古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

今治城

2004-12-01 | 旅行
 11月27日、新幹線を岡山で予讃線の特急「しおかぜ」に乗換え、今治に着いたのは2
時半過ぎだった。
 駅前のビジネスHチェックインして、夕方までの時間を今治城の見学に行く事にし
た。駅から1.3Km、お城は港の近くである。関ヶ原の戦功で伊予半国の領主に
なっ
た藤堂高虎の設計で1604年(慶長9年)の完成というから今年が築城400年。
お堀の水に海水を引き入れたので「海城」と言われたそうで、海につながり潮の干満
がある。城内には高虎馬上の勇姿が銅像になっている。
 5層6階の天守閣に登る。最上階が展望台になっているのだが、上がって驚いた。
6階の四周に、廊下と言うか縁側というか、作られているのだが、そこに出入り自
由。確かに見晴らしは良い。しかし、転落防止のフェンスは付いているものの、簡単
に乗り越えられそうだから、飛降り自殺希望者は容易に身投げが出来る。伊予人は、
精神的に豊かなので、飛降り自殺を試みるような、不心得者は出ないのだろうか?
 各地の天守閣に登ってみたが、どこでも最上階の展望は窓からが普通で、こういう
のは初めて見た。
 この天守閣は、市制60周年記念事業で1980年に建築された鉄筋コンクリート
造りである。元々の天守閣は、築城当時はあったらしいが、間もなく解体されて丹波
亀山城に移築されたと伝えられる。
 藤堂高虎は、築城の名手として知られる戦国の武将です。最初は浅井長政の家臣
だったが、後、羽柴秀長、秀吉、家康に仕え重宝がられた。慶長11年江戸城を縄張
りして2万石を加増されると、妻子を江戸に住ませ、参勤交代の基になった。言わ
ば、世渡りの名人で、慶長13年伊賀国主に栄転すると、家康が豊臣対策に築く丹波
亀山城に、なんと今治城の天守閣を、そっくり移築して献上したという。今治藩主は
その後家康の甥が着任し松平藩として明治を迎えたが、維新の際、徳川親藩の今治藩
の城は打ち壊され、城郭も落札させられたと言う。
 要するに今治城の天守閣は4年間しかなかった。その天守閣を、今治市は、丹波亀
山城の天守を模して、昭和55年再建した。更には御金櫓、市制70年の平成2年に
山里櫓を再建した。昭和・平成の築城である。
 天守閣を下りて驚いた。隣に人家が数軒建っている。お堀の内部は公園になってい
るのが普通で、天守閣にお隣さんが住んでいるなど、聞いたことが無い。明治維新の
際、入札で落札した人の子孫であろうか?
 なかった天守閣を作った例は、大分県の中津城がある。この城は、秀吉の名参謀と
言われた黒田官兵衛の築城だが、官兵衛は、中津城には天守閣は戦略的価値がない
と、作らなかった。ところが、戦後、中津市は天守閣に観光資源的価値を認めたらし
く、天守閣を作ってしまった。
 3日間の旅行記を書こうと思いましたが、初日は天守閣の話で終ってしまいまし
た。




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