古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

桑原武夫さんと司馬さん

2015-12-25 | 政治とヤクザ
『司馬遼太郎の言葉』((朝日新聞出版m2015年12月)が出ましたので、早速買い求め読みましたが、一番興味深かったのは、「週刊誌と日本語」と題する最終章でした。
「夏目漱石と正岡子規、二人の天才は、あらゆることを表現できる文章日本語をつくりだした。
 ひとつの民族が共通の言葉を持つにはよほどの歳月が必要なんですね。
桂月も鏡花も、漱石も子規も、自分の手作りの文章を世間に示し、世間がいろいろに反応します。
 それらをサンプルにして国語教育が行われ、子供の頭にしみこんだり、はねつけられたり、忘れられたり、そうして長い歳月の間の、文章の社会的経験を経て、共通のものができあがるのではないか。
こういう仮説を勝手につくりまして、フランス文学者の桑原武夫先生とお酒を飲んだとき、
「桑原さん、いまから僕の演説を聞いてくれ」聞いてもらいました。そのあとに、
「フランス語はいつ共通のものになったんですか」と聞くと、桑原さんは熟考され、
「150年前ぐらいに出来上がった。それはだれそれの文章である。」
 そのあとちょうど河盛好蔵さんにお会いしたときに、同じことを伺いますと、やはり同じことを言われた。
なるほど碩学というものは同じことを言うなと感心したことがあります。
西堀栄三郎さんという方がいます。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。
 西堀さんは優れた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこういった。
「だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない」。
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
「おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ。」
「文章に理系も文系もあるか」
「じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ」
 私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
「おまえは電車の中で週刊誌を読め」
 西堀さんはおたおたしたそうです。
「週刊誌は読んだことがない」
「『週刊朝日』でもなんでもいいから読め」
 週刊誌の話になったのには理由があるんです。
私は桑原さんにこう言いました。
「共通の文章日本語ができそうな状況になったのは昭和25年ぐらいではないでしょうか」
これには非常にかぼそい根拠がありまして、昭和20年代の終わりごろに批評家たちがしきりに似たことを言い出していました。
「この頃の作家は同じようなことを書いている。変に文章技術はうまくなっているけれど、同じようなことばかりでつまらない」
 しかし、私は逆に見ることもできると考えました。内容のつまらなさにアクセントを置かず、誰もが簡単に書いていることに驚きを感じたらどうだろうか。
 それが出来ずに苦労していた時代もあったのですから。この時代に共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。
「週刊誌時代がはじまってからと違うやろか」
 西堀さんのエピソードにきりをつけなくちゃいけませんね。
 それから西堀さんは一年間で、文章をちゃんと書けるようになられたそうであります。
この後、子規が墓碑銘に「月給40円」と記した話になりますが、こちらは有名なので、割愛します。