに聞くと左足の水を押す力が弱いという。
 でも、歩きの異常は怪我してから何故1年以上経ってそうなったのか。説明がつきません。
しかし左足に異常が生じていることは間違いない。いつも行っている整形外科医に聞きました。
「足裏の痛みは頸の怪我とは無関係と思う。通常、脚を動かす神経が異常になるのは、腰の神経を痛めた場合は起こりうる。また、怪我でなく、年をとったため、腰の神経の異常が起きることはありうる。腰のMRIを撮ってみる手はあるが」。
 もしかすると、泳げなくなったのは、頸の怪我の所為と思っていたが、老齢化が頸の怪我と同時に起きたのかもしれない。


昭和史のかたち

2015-12-02 | 読書
 『昭和史のかたち』という本を保坂正康さんが岩波新書からだしました(10月)。昭和史を幾何学の図形になぞらえることで、解説をするというユニークな書です。
 たとえば、昭和史を三角錐に例えます。以下、その説明の概略です。
昭和史は三つの時代に分けられる。第一は敗戦までの戦争の時代。第二は米軍の占領統治の時代。第三は独立後の経済の高度成長の時代です。それぞれの時代を代表する首相を選ぶと、第一の時代は東条英機、第二の時代は吉田茂。第三の時代は田中角栄を選べます。そこで頂点をA,底面をB、C、Dとする三角錐ABCDを考える。
 今、面ABCを東条英機とする。面ACDを吉田茂、面ADBを田中角栄とします。底面BCDには何がくるか。
 アメリカがくると保坂さんは言う。この3人の共通点は何か、というと獄中の経験があることです。投獄された理由を考えると米国との関係だというのです。
 東条英機は対米戦争の責任を問われました。吉田茂は戦争末期に米国との講和を画策したと疑われたのです。当時の特高は、ヨハンセン(吉田反戦グループのという符牒で内偵していたそうです。角栄はロッキードですが、これについて保坂さんはこう言う。
 『田中は戦後の保守内閣の中では、アメリカの政策と一線を引いた首相であった。アメリカに警戒心を抱かせたのは、日本が石油をシベリヤから入れようと主張したり、米中接近でニクソン、キッシンジャーが毛沢東、周恩来と話をつけているときに、田中は一方的に日中国交回復交渉を進め、キッシンジャーをして、我々の作ったケーキのもっともおいしい部分を田中にさらわれたと言わしめたことなど。アメリカに対し独自の外交姿勢を示したことがロッキードの逮捕につながった節がある。いずれ近い将来にこの方面の資料は解禁となるとも考えられる。』
 またこの底面にたとえば天皇を置くと、面白い関係が見えてくる。
東条と天皇の関係を見る。天皇は「東条は元々は悪い人物ではなかった」という意味の発言を繰り返した(昭和天皇独白録)。東条は天皇に対して、それまでの首相や軍事指導者とは異なった態度をとった。それまでの軍事指導者はその上奏にあたって、不都合な事実や不明朗な事実は隠そうと試みた。だが東条は当初はそのような態度はとらなかった。
吉田と天皇の関係は「臣茂」という言葉に代表される。
さて、角栄と天皇の関係。こういうエピソードを紹介しています。
首相としての田中は、たとえば「経済がうまくいってますか」と問われれば、自分の内閣になってから国際収支がいくらだとか、経済成長率がどのように推移しているか、など具体的に説明を繰り返していく。天皇は驚いたような目で見ていたとの証言を宇佐美元宮内庁長官から聞いた。
 官僚出身の政治家たちが恐れる「天皇の政治的関与」(具体的に政策を説明したら、天皇もなんらかの政治的見解を口にしなければならなくなるので、詳細な政策は語らない)などはまったく気にしない。そういう配慮もしないことで、田中は自らの側に天皇を引き寄せていく。
 三角形の頂点Aを、3人の首相に課せられた「時代の役割」とみ、その他の二点を「個人の能力、識見」、そして「政治手腕」とおいてみると、3人の三角形は同じでない。
 東条と吉田を比べると、東条の能力や識見は吉田よりはるかに落ちる。
 東条のアメリカ観はきわめて拙劣で駐在武官として有能な軍人の報告に一切耳を傾けなかった。巣鴨プリズンでまだ20代に入ったばかりのMPが民主主義とは何かを東条に語って聞かせ、東条はそのことに感銘を受けたと面会にきた側近に語っていたというエピソードがある。
田中もまた、能力、識見は吉田より劣るにせよ、その政治的手腕は吉田とほぼ同じ程度と言えよう。
こうした話が続きます。
 天皇と統治権・統帥権の関係について、三角形の重臣の位置に例えた説明など、なるほどと思わせる記述がありました。