津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一病息災で・・・・

2016-12-14 10:47:13 | 熊本地震

 スリッパの底に異物感がする。取り上げてみると1㎜立方程のガラスの破片が食い込んでいた。
4月14日の地震で壊れた電子レンジの扉のガラス破片だとすぐに分かった。電子レンジの扉のガラス(外側)は割れると1㎜立方程の大きさで粉々に割れるのだ。
何故か二重になっている内側のガラスは割れずにいたので何となく使い続けて来たが、奥方が買い換えようと云いだしたそんな矢先のことであった。
すっかり掃除をしたつもりでいたが、転居先までついてきた。
壊れた家具類は大方棄てたが、運び込んだ洋タンスは本の山に倒れこんだせいで蝶番がねじれたらしく開け閉めが少々具合が悪い。
ベッドも大量の本と本棚の下敷きになったせいか、最近時折ギシギシと悲鳴を上げる。飾り棚の扉も同様である。
しかしながら「もったいない主義」で、人間同様残り少ない人生を共に「一病息災」でいこうと思っている。

二度の地震の後、膨大な量の壊れた家具や家電製品その他が街中に積み上げられていた。
楽しい思い出を作ってきたであろうピアノやゴルフ道具なども無造作に捨てられ雨に打たれていた。
マンションの住人達は改まった挨拶を交わすこともなく、新たな避難先を求めてチリジリに分かれていった。
奥方が奔走して地震からひと月後には現在の住まいに落ち着いたものの、少々狭くはなったがこの齢になるともう転居は願い下げにしたい。
もうやめにしようと思ったベランダの植物類がまた数を増している。奥方が大事に抱えて引っ越してきた「シャコバサボテン」は直径80㌢ほどになり、今見事に花をつけている。
ビオトープも春にメダカを入れるばかりになった。

地震発生から今日で八ヶ月「狭いながらも楽しい我が家」である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■三渕勝千代という人物

2016-12-14 07:23:36 | 歴史

 細川忠利には四人の男子が在る。嫡男が光尚、二男は僧宗玄、三男は別禄壱万石・尚房、末子が南条元信(室・細川興秋女)の養嗣子となった元知である。
末子・元知は寛文九年(1669)、甥にあたる時の藩主・綱利による、陽明学徒の追放事件に諫言をして永蟄居の処分を受けた。
元禄十年(1697)なんとなく処分が解かれたが、永蟄居の期間は28年の長きにわたった。
奥方は三卿家老の長岡(米田)監物是長女・吟である。
熊本藩年表稿を見ると「延宝五年(1677)11月23日、長岡監物の外孫三渕勝千代(実は長岡左近元知の嫡子)を監物の養子とし、監物を隠居させ、勝千代を米田監物是庸と称させ家老に列す」とある。この記述によると勝千代は三渕家に入っていたことが伺える。三渕家は細川藤孝(幽齋)の実家である。
是庸は正徳元年(1715)十二月に52歳で亡くなっているから、延宝五年養子となったのは14歳であり、実父南条元知が蟄居して18年後の事である。
そして蟄居4年後に生まれたことになる。

綱利にしてみれば元知の処分は心ならずものことで有ったのだろう。
14歳の勝千代(是庸)を生母の父・米田是長の養子となし、是長を隠居せしめて是庸を家老にしたというのだから、綱利の心遣いが垣間見える。

不思議なのは三渕家の系図に勝千代の名前を見いだせないことで有る。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする