現在、米田監物(是容)女・豊の沼田家(勘解由・延裕)への輿入れについての文書を読んでいる。
三卿家老家の姫様の結納・婚礼だから手続きがものすごい、当然大身の家同志の縁組だから藩主の了解が必要である。
この慶事は安政三年、是容にとっては家老をやめ藩政から退いて9年、実学党においては横井小楠と決別したまさに四面楚歌の時期である。
そんな中かっての同僚、家老有吉頼母を使者に頼み、藩主齊護の許可を得ている。
江戸の藩主夫人や在熊の藩主子弟、政敵・松井佐渡、其の他多くの人々にその旨の報告の書状を発している。
結納にあたってはその中の一つに、奉書に「久万引 一折」とある。
「くまびき」と読み、これは地元では「万引=まんびき」として知られるが、「鱪=しいら」のことである。「鬼頭魚」とも表記するようだが、でかい頭が特徴である。
これが祝い事に使われるということは知らなかった。
どうやら米田邸には数十尾の「万引」が収められたように思える。
この時豊姫は15歳、婿殿沼田延裕は是容の期待通り、後には家老職につくことになる。
長い失意の中にある是容にとっては、愛娘の祝儀は心の安らぎであったろう。
その三年後是容は采邑八代で死去した。47歳という若さである。家督を譲ることもせずの生涯は、己の信念を貫徹させようとする是容の矜持でもあったろうか。
二代是季やこの是容といった人物を見るとき、「物いう米田家」という感じを強くするが、私一人だろうか。
実学派の政府誕生までは、まだ10年余の時間を必要とすることになる。