古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

養老先生の本

2004-03-11 | 読書
 先般来、紹介しています養老先生の本『あなたの脳にはクセがある』(中公文庫)
を今週の週刊朝日(3月19日号)が書評で取り上げていました。確かに、この本
、今まで私が読んだ氏の著作の中で、軽い筆致ながら、いちばん面白い。
 いくつか、なるほどと思った点を、以下に紹介します。(( )内は私の感想な
いし補足)

 日本人の起源が科学的にわかってくることは、ずいぶん重要ではないかという気が
する。それは国民の意識を変えるに違いないからである。(韓国語を学ぶと、文法は
日本語の文法と殆ど同じなので、韓国人と日本人とは、どうしても同じ先祖だと、思
えてくる)
 大陸に位置する近隣諸国と日本が仮に折り合いが悪いとすれば、その原因はどこに
あるか。これも乱暴にいうなら、大陸のやり方が気に入らない人たちが国を出て、日
本にやってきたからだ。そう想像できないでもあるまい。
中国や韓国の人が「日本人は歴史を消す」というとき、暗黙のうちに、故郷を捨て
た人たちの、故郷への態度を感じているのではないだろうか。なぜならわれわれの祖
先、弥生人とは、その中国や韓国を、なにかの事情ででてきてしまった(いわば)メ
イフラワー号に乗った人たちにちがいない・・
 ・・・故郷を捨ててきた人たちは、そのときにまさに「歴史を消した」はずだから
である。その意味で歴史を大切にする人たちなら、まだ相変わらず大陸に住んでいる
であろう。・・・
  
 学問には、対象と方法とがある。私は方法にこだわって生きてきた。ところがこの
世間では、対象で学問を分類する傾向がある。
永年思っていることだが、わが国の専門家たちは、方法論が専門を規定するのでは
なく、対象が専門を規定すると信じているにちがいない。ヒトの死体を分析すれば解
剖学だが、解剖学の方法でべつな対象を分析すれば、それは解剖学ではないと思うら
しいのである。
 ・・・解剖学というのは、対象ではない。人体を解剖しようが、ラクダを解剖しよ
うが解剖である。経済だって解剖できないわけではない。本の題名に「日本経済の解
剖」と書いても、だれもなんとも思わないだろう。(まさに目からウロコの指摘。あ
る種の科学が急激に進歩するのは、その科学の研究手段が急激に進歩した時。つま
り、方法論が進歩した時である。)

 おかげで人生がいささか狂った。自然科学をやっていたのに、あるとき「英語で論
文を書く」作業をやめてしまったからである。そのために「科学者としての将来」を
自分で消すことになった。・・
 何故そんなことになったか。日常は日本語で生きているのに、自分がいちばん重要
だと思う仕事を、本当に英語で表現できるのか。していいのか。そこである。
(例えば、論文を英語で書くのは良いとして、その論文について英語圏の人に質問さ
れた場合、うまく説明できるだろうか?説明できなくとも、英文の論文さへ執筆でき
れば良いのか?)
 英語と日本語では、モノを見る目自体が、具体的に違ってしまう。英語ばやりの世
の中で、それに気づく人がどれだけいるか、私は知らない。
 結局この問題、科学における手段としての言語の問題を、私は解決できなかった。
そう思う。ともあれ英語論文を書くのをやめて、その後はもっぱら日本語を書き続け
た。おかげさまで、本は「むやみに」売れるまでになったが、内容はいわゆる科学か
らズレてしまった感がある。それでもそれが「日本語で書かれた科学だ」と頑張りた
い気持ちはある。