津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■「黒田蔵人知行召し上げ」の真相?

2024-05-11 09:05:11 | 人物

寛永六年五月十一日の奉行所日帳に次のような記録がある。

     (正直)               (正重)
一、河喜多五郎右衛門尉被申候ハ、黒田蔵人知行被召上候時、御借米滞分、村々百生未進分、到其時上納不相成ニ付、
                                                                                                                                                 五百石
       次第/\ニ取立申候、猶残分ハ蔵人へ被遣、五百石ノ御知行にて取立申候処ニ、蔵人被申候ハ、主知行所〇にて、
      弐千五百石二在ノ候未進分を被 召上儀候、御取立候て返し被下相当様ニと被申候、如何可在之哉と被申候、上
      知分ハ御蔵納二成申候、然上ハ御蔵米にて返し候ハねハ不成候、御蔵米を返候儀ハ成間敷由、申渡候事、 

頭注には「黒田正重知行召上ノ時ノ借米百姓未進分次第ニ取立ツ知行二五百石未進分二千五百石未進分ノ返弁ヲ望ムモ蔵納ハ返サズ」とある。
蔵人の知行は500石であったが、肥後入国後は知行の一部を召し上げられている。肥後入国前の寛永6年の借米の返済が滞ったのが影響しているのだろうか。
上記文章を読むと、百姓衆からの知行未進が影響しているが2,500石あるとしているから、知行の5倍にあたる。これでは借米に頼らざるを得ないだろうが、これも返すことができずに減知となったのだろうか。

さてこの黒田蔵人は肥後入国後は伊丹格助と名前を変えている。又、嫡男の伊丹半弥(黒田次左衛門)の項を読むと、「寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石」とあるから、蔵人(伊丹格助)も2,500石拝領していたことになる。

黒田蔵人(=伊丹正重・角助)
   豊前時枝城主・時枝平大夫二男。はじめ黒田孝高に仕。致仕後福島家に仕えるも福島家信州転封により牢人、大坂に
   て細川忠興に召出さる。寛永十八年六月八日没

●黒田蔵人  (1)本名伊丹  頭衆五百石  (於豊前小倉御侍帳) 
     (2)五百石  (肥後御入国宿割帳)
   参考:召し出しについて
      ・元和5年10月15日 大日本近世史料・細川家史料(1710)より
      ・元和6年正月10日、黒田蔵人召抱 (忠興文書・199)
      ・黒田蔵人事、抱可申由、得其意候事 (綿考輯録・巻二十 P95)
●伊丹角介 (3)人持衆併組迯衆 三百石 (真源院様御代御侍名附)

       (4)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
       (5) 長岡監物組・御中小姓頭 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
嫡男
●伊丹半弥(黒田次左衛門)
   伊丹次左衛門 景重(かげしげ)始め黒田次左衛門、ついで伊丹半弥と改。黒田蔵人正重(のち伊丹角助)が嫡子。
   豊前に於て忠興に別禄五百石で召出さる。寛永十八年七月遺領をつぎ弐千五百石、黒田を伊丹に改。鉄炮百挺頭、
   のち佐敷番代。致仕後百人扶持を与えられる。83才にて没。年月不詳。  
     (1)御鉄炮頭衆  弐千五百石 (真源院様御代御侍名附)
     (2)弐千五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・次左衛門
     (3)万治二年十一月知行被差上候 弐千五百石 (※)・・半弥之助
     (4)芦■  御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百石 (寛文四年六月・御侍帳)

 

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