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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉田如雪家に係る二つの論考

2014-10-13 14:35:53 | 論考

 現在熊本市立博物館では今日までの予定で「鳩太郎がゆく!肥後藩士 吉田鳩太郎が見た幕末維新」が行われていたのだが、最終日の今日は台風の影響で閉館となったようだ。
先に見学に行ったときこの吉田家の文書が多岐にわたり、内容の豊かさに驚いたことであった。
学芸員・木山貴満氏によると、今後館報などでこれらの文書の内容が種々発表が為される予定であることをお聞きした。首を長くして待ちたいと思う。
現在館報に二つの論考が発表されている。御紹介申し上げる。

                   ■吉田家文書・上京公私諸控        木山貴満氏
                   ■熊本博物館所蔵の吉田家文書      大浪和弥氏 

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■低気圧頭痛

2014-10-13 12:47:13 | 徒然

 台風19号が九州に上陸しそうだという事で身構えていたが、今回も熊本(市)は避けてくれて今の所大雨もなく少々肩すかしの感がある。まだ風の影響は残るのだろうが、現在は窓を開け放っている状態である。

私は昨日から頭痛に悩まされて辛くて仕様がない。昨晩は9時過ぎにベッドに寝転んで本を読んでいたらそのまま寝込み、雨模様の今朝は流石に散歩は取りやめ、ついでに起床も少々遅れて9時間ばかりの睡眠となった。起きても相変わらず頭痛が続いている。耳の奥や目の奥が痛くてなんとも不愉快である。
奥方曰く「低気圧のせいよ・・・・」なるほどそうかと合点しながら、早い台風一過を待ち望んでいる。

今頃の時間はすでに日向灘に出たと思われるが、熊本では風が大きくカーテンを揺らしている程度である。
昼から雨も上り廻りの山々も奇麗に見え始めた。散歩に出ようかと考えているのだがまだ風がうなっている。どうしようかしら・・・・・ 

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■細川コレクション《特集》「信長からの手紙」展覧会図録

2014-10-13 08:29:12 | 先祖附

信長展図録
               熊本県立美術館サイトから

細川コレクション《特集》「信長からの手紙」では、展覧会図録を用意しております。作品のカラー図版はもちろん、各作品の解説、稲葉継陽氏、金子拓氏、島晶彦氏の論考、信長コラムなどを掲載。盛りだくさんの内容です!この機会に是非、お求めください。

【仕様】 A4判 152ページ 

【価格】 1,500円(税込) 

【目次】

《総論》稲葉継陽「細川家伝来の織田信長文書」
《図版編》

 第一章 信長からの手紙を読む

  1 信長と藤孝、そして義昭

  2 「天下布武」へのあゆみ

  3 「天下一統」を目指して

  4 細川家からの贈りもの

 第二章 信長からの手紙のみかた

  1 信長の使った紙

    島晶彦「信長が書状に使っていた「紙」」

  2 朱印と黒印の使いわけ

    信長コラム「朱印と黒印、どっちがどっち?」

  3 誰が手紙を書いたのか?

  4 光秀宛、秀吉宛、どうして細川家に伝わった?

    信長コラム「藤孝宛信長文書にみる「手紙」の形式(書札礼)」

 エピローグ 信長の死と細川家

    大切にされた信長の記憶

    信長コラム「熊本につくられた信長の五輪塔と菩提寺」

《資料編》

  特別寄稿 金子拓「長岡藤孝と織田信長―天正二年から三年にかけてのふたり―」

  出品リスト

  出品文書以外に知られる藤孝宛信長文書

  織田信長 略年譜

  信長の領国拡大と主要合戦図

  主要参考文献

 

 

【通信販売について】

 図録の通信販売も承っております。ご希望の方は、申込用紙をダウンロードの上、必要事項を明記していただき、図録代金と郵送料を合計した額を現金書留にて当館「カタログ通販係」までご郵送下さい。

 

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■第30回貴重資料展「誓いを立てる武士たち -細川家血判起請文の世界-」

2014-10-13 08:21:49 | 展覧会

第30回貴重資料展「誓いを立てる武士たち 細川家血判起請文の世界」 第9回永青文庫セミナー「近世初期細川家 血判起請文の世界」を開催します。

第30回貴重資料展「誓いを立てる武士たち -細川家血判起請文の世界-」と、第9回永青文庫セミナー「近世初期細川家 血判起請文の世界」を以下の日程で開催します。詳しくは、ポスターや図書館HPをご覧ください。皆様のご来場、心よりお待ちしております。

         9回永青文庫セミナー.png
      (画像クリックで、PDFが開きます)

第30回熊本大学附属図書館貴重資料展
「誓いを立てる武士たち -細川家血判起請文の世界-」
◇期間:平成26年11月1日(土)~11月3日(月)3日間 10:00~17:00
◇会場:熊本大学附属図書館1階 古文書閲覧室&ラーニングコモンズ

永青文庫に伝わる起請文の中から、近世初期の家老や奉行たちの物を中心に公開します。戦国から江戸時代への大きな時代の転換に際して、武士たちの価値観はどう変化したのか。100人以上もの血判起請文を通覧することで、転換期における武士たちの組織観、生き方の変化に迫ります。

【同時開催】
第9回永青文庫セミナー「近世初期細川家 血判起請文の世界」
◇講師:稲葉 継陽(熊本大学文学部教授/文学部附属永青文庫研究センター長)
◇日時:平成26年11月1日(土) 14:30~16:00
◇会場:熊本大学附属図書館1階 ラーニングコモンズ
◇定員:先着130名

※貴重資料展・永青文庫セミナーは、入場無料・申込不要です。
※開催場所が、図書館1Fになっていますので、ご注意ください。また、本学では紫熊祭(学園祭)開催中のため、駐車場不足や交通の混雑等が予想されます。なるべく公共交通機関をご利用ください。
※熊本大学卒業・修了者の方は、ホームカミングデーのキャンパスツアー コースAでもご参加いただけます(要申込み)。ツアーでは、稲葉 継陽教授の解説付きで、貴重資料展をご覧いただく予定です。詳しくは、こちらをご覧ください

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■「北村甚太郎覚書」釈文--23・24

2014-10-12 08:07:02 | 先祖附

                                とも抱申度の由被申置候如何可有之哉と被申候条委細承我等

                                返事申候ハ我等儀幽斎供仕罷上申候若他国へ出申儀も候ハバ

                                重て可申入のよし申使を返し申候其日晩方尓丹後の上杉と

                                申所尓塩尻主馬と申仁其頃無隠仁尓て候か彼人を赤松左兵衛

                                預被申候て若他国へも罷出候ハハ是非とも抱被申度の由被申候

                                得共右左馬方へ返事仕候ことこと申返し候木下右衛門太夫其外

                                方々より内通候へとも何かさへも右のことく申分仕候事

                              一、其後 幽斎様御上洛被成候間御供仕丹波亀山尓御着被
                                             ヶ 
                                成候 越中守様関東尓て大手柄共被遊候て御上り被成候はや

                                大津迄御着被成候との御飛脚参候明ル朝亀山の内馬堀と
                                    越中守様御着なされ候馬堀御帯陳なされ昇とも御備なされ
                                申所江源仁法院居被申亀山の城へ御承を被成三日御出陳之

                                其時 幽斎様馬堀尓て 越中守様玄蕃頭様与一郎

                                様与十郎様御一所尓御對面被成候我等儀も御供尓参居候

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                             幕の内より
                                處尓 幽斎様御幕を少し御打上被成候て甚太郎と御呼

                                被成候刻参候得ハ間を間を召候て阿連が今度籠城尓て骨を

                                折申候と御一門中様へ被伝候へハ越中守様御意被成候ハ其よし
                                                    ワカキ
                                関東へ聞へ承届申候ハ若もの尓て候がきどく成候事と御意被成
                                         
                                御前江御菓子柿御座候越 越中守様御直尓三ッ御取被成

                                被下候最頂戴仕候て罷出候其時の様子能存候衆も可有御座候

                                其後亀山の城も 越中守様御掟次第と御詫言申尓付相

                                済夫より福智山小野木縫殿助城へ直尓御寄を被成其時

                                我等儀 与十郎様御供仕福智山へ可参の由

                                幽斎様被仰付福智山へ参御出陳の下尓小屋を懸居申候

                                城を御取巻被成昇とも銘々請取陳立備申候互尓仕懸ヶ打申ハ石火矢

                                捨置候を御取寄被成小野木城尓仕懸小野木も叶かたく思

 

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■史談会10月例会

2014-10-11 17:32:23 | 熊本史談会

 今回の講師は元日本航空のパイロット(滞空時間日本一)の清田泰興氏、「暦と時間」考え方とその歴史を拝聴した。
先の「江戸の三貨制度」につづいて、卓越した話術と豊富な知識をよどみなくご披露いただき、会員一同に喜んでいただいた。
企画者として大変ありがたく貴重な一日となった。

毎回の事ながら史談会が終わるとがっくりと疲れが出てしまう。帰宅して1時間ほど仮眠をしてしまった。

 

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■「旦夕覺書」--風・4

2014-10-11 06:50:03 | 史料

                            父・三盛の死去と家屋敷差上げ、他

                   一、父三盛被果候年は拙者廿七才の時にて其時分は親果候て三日法事過家屋敷差上申様に被仰付候是は傳
                     々にて能家屋敷御次方の者共病中にも夜るは屋敷の間を打見申なとゝ沙汰仕申候 老父承申扨々笑
                     止成事昔は無左候、唯今も先君へ被相勤申被候衆御側にも有之候 是程の事を不被申上候哉と悔被申候
                     右の通にて手取金津助十郎屋敷へ荷物なと遣候時坂崎清左衛門殿通り見被候て尋させ被申候へは
                     三盛荷物と申たるよし 御花畑へ當番にて詰被申し候時にて御家中侍果候て三日過家屋敷差上申事妻
                     子嘆きの内に扨々笑止に存候 今日三盛屋敷差上候故荷物のけ申候を見申候て三七めか或は三十
                     五日かに上ケ申様に御奉行衆へ申度事と被申候、近年は五十日過に成候哉其時分も御家中古人は三盛
                     は存命の時人の為に成候者にて候つるか、果候て跡にても諸人の為に成申と心有衆は被申候段神以承
                     候 扨皆とも助十(郎)屋敷在宅にて座敷なく奥に何も居申處に續頭太夫被参候て傳右衛門殿には御下着
                     以後不懸御目是へ御出候へ逢申度と被申候處臺所口より出候へは拙者手を取候て扨々拙者は能時に
                     着仕數日御看病にて候 先御代より定御供被召候衆親のしに目に逢申衆はすくなく能覺申候 扨々御
                     孝行天道に御叶候 忌明候ハゝ早々御出御勤候へと被申聞候 其時節は廿七にて歩の御使番定御供は必
                     立身被仰付候事見及候へ共三盛存生にてこそ立身仕候ても悦可被申候 母者女にて候へは夫程には被
                     存間敷候 一所に居候事悦可被申候 當り前の御供は格別定御供は御断申上止可申哉なとゝ嘆きの内に
                     色々あんし申内に右の通り次太夫被申候に付神以其儘心に通し誠に尤成事を承候と其儘心を改申候
                     能存候へはあやまりては改に憚る事なかれと申は如斯の事か此次太夫は 三齋公御兒小姓勤被申候
                     龜之助二男にて候 不思寄の縁に成候 右の仕合故老父の一言と同前に唯々落涙致候 

 

