津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川幽齋公と宝暦の改革

2024-05-27 06:26:12 | 歴史

 細川家の歴史を見る時に、まさに中興の祖ともいうべき細川重賢公の出現は、兄・宗孝公の江戸城中における不幸な死がもたらしたことを思うと複