津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■天草島原の乱・・三斎の予感

2016-12-06 13:08:10 | 歴史

 天草島原の乱は天草に一揆が起こってから一か月以上経過しても、幕府の目附の無能ぶりもあって兵を出すことさえまゝならずにいた。
そんな中幕府から派遣された上使・板倉重昌と目付等が小倉に到着、ようやく出兵の命が下りた。十二月三日以降正使・松平信綱、副使・戸田氏鉄が江戸を立っている。乱の戦後処理の為だとされる。しかしその報に接した三斎は「板倉内膳(重昌)は討死せずして済むものではなかろう」と言っている。
二日から四日にかけて、細川勢16,000余が熊本を立ち三角へ集結をした。そして細川光利(光尚)が熊本入りしたのが今日六日である。
七日細川勢は天草に渡るが一揆勢の姿はまったくなかった。十日幕府軍は第一回目の総攻撃をかけるが敗北する。
二十日再度の総攻撃がなされたが、ここに於いても敗北をきしてしまう。この戦いに於いては細川勢も多くの死傷者が出た。
月末には松平信綱・戸田氏鉄が到着する旨の風説が広がった。この為上使・板倉重昌は一月一日の総攻撃を決意して通達した。
当然細川家にも有馬へ渡海し総攻撃に加わるようにとの要請があったが、川尻から馳せ付けるには時間の余裕がなかった。
それでも板倉は出陣を触れた手前、決行せざるを得なかったのである。しかしながらこの総攻撃も大惨敗に終わるとともに大将・板倉自身が戦死することになる。面目をかけての出陣であり又死に場所を求めての事であったろう。
後に三斎は「死なずしてかなわぬ場なり」として板倉の死を悼んだという。三斎の予感が現実のものとなった。

一月四日幕府の松平信綱・戸田氏鉄らが到着、細川忠利も十二日江戸をたち廿六日には直接有馬陣に入った。
そして二月廿七日に鍋島勢が軍令を破って城内に突入、これを期に総勢が突入して多大なる犠牲者を出して悲惨な戦いは終結をみたのである。 

                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (1)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (2)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (3)

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