                   一、右の通に銘々上下共に屋敷をもたぬ者はなく忠利公御時に興津作太夫と申者御奉行勤一國一人と
                     申たる三百五十石にて唯今土山半内居被申屋敷にて予は彌五太夫と申角入は近所にて別て内外とな
                     く咄被申候 續五太夫姉聟にて能覺申候 三十一二にて病死弟三五郎と申おろか成者にて乱心に成り申
                     後に何方へ参果候哉彌五太夫存生の内ちくてんいたし知れ不申候 其時分老父被申候は親作太夫全
                     盛の時分心儘に屋敷の内には輕き者共大勢居申候 追立居屋敷廣く仕候 小倉より熊本へ被成御座直に
                     落付たるかろき者共にても皆々子供も生れ候 尤公儀よりは決て能屋敷家無之には親子など被下尤作
                     太夫も内證にては心付候へ共其内に老父老母は別てなけき申候 皆其むくいと被申候 すきと其跡無之
                     候 興津彌五右衛門同名にて實は兄弟の別れと被申候 横山九右衛門屋敷を津川一八拝領にて只今平左
                     衛門居被申候 此屋敷差上候時分水前寺へ御供立直に日くれ時分九右衛門方へ見舞に参候得者奥へ参
                     候へとて初て通り申候 扨々不及是非次第是見候へは爰は親父被居候所是は母か女子共にはり物なと
                     させ申たてとて奥の椽一間餘に長さおし通し十間餘可有竹椽付其身妻の居候所は茶の間と臺所の間
                     に拵氏家林雲院隠居のことく仕居被申候故神以泪を流し口惜次第御奉行所にて被仰渡候故石寺九兵
                     衛に申候は私儀は如御存御取立者首を被召上候とても兎角可申上様無御座と申上たると事の外立腹
                     被申拙者も神以尤に存候故涙を流し初て見申候 御すまひの様子見尤成事御両親への御孝行感し申候
                     神以涙なかし申事唯今も同前にて泪を流し申候 其時分家有にて一番の屋敷山崎に平野清兵衛と申四
                     百石被下御奉行役にて勝手も能く座敷ぬり床に圍ひも有之奥は三間はりにて如形相應より廣く候 就
                     夫御吟味にて其刻被仰渡にも右之通惣躰家は九右衛門家よりは殊の外能く候へ共屋敷せまく右之通
                     九右衛門心に叶不申候 其儘替申は老母すまひ思様にならぬと申ても少上にもあたる心有之と存候 即
                     刻段々達 御耳候て事の外 上にも御迷惑に思召九右衛門為に本の屋敷の家より能き様に被聞召九
                     右衛門に被下候 此後屋敷の儀別して々々々念を入可申と被仰出候由角入被申神以少も于今失念不仕
                     候 筑後殿御存生十左衛門殿も御存たる事も哉と九右衛門は直に心安申たる由承候 曾て段々のわけ御
                     存知なく九右衛門方へは十左衛門殿即刻御出候て御存知なきの御申分被成候 然は一八親父も父子と
                     もに惣躰利發は勝れ候へ共身慾も又すくれたるとの咄は井田太郎兵衛とて筑後殿より十左衛門殿御
                     もらひ被成候おとなにて十左衛門殿姉聟達の藤崎作兵・津川子供衆御兒小姓に被召出候時十左衛門殿
                     御母儀へ御所望召れ候衣類等に付段々夫々の咄拙者は分て十左衛門心安く存候とて十左衛門殿御申
                     おき内證の咄一々承候 以後にも拙者に作右衛門・一八・半八三人ともに存候哉と御尋候故神以心底
                     不残申候へばいかにも々々々々其通と神以御申被成候 扨其後流水も口中の煩にて果被申 一八も病気
                     に早く御断被申一八跡も病気とて御断被申候へとも譯有家にて唯今の平左は次男にて家を御つかせ
                     被成候 如斯のわけ諸人共にいや其筈是は此筈と當世の不實のみにて心實昔咄は當世にあわぬ々々々
                     と上下申事にて候 尤當世にあひ申能事も有之候へとも以後は必々本に成申候 唯今江戸の趣承傳候に
                     も昔したひと申傳候 是にて能々合點可被仕候 

                     
                      

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■松寿庵先生 第118講

2014-10-10 09:08:36 | 史料
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■「旦夕覺書」--風・3

2014-10-10 06:55:43 | 史料

                                                   詮索するのは如何かとも思うがさて話の主人公は何方・・・・・

                  一、金津助十郎飽田詫摩両御奉行勤候時去る人三百石取祖父島原討死にて候 其者の宇土郡奉行被仰付候
                    時拙者へ咄申候は助十郎も同前拙者も宇土郡奉行に成無是非事と申候故何と戦場に不被召れ候役と
                    思召被申候哉助十郎は左様には存間敷候承及ひ候へは両人役は其時くじにて何役にても一人は被召
                    連候 たとへは夫を苦に被存候ても其時に至ては銘々心に有事にて候 常々役儀心に叶不申候とも御静
                    
謐にいか様の居役も勤申か本意にて候 其上しはりからけて不被召置候 御軍法背候て討死と存切
                    腹の覺悟にて昔も御留守より参候て致討死天下に名顕はしたる侍藤堂和泉殿家中には同玄蕃は関原
                    合戦に留守に居申一人ぬけて陳場に参候へは和泉殿も心有りて甲を給はり候 頂戴仕討死いたし候事
                    承及び候 此類幾たりも御座候軍書にも見へ申候と申候へはひしとこまり一言出不申候 尤拙者より十
                    を余うへかと覺申候 後には御鉄炮三十挺御預け利口者餘程當世に叶たる男にて候 子孫有之候 名は記
                    不申候 先此一事も拙者にはおとり申候 是も古き能侍の事心かけ申故に與風言葉にも出候 助十郎には
                    申聞笑ひ候 右の為に書置候 

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■「北村甚太郎覚書」を読む--24

2014-10-09 09:47:39 | 史料
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■「北村甚太郎覚書」を読む--23

2014-10-09 09:46:27 | 史料
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■「旦夕覺書」--風・2

2014-10-09 07:05:11 | 史料

                     元禄十三年、傳右衛門嫡子土之進熊本にて死去、ならびに養子弾蔵のこと

                一、拙者江戸詰の時廿五年以前に熊本より状参り一子土之進果候由申來十左衛門殿も自筆にて此節忠義
                  の出候所とて平野九郎右衛門方へ被仰遣候由にて拙者居申町屋へ態と参被申聞候 本よりあきれ居候
                                (綱利嫡子・與一郎、元禄十三年・十四歳没)
                  へとも其三四十日前 恵雲院様七月廿一日御遠行被遊候 土之進は八月十六日にて間もなく覺 恵雲
                  院様の時力を落し食事給候事土之進事承候時分に心中にて引くらへ見候に神以土之進時には萬事
                  輕く覺申候故扨は未御奉公勤申にさのみ草臥不申事と日本の神心を心にてためし申候 御前にも被
                  聞召上江村節齋に御意被成候は最早只今より出来たる子は傳右衛門為には成ましく思召候間養子を取
                  持させ候へとの御意の旨にて拙宅へ節斎被参候 扨々難有仕合涙を流し申候は、私儀如御存知歩行より
                  段々御取立被下子果候とて又養子を仕候事は先祖の儀を存名字致断絶は不幸と承及申候 如御存知三
                  盛事親の名迄付居申又喜左衛門も私同前に新知被為拝領居申候、私儀は以段々御恩兄共より重く
                  蒙り存る様御奉公不仕上養子と申事ハ老父草の陰にても心に叶申間敷と申候へは節斎いかにも拙者
                  申趣も尤もに存候、然共兼ての御意に御代に被召仕候衆も代々にて何も跡の断絶仕候事不便に思召就中
                  當御代に御取立の衆は尚以不便に被思召候との内々御意にて候 拙者儀は別而御重恩との仰に候へは
                  右の御意の筋、養子被成間敷との儀は御心に叶ひ申間敷と被申候、誠に左様に兼て御意初て承申候
                  御家中一同に承申難有に奉存候 然らは乍御六ケ敷御自筆にて熊本に居申候同名中に連紙にて右の
                  趣被仰遣可被下候、私手前よりは少遠慮に存候儀も御座候と申候へは扨々御得心別て大慶仕候 御飛脚
                  立候はゝ御同名方へ可申遣とて則息悰陸に書せ同名中に被申入候 角入初として扨々難有仕合御取持
                  被下候へと返事も見せ被申候てしからは養子に誰をかと其時工夫仕候處に村井源兵衛参被申候は此
                  間節斎と拙者養子の噂申事に候 差當り堀内中に無之様に存候 たとへ有之共今度の事は亡妻存生の内
                  にて別て力を落し可被申候 左候へは御同名のうちにたとへ心當有之共御内方の為と存寄候へは式は弟
                  か甥か兎角其心寄可然と申候 拙者いかにも尤と存幸に妻の弟有之候 是を願上可申とて其後は熊本
                  へも申遣取遣済其年極月廿八日養子如願被仰出候 ケ様に節斎に申候儀も前々老父咄長谷川久兵衛殿
                  實子被果候て跡養子の事幸孫有之候取持可申と筑後殿御申候時断申候 筑後殿委細直に御聞承置候
                  尤成事と感じ被申然らは拙者方より願可申とて久兵衛殿に構はず御願被成候事兼々承候 日本の神其
                  時長谷川殿存たるにて無之候へども老父心に拙者存寄叶可申と壹筋に奉存候へは右の通恭次第三悦
                  養子候時弾蔵口上書のことく拙者養子同名中承難被存返事節斎見せ申候 右の熊本へ連状を被申候を
                  三盛なとにも尋候へども何方に有之哉見出し不被申候 此後にも自然出申候はゝ傳次に御渡し可有候 

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■「旦夕覺書」--風・1

2014-10-08 08:44:54 | 史料

                   奥村久左衛門なる人物が「御姫様付」を申付けられたがこれを嫌い請けようとしない、周辺の人達が納得させようと必死である。
                         女性に仕えることに違和感があったのであろうが、切腹も覚悟せよとの説得にどうやら一件は落着したらしい。
           

             一、拙者新知被下候者貞享二年九月十二日 其年七月七日に奥村久左衛門御禮仕舞候て残り候新知貮百石
               被下江戸御姫様へ御附被成候由被 仰出在宅に罷歸御禮も不申上御断を申筈にて氏家甚左衛門殿兄
               弟共に前々より心安くいか様久左衛門母豊前にて氏家は歴々故奉公分にて居申候哉久左衛門伯父奥
               村二郎右衛門は歩使番忠利公被召仕候者にて三百石被下御奉行勤拙者は江戸にて親以来とて懇比に
               被申候 唯今弓削太郎右衛門か舅にて上田新兵衛殿は氏家兄弟の妹聟右の衆打寄異見被仕候へ共承不
               申候 久右衛門は豊前中津に一類とも在之中津にて生れ十四五より次郎右衛門奉行役故全盛の時熊本
               へ呼寄次郎右衛門子にして御兒小姓に十六かと覺申候 拙者も可被差出と有吉頼母殿より内藤左門三
               盛所は被下其後拙者は成人にて成不候 人により被召出候と覺書に書置候は此久左衛門事に面候故
               覺書には扣名は有間敷候へ共各の心得に成可申と調申候 右の通にて御禮不仕候 七月十一日に三盛屋
               敷に居申時今日はいきみたまとて親方を振舞申日と三盛被申候 神以拙者終に不承候 是にて拙者事御
               察可有候唯今各の様成若き衆不存者は有間敷候 右の仕合にて心いそかしく居申所に上田新兵衛少可
               得御意儀御座候て参候 御暇入候とも可懸御目との口上にて候 惣躰上田殿年寄にてきうくつに存候へ
               共同名文左衛門と相役にて度々同苗とも所にて咄申度々在江戸にて毎度上御屋敷へ被居候 御供に参
               候ては必上田殿より呼に参候て度々料理給申心安く被申候 其時節もすくれたる能人と申たる事にて候
               扨罷出候へは被申候は此間久左衛門事御聞候哉と御申候 新知御拝領の祝儀に次郎右衛門殿屋敷に帳
               に付置候 其儀は何共不承候と申候へはいやケ様々々七日に拝領仕四五日に成候へとも承引不仕候 拙
               者事兼々ケ様の時分御聞候はゝ御異見可有事と被申候故神以御咄にて初て承申候如仰毎度互に定御
               供にて在江戸中は無類に心安く語り熊本にては輩にうとく御座候はよのつねの事に御座候 唯今の御
               咄承候へは私儀は久左衛門同年同位の者にて御座候内々承及候氏家殿御兄弟殊に各様伯父次郎左衛
               門殿なとの御申候事を合點不仕候事を何と仕私式異見可仕哉と申候へはいや々々左様にて無御座候
               人には合口と申事昔より申傳候 拙者は無類の合口と存候是非々々今日中に遠方にて候へとも御越被
               下候様にと偏に々々頼申ために申振舞参候と被申候故今日は老母をいきみたまと申振舞候物とてい主
               の三盛申聞今晩は右の通にて其上居敷に乍慮外御覧被下種物も御座候て柿原村は是より一里半も可
               有御座候 何と仕今明日中は成間敷と申候へは左候はゝ夕食過に拙者方より駕を進可申申候 右の通最早
               四五日に成申候 事の外打寄御禮延引を気遣仕候 是非々々と被申候拙者も何とも噺難申左候はゝ夕食
               過七ツ時分より可参と申候へは扨々恭奉存候とて歸り被申候 跡にて右の通の時節は近頃遠方と申参
               る事も快く不存扨々にくき久左衛門おのれか身もしらす御姫様に付候儀心に不叶と申事は 殿様
               を先輕く存ると聞へ候と日本の神拙者心は別て々々腹立色々工夫仕居候無程七つに駕人共に上田殿
               より來候故罷出候 其刻は三盛は今の櫻馬場澤村主膳屋敷に添申候 唯今南春伯と申か御醫者の向にて
               口九間半かと覺申候 拙者共生れたる所にて候 調候内にも老父母其外兄妹の事神以存出し落涙仕候
               乍憚 玄旨公(藤孝)の御歌
                 行止る心を宿と定めても尚ふる里の方そ戀しき
               右の心底にて久左衛門何と申て御請申させ可申哉事によりたらは打果候て残念なく拙者四拾一の年
               駕の内にて色々様々案し扨参候へは其儘罷出申候ゆゑ今日上田新兵衛殿御出にて初て咄承申候 何と心
               得被申候へは御請不被申候哉と申候へはいや思ふても見候へ拙者事は他國者御家生れ多候に御姫様
