津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■判読不明

2016-12-08 08:57:40 | 先祖附

 某家の先祖附を読んでいるが、たった一文字が判読できずにいる。
「知行■為」の■の文字だが、「阝」偏だと思い「くずし字用例辞典」の「阝」偏の60文字を総あたりするが該当する物が見当たらない。
「東大史料編纂所」の『電子くずし字字典データベース』『木簡画像データベース・木簡字典』連携検索で調べても判らない。
はたと困ってしまった。
形として一番近いのは「陸」という文字だがこれでは意味をなさない。陸=地方(じかた)とは解されないだろうか?
昨日一日を費やしてしまったが、ついに伏字「■」にしなければならないようだが、何方かご教示給われば有り難い。

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■お召し

2016-12-07 19:33:49 | 歴史

 寛文二年(1662)の今日十二月七日、細川綱利は江戸城に召された。松平讃岐守(頼重)の養女・久姫との縁組が仰せ出された。
久姫は水戸徳川家頼宣女であり、頼重と光圀兄弟の末妹にあたる。
綱利は20歳、久姫は19歳である。翌年の六月十二日入輿した。そして四人の女子をなした。
    ・菊 松平豊後守頼路室
    ・光 坂井左衛門尉忠眞室
    ・松 西園寺左中将婚約中に死去
    ・楊 松平志摩守直丘室

久姫は延宝三年二月廿日に没す。32歳。法号本源院梅渓妙香、東海寺中妙解院に葬る。

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■病院行

2016-12-07 11:23:35 | 徒然

 昨日予定の病院行きは、あまりの気分の悪さにさぼってしまった。相変わらず膨満感と胃痛・腹痛・ゲップ症状があって不愉快極まりない。
午前中ややふらつきがあるが自転車で出かける。血圧測定すると190・88と高止まり、血液を採取すると相変わらず血糖値が高い。
そこで服用の薬が変わった。
   血圧: レザルタス配合錠HD
   胃腸薬: ネキシウムカプセル20㎎
   糖尿病治療薬: オングリザ錠5㎎ 

本格的生活習慣病患者になってしまった。「お大事に」の言葉が切なく聞こえる・・・・

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■角川選書「羽柴を名乗った人々」

2016-12-06 18:22:02 | 書籍・読書
        羽柴を名乗った人々 (角川選書)
 
        KADOKAWA

内容説明

羽柴(豊臣)秀吉の政権時代、有力大名の名字はすべて「羽柴」であった!関白・秀吉は、初参内の際に主要大名を侍従以上の公家成大名に任官、同時に羽柴名字を与えた。秀吉と姻戚関係にある大名、織田家出身・旧織田家臣の大名、さらには旧戦国大名の有力者までが、秀吉に服属後、相次いで羽柴名字を与えられた。これは何を意味しているのか。新しい武家の政治序列を創り出した、秀吉の野望と類い稀な政治手腕を描き出す。

目次

第1章 羽柴名字と公家成大名
第2章 秀吉の一門大名
第3章 秀吉の親類大名
第4章 織田家の人々
第5章 旧織田家臣の人々
第6章 旧戦国大名の人々
第7章 羽柴名字の消滅

著者紹介

黒田基樹[クロダモトキ] 
1965年東京生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。現在、駿河台大学教授

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■天草島原の乱・・三斎の予感

2016-12-06 13:08:10 | 歴史

 天草島原の乱は天草に一揆が起こってから一か月以上経過しても、幕府の目附の無能ぶりもあって兵を出すことさえまゝならずにいた。
そんな中幕府から派遣された上使・板倉重昌と目付等が小倉に到着、ようやく出兵の命が下りた。十二月三日以降正使・松平信綱、副使・戸田氏鉄が江戸を立っている。乱の戦後処理の為だとされる。しかしその報に接した三斎は「板倉内膳(重昌)は討死せずして済むものではなかろう」と言っている。
二日から四日にかけて、細川勢16,000余が熊本を立ち三角へ集結をした。そして細川光利(光尚)が熊本入りしたのが今日六日である。
七日細川勢は天草に渡るが一揆勢の姿はまったくなかった。十日幕府軍は第一回目の総攻撃をかけるが敗北する。
二十日再度の総攻撃がなされたが、ここに於いても敗北をきしてしまう。この戦いに於いては細川勢も多くの死傷者が出た。
月末には松平信綱・戸田氏鉄が到着する旨の風説が広がった。この為上使・板倉重昌は一月一日の総攻撃を決意して通達した。
当然細川家にも有馬へ渡海し総攻撃に加わるようにとの要請があったが、川尻から馳せ付けるには時間の余裕がなかった。
それでも板倉は出陣を触れた手前、決行せざるを得なかったのである。しかしながらこの総攻撃も大惨敗に終わるとともに大将・板倉自身が戦死することになる。面目をかけての出陣であり又死に場所を求めての事であったろう。
後に三斎は「死なずしてかなわぬ場なり」として板倉の死を悼んだという。三斎の予感が現実のものとなった。

一月四日幕府の松平信綱・戸田氏鉄らが到着、細川忠利も十二日江戸をたち廿六日には直接有馬陣に入った。
そして二月廿七日に鍋島勢が軍令を破って城内に突入、これを期に総勢が突入して多大なる犠牲者を出して悲惨な戦いは終結をみたのである。 

                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (1)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (2)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (3)

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■薬のせいです・・・

2016-12-05 16:53:37 | 徒然

 ここ一週間ほど腹部の膨満感と共にキリキリとした胃痛・腹痛に悩まされてきたが、どうやら朝食後服用している高血圧の治療の為のアムロジピン錠の副作用らしい。
そんなこともあって熊本史談会の忘年会の案内が延び延びになってしまった。まずい今日はもう五日だと思い、気分が悪いなどとは言っていられなくなった。
会場はO会員の推薦のお店にしようと決めていたが、お店の名前や連絡先さえ聞いていない。お昼すぎにO氏にTEL、その後お店に連絡を入れて予約完了。
その後郵便局に出かけハガキ・切手を購入する。
それから案内状を作成、場所が郊外なので案内地図を作成、別途返信用はがきを作成してそれぞれプリントアウト、封筒に入れて糊付け、宛名書きをする。
切手を貼って4時すぎ完了、再び郵便局に出かけてPOSTに投函、集配が5:30頃なので今日の便に滑り込みセーフ、まずは一件落着・・・・
約4時間半の副作用の方も忘れるようなばたばた作業であった。
我に返ると又気分の悪さが一気に甦ってきた。明日は病院へ出かける予定の日、「何とかしてくれ~~」と叫びたい気分、さてどうなりますことやら・・・
 

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■加藤清正・山田貴司編著 ■肥後 相良一族 |・池田こういち著 

2016-12-05 06:54:24 | オークション

加藤清正★山田貴司編著 熊本城 織豊大名 関ヶ原 朝鮮出兵

加藤清正★山田貴司編著 熊本城 織豊大名 関ヶ原 朝鮮出兵 Yahoo!かんたん決済


肥後 相良一族 | 池田こういち/新人物往来社  

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■[老松町の殿様]石田茂作 細川護立 昭和46年 非売品 新着

2016-12-04 16:49:11 | オークション

                   オ☆[老松町の殿様]石田茂作 細川護立 昭和46年 非売品

             

                    [老松町の殿様]石田茂作 細川護立 昭和46年 非売品

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■熊本での佐々介三郎 (三)

2016-12-04 09:40:45 | 熊本地震

   御用之覚書  (細川家関係のみ抜粋)

一拙者共事、七月朔日肥後熊本ヲ罷立、同二日八代へ到着仕、征西将軍之菩提所悟真寺と申禅寺へ参申候、則住持ニ逢候而記録等事尋申候所、古ハ文
 書記録等も有之候得共、兵乱ニ紛失仕候由ニて、文書之類一紙も無御座候、後醍醐天皇并征西将軍之御位牌有之のミニて御座候
一七月七日ニ薩摩へ入申(以下略)

 

   方々ニ而御馳走之覚 (細川家関係のみ抜粋)

一越中守殿ゟ之議ハ先書ニ申上候通、末藤新衛門并ニ進藤又市・上田左次衛門・大木舎人内小川十衛門、此四人之外、文書等之よミ合又者自然病人等
 有之時之為ニとて、石川寿元と申医師ヲ御付被成候、右之五人熊本ゟ薩摩堺迄送り被申候、扨夜宿・昼休之所兼而ゟ被定置候と相見へ、掃除已下無
 残所様子ニ御座候、所々之郡奉行出合、諸事肝煎被申候、此度日向堺高森と申所迄右之五人衆十四五日已前ゟ出迎候而被居候、拙者共事、内々ハ
 七月廿二三日之頃肥後地へ入可申と存候へ共、薩・隅・日三州之間事之外嶮難、其上七月中旬ゟ打続雨降申候故山川水漲湓仕、行路とまり申事度々
 ニ候故存外道々はかゆき不申候、漸今月五日ニ肥後地へ入申候、御馳走之段々右之通ニ而御座候、諸事御丁寧之段尽筆紙候事、付り、細川丹後守殿
 御居所宇土と申所罷通候刻、家老井門次郎左衛門と申仁ゟ使者ヲ出し被申事、


             (了) 

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■熊本での佐々介三郎 (ニ)

2016-12-03 06:57:53 | 歴史

   西州方々之大名衆御馳走之覚 (細川藩に係る項を抜粋)
                               五百石                                                           三百石      二百石
 一細川殿御馳走之事、廿八日朝川尻之町奉行瀬戸長兵衛と申仁参、何ニても用事有之候ハヽ申候様ニとの事ニ候、追付郡代高原小衛門・矢野又衛
 門・
横井喜平太と申三人参申様同断、扨拙者御用ニ付肥後へ参ニ付、大木舎人事拙者ニ少由緒有之故兼而舎人ニ御申付候ハ、介三郎参申候ハヽ諸
 事用
事心安申候為ニ候間、舎人家来一人付置申候様ニと被仰付候由、此度舎人於伏見有馬へ湯治之御崎(ママ)申候之此度御供不仕候故、舎人内ニ
 而用達し申候小川十衛門と申者ヲ態とさきへ下し置、則右之趣申越候而拙者ニ付置申候、扨本書ニ申上候通、殿様御存知之仁ニ御座候故末藤新兵
 衛ヲ申付、諸事用事申様ニ□川尻迄御越被□□方々案内被申候、さて熊本□□□□家成程新敷奇麗ナル家を兼而宿ニ被定置、上田左次衛門・進藤
 又一と申歩行之使役弐人馳走人ニ御申付、日夜相詰居申候、尤茶道給仕人等迄付置申候、此御馳走之段末藤迄様々辞退仕候へ共曾以聞入不申
 候、さて廿八日之 立石権平・竹内彦兵衛と申両人之町奉行見廻ニ参候、追付越中殿ゟ為御使者伊藤一平ヲ被下、御懇之御口上ニて、其上桑酒一
 樽并梨子一籠被下候、兼々被仰付候通達而御断申上候而右之被下物ヲハ拝領不仕候而致返納候、扨又有光(吉)清助・大木弥一右衛門・同七衛門・
 和田十
郎兵衛・此四人何も拙者ニ由緒有之段御聞、何ニても用事有之候ハヽ申候様ニ、為其さい/\見廻申候へと被仰付候由ニて、両日之内三度
 迄見廻申候、扨又廿九日之□(朝カ)柏原新左衛門・有吉一郎兵衛、両人見廻被申候、家老衆も何も見廻可申候と被申候へ共、却而御用之妨ニ可成と
 存、何もおしとめ両人のミ見廻申候由被申候、扨々大勢ニこねかへされ一代ニ無之公議ヲ仕候
一薩摩堺迄ハ末藤新衛門并右之上田・進藤送り申候様ニと被仰付候由ニ而送り可申候と申候、様々断申候、とめ申候へ共、曾以聞入不申候故無是非
 同道、道中ノ駄賃・宿々ノ飯銭ハ様々断り申、自此方出し申筈ニ仕候、熊本ニ弐宿分ハ無是非御馳走ヲうけ申候、右之段々被備上覧可被下候、以上
  六月廿九日                     介三郎
  史館衆中様

