津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■角川選書「羽柴を名乗った人々」

2016-12-06 18:22:02 | 書籍・読書
        羽柴を名乗った人々 (角川選書)
 
        KADOKAWA

内容説明

羽柴(豊臣)秀吉の政権時代、有力大名の名字はすべて「羽柴」であった!関白・秀吉は、初参内の際に主要大名を侍従以上の公家成大名に任官、同時に羽柴名字を与えた。秀吉と姻戚関係にある大名、織田家出身・旧織田家臣の大名、さらには旧戦国大名の有力者までが、秀吉に服属後、相次いで羽柴名字を与えられた。これは何を意味しているのか。新しい武家の政治序列を創り出した、秀吉の野望と類い稀な政治手腕を描き出す。

目次

第1章 羽柴名字と公家成大名
第2章 秀吉の一門大名
第3章 秀吉の親類大名
第4章 織田家の人々
第5章 旧織田家臣の人々
第6章 旧戦国大名の人々
第7章 羽柴名字の消滅

著者紹介

黒田基樹[クロダモトキ] 
1965年東京生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。現在、駿河台大学教授

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■天草島原の乱・・三斎の予感

2016-12-06 13:08:10 | 歴史

 天草島原の乱は天草に一揆が起こってから一か月以上経過しても、幕府の目附の無能ぶりもあって兵を出すことさえまゝならずにいた。
そんな中幕府から派遣された上使・板倉重昌と目付等が小倉に到着、ようやく出兵の命が下りた。十二月三日以降正使・松平信綱、副使・戸田氏鉄が江戸を立っている。乱の戦後処理の為だとされる。しかしその報に接した三斎は「板倉内膳(重昌)は討死せずして済むものではなかろう」と言っている。
二日から四日にかけて、細川勢16,000余が熊本を立ち三角へ集結をした。そして細川光利(光尚)が熊本入りしたのが今日六日である。
七日細川勢は天草に渡るが一揆勢の姿はまったくなかった。十日幕府軍は第一回目の総攻撃をかけるが敗北する。
二十日再度の総攻撃がなされたが、ここに於いても敗北をきしてしまう。この戦いに於いては細川勢も多くの死傷者が出た。
月末には松平信綱・戸田氏鉄が到着する旨の風説が広がった。この為上使・板倉重昌は一月一日の総攻撃を決意して通達した。
当然細川家にも有馬へ渡海し総攻撃に加わるようにとの要請があったが、川尻から馳せ付けるには時間の余裕がなかった。
それでも板倉は出陣を触れた手前、決行せざるを得なかったのである。しかしながらこの総攻撃も大惨敗に終わるとともに大将・板倉自身が戦死することになる。面目をかけての出陣であり又死に場所を求めての事であったろう。
後に三斎は「死なずしてかなわぬ場なり」として板倉の死を悼んだという。三斎の予感が現実のものとなった。

一月四日幕府の松平信綱・戸田氏鉄らが到着、細川忠利も十二日江戸をたち廿六日には直接有馬陣に入った。
そして二月廿七日に鍋島勢が軍令を破って城内に突入、これを期に総勢が突入して多大なる犠牲者を出して悲惨な戦いは終結をみたのである。 

                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (1)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (2)
                     細川家史料--頭注でみる天草一揆 (3)

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