               へ御付被成候は不及是非候と申候故成程尤夫斗かと申候へはいかにも々々々々と申候時拙者申候扨
               はそなたは御家御先祖の事しらぬか 細川家繁昌の根元知らで侍の勤式は勤間敷と申は先其身のお
               こりと存候  秀林院様御自害天下に知らぬ者なく書物にのせ置候 其忠義を御代々如斯に候 他家に
               て女につくをきらゐ申儀は拙者御國にて生れ申候へ共随分他國の名ある侍を承及ならすなからもま
               ね度他所の望少も無之歩の御使番を望出申候 於御家は御姫様へ被為付候人は小笠原備前・河喜多石見
               拙者縁者にて候へ共金津助次郎此者は輕き者にても名を顕したるは何故そ萬一 殿様其御心付なく
               は 殿様の御あやまり君君たらす共臣は臣たらすと聖賢の詞にも見へ申候 扨々夫は他家の事にて御
               家にも嫌ひ申男は偏に鉄炮の上手稲冨をうら山敷思ふ男か嫌ひ可申そ本より如斯申候へとも拙者も
               望候ては有様か此方より望申事にてはなく候 併被仰付候はゝ御請召れ候へ能了簡被仕候へ其方今度
               御断被申候はゝ萬一如願成申候か扨は切腹可被仰付候 本より侍たる者のわけよく侍の道にて切腹は
               結構成事そなたも本其覚悟にて可有之候其跡に被仰付候者も定て侍にて可有之候をそなたの切腹にて
               埒明申跡の御國中廣く共いか成者か其跡を勤可申哉しかれは御姫様御一代侍を不被召仕と腰ぬけ斗
               か下々斗被召仕候様に成行申時は御家御姫様方に對し兎角可申様もなきそなたにて候 拙者事心安く
               段々上田殿御頼色々断不成参候 道すがらあんし扨も々々そなたは大不忠者切腹望と存候拙者儀にて
               御心安く存候へ共 殿様御姫様へ大不忠の人なれは切腹召れ土にうめ候とも拙者心に成る事ならは
               引出し討果度神□存るそと申候へは一言も返答なく泪を流し候 其時拙者も泪を流し落涙仕候 扨久左
               衛門合點仕候様子に見へ候故拙者儀是迄参候しるし今夜早熊本へ御出候へと申同道仕只今一村彌三
               兵衛屋敷奥村二郎右衛門居候同道仕直に座敷へ参候へは次郎右衛門其儘扨も々々恭久左衛門奥へは
               いり料理申付候へ傳右衛門殿へ御酒を進度と被申久左衛門は勝手にはいり申候 其跡にて拙者へ次郎
               右衛門禮を被申たる事共は我身の上にて書しるし難く其時段々久左衛門親の事私弟にて中津へ町人
               仕居申候久左衛門を熊本へ呼御兒小姓に被召出候咄にて段々ケ様の者にて御座候へ共私甥にて如斯
               成行申候 此間打寄何も御異見承不申候處に扨も々々と悦ひ被申皆共若く此後御奉公の為とて先御代
               にも御目利の咄是は誠に無勿躰奉存候へ共此咄は拙者若く御奉公の為とて 妙解院様の時御目かね
               違たる侍中の咄迄被申聞候 右の通に候 皆々拙者より年増後々は御備頭平九郎親父も貮拾挺御預上
               田殿は番頭に成り伯父の次郎右衛門奉行も勤申候衆にても 秀林院様御事實に思はれさるにて候 拙者
               申合點仕候は 秀林院様の御咄初て久左衛門承候哉ひしと咄止拙者事斗つく々々と承候 いか成事に
               ても本の正敷事をいやとは可申様無之候 久左衛門は同年同位にて右の通に埒明候は少し自慢に存候
               備頭番頭奉行は不及申拙者小身にても勤は成間敷は不存候 尤平九郎は萬一新兵衛殿咄承にも可有之
               此事の外にも上田殿拙者も事の外感し被申候事石寺九兵衛被申聞候 是は小原長四郎事堀次郎右衛門
               殿に申候時一座に新兵衛殿居被申承申候多分覺書に可有之候 堀殿は弾蔵同前に其刻埒明と申人に
               て候 毎度如申古人の事を不承候ては今時鼻の先口に任せ時々に合候者の好事にて無之候 武士の武道
               も十人並の侍の咄と一位上へに聞へ申咄と語申内に早其者の心しられ申候 随分々々御吟味可有候 皆
               々老父咄か本に成申候 随分の心付可被申し候 尤其時分の風にて無御座候へは通り不申 拙者も四十餘年相
               勤覺申候 然共何そ大事に成候て古き侍の申傳古き事不承候ては當世斗にては成不申候 江戸も古きを
               御慕ひの趣に聞へ申候 