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 佐々介三郎と大木舎人その他の関係

             
佐々成政===+===宗能
                      |  宗能養子                               細川家臣初代
                      +---備前---+---平馬----+--与三左衛門---勘兵衛 ・・・・・・・・・・・・→細川家家臣佐々家
                              |室・大木兼能女
                                                     |               +----介三郎---・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→水戸徳川家家臣佐々家
                              | 
                               +-----●      
                                  ‖
    大木駿河守---兼能---兼友---兼憲---+---兼近(舎人) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣木下家
                                                                 |
                                                               +---直當(有吉清助)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣有吉家(英貴流)
                              |
                              +---兼賢(弥一右衛門 兄・兼近養子)
                              |
                              +---幸周(七右衛門 分家創設し初代)・・・・・・・・・・・・→細川家家臣木下家(分家) 

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■松寿庵先生・第213講

2016-12-02 06:37:01 | 史料

                        ■森本櫓 (以前コメントしました。ご一読ください)

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■御祝い二件

2016-12-01 18:17:24 | 熊本

師走に入った今日、熊本にとってはうれしいニュースが入った。
     ■新語流行語大賞  特別賞「復興城主」    http://wakuwaku-kumamoto.com/castle/
              これをきっかけに全国の皆様の更なるご支援をお願い申し上げる。

     ■ユネスコ無形文化遺産登録 「八代妙見祭」     http://www.myouken.com/

                     databace-01skasaboko

 

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■熊本での佐々介三郎 (一)

2016-12-01 09:03:49 | 熊本地震

 「大日本史」編纂の為の史料を得べく水戸光圀の意を受けて、彰考館の佐々介三郎は貞享二年九州に入っている。
その活動の詳細は京都大学文学部所蔵の「大日本史編纂記録」に残されている。その一部が平成十三年財団法人神道大系編纂会・神道古典研究所の「神道古典研究所紀要・第七号」として発表された。小川幸代・大塚統子両氏の翻刻によるものである。

一(貞享二年六月)廿四日之午後長崎ヲ出、茂木へ着■夜舟ニ乗申候所風波あしく、廿八日之暁肥後之川尻へ着仕候、越中守殿ゟ兼而御申付置候と見
 へ、宿之亭主舟ニて迎ニ罷出候而則其家へ参申候、■(追)付所之町奉行見廻ニ参申候、暫通候而何方へも案内仕候様ニとて末藤新左衛門ヲ被下候、
 則新左衛門同道仕候而川尻之大慈寺へ参、文書等披見申候、何ニても御用ニ入申事無之、古キ鐘有之、文体も拙からざる銘有之故写取申候、其ゟ
 檜垣女之旧跡之寺へ参候へ共何ニても無御座候、則其晩熊本城下へ着、兼而御申付置宿へ末藤案内被申候故則落着申、翌廿九日ニ末藤同道、清
 正之菩提所本妙寺と申法華寺へ参申候、清正朝鮮ゟ携来申候書之由ニて、朝鮮本数多有之候へも、御当用ニて無御座候故ざつ/\と見申候、宗尊
 親王真蹟之日本紀竟和歌全弐■(巻)有之、扨々見事成物ニ御座候、住持写ニてくれて候故被申候故、則頼置申候而罷帰申候、其外ハ何も無御座候、
 藤崎八幡又ハ成道寺なと申候寺、旧跡之由ニ御座候故参候而尋申候へ共、何ニても無御座候、もハや熊本城下ニ御用無之故只二宿仕、明朔日ニ八
 代之方へ赴、薩摩へ越へ可申候と存候、八代之近所ニ護真寺と申征西将軍宮懐良之菩提所ニて文書等有之由承申候間、必々参候而見可申候、又菊
 池郡之内ニ菊池氏之寺二ヶ所有之、文書有之由、是ハあその隣ニ御座候間、薩摩ヲ仕廻、阿蘇へ罷出候時分参可申と存候
一所々之大名衆、別而細川殿ゟ御馳走之次第、別紙ニ書付近々申候、此書状と同ク被備高覧候而可被下候、已上
    六月廿九日夜戌               介三郎 

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