津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■嫁は到津氏だけど・・・・

2016-12-19 10:14:13 | 歴史

 豊前宇佐の宇佐神宮は八幡宮総本宮であり、宇佐氏・到津(いとうづ)氏等が代々大宮司職を勤められてきた。
2014年5月、權禰宜を勤められていた世襲家出身の到津克子氏が、神社本庁から解任されるといういざこざが起きて周りをびっくりさせた。

           

       

最近私は、細川家三卿家老家の米田家の左馬助が、宇佐神宮神職到津主膳女と結婚するにあたっての種々の記録の控の文書を入手した。
どのような経緯での縁組となったかは判然としないが、筆頭家老松井家の松井帯刀を以て藩主に届け出るなど種々気配りをしていることが判る。
松井帯刀とは松井家七代・営之(ためゆき)であろう。
米田家には左馬助を名乗った人が数人いる。はたしてこの人物は誰なのか・・・・・古文書の常で年記がなされていないので人物の特定は難儀である。

判断の材料として松井帯刀の書状(写真・上)の宛名に堀丹右衛門の名前がある。この人は宝暦の改革で有名な堀平太左衛門の嫡男であり、平太左衛門の隠居(寛政四年)から重職を勤め文化五年に致仕している。
又左馬助の父・米田監物が江戸へ出したお禮状(写真・下)の宛名は用人・福田源兵衛である。
この人物は宝暦六年十一月~文化三年六月まで用人を勤めた人物である。

これらの人々が活躍した時代から類推すると、この縁組は堀丹右衛門が家督した寛政四年から、米田監物が隠居する寛政九年の五年間の事であることが判る。
そうすると藩主は齊茲であり、文中に「若殿様益御機嫌能」(写真・下)とある若殿は寛政元年生まれの斎樹であり、すべてつじつまが合ってくる。
左馬助とは米田家九代の是睦(これむつ)であり、父・監物は八代是知(安永三年家督・寛政九年隠居)である。

これで一件落着なのだが、なぜ宇佐神社の到津氏女が松井家に入られたのか、現況疑問は解けない。(図書館が開けば史料が見れるのですが・・・・) 

コメント
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