                      おまけ: 先祖附では伺い知れなかったが、この文章から久左衛門が奥村次郎左衛門の甥(弟の子)であることが判明した。 

                

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■ただいま勉強中「暦ものがたり」

2014-10-07 10:40:13 | 書籍・読書

                                            商品の詳細

 今月の史談会(10月11日)は「江戸期の暦・太陰太陽暦(含・世界の暦法)」を伺う事になったが、私も少々勉強中。
先にご紹介した 「暁」の謎を解く 平安人の時間表現 (角川選書と共にこの本を読んで楽しんでいる。

内容(「BOOK」データベースより)

今日が何年何月何日か分からない日常を、想像できるだろうか。古来、暦は人々の生活に不可欠であり、その変遷をひも解けば、各時代の生活・文化・社会が鮮やかに見えてくる。日本人にとって暦とはなにか―。日本最古の暦をはじめ、宣明暦・貞享暦ほか旧暦のあゆみ、貴族の男性たちが使った具注暦や女性が使ったかな暦、月の大小を示す「大小暦」や字の読めない人のための「絵暦」などを詳説。豊富な事例とともに、時代を映す暦の森羅万象がわかる。
 
古文書に出てくる日付を単純にグレゴリオ暦に変換しても、新暦に慣れ親しんでいる我々はその季節感までは感じることが出来ない。
ちなみに今年の旧暦元旦は新暦の1月31日だった。かくいう今日10月7日は旧暦9月14日、明日8日は夕方から皆既月食ですね~。


 

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■「北村甚太郎覚書」釈文--21・22

2014-10-07 06:55:53 | 史料

                                    い丹しへも今も替らぬ世中尓心の多祢越残す言のは

                                    傳同八条殿より七月廿七日家老大田甚助を以扱之儀被仰

                                    越候得とも 幽斎公御同心無御座候尓付其後徳善院

                                    勅命奉り双方尓和儀を被取扱候又勅命有之中院殿・

                                    三条殿・烏丸殿并前田主膳等を田邊の被下種々取扱

                                    有之勅詔再三尓付て 幽斎公難黙止和儀を被成御出

                                    陳被成候事右は紀州衆ニ相尋由尓て森雲仙よ里

                                    大木織部方尓於江戸延宝四年尓申来候節織部方より返

                                    答書の写筆ハ山崎角右衛門と覚申候

                              一、其後頓而 幽斎公御上洛可被成尓相定申尓付我等所へ為

                                御使者藤木伊右衛門・石寺甚助を被下被仰出候ハ今度於籠

                                城萬事精を出し肝煎申御満足被成候何方尓罷在候とも

                                於路か尓被思召間敷候との御掟の旨具尓被申渡金子二包

                                                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                北村甚太郎・北村勘三郎へと御書被成為持被下頂戴仕誠尓以

                                忝次第奉存候其時我等御請尓申上候ハ私儀ハ何方まても

                                 幽斎様御供仕御奉公可申上候弟勘三郎儀は老足の親共尓

                                付置いつくに成とも召置可申覚悟尓て御座候こ連この趣可然様

                                尓被仰上被下旨両人へ申候へは則言上被仕候得は申上候趣御満足
                                      一本コレヨリ別項トナル
                                被成候由右両人又私弟へ被下候なり其後城中皆々へ被仰渡候ハ

                                久々籠城尓て何も骨を折申候銘々の屋敷へ罷出く川ろぎ申し候

                                得と被仰出材木なと被下候尓付て皆々古屋敷へ罷出小屋を

                                懸ヶ申候我等も小屋を懸居候所へ寄手衆頭ニハ国本々々へ被帰
                                   下下は
                                下候末諸道具共有之故残居申も有之其衆我等共元屋敷へ

                                罷出候事を傳聞我等所へ山崎左馬より使両人参候名を尋申候へハ

                                一人ハ家老山崎十左衛門今一人ハ堀田市左衛門と申仁なり両人被申候

                                は(盤)左馬助帰国之時分被申付置候若貴殿他国へも被出候ハバ是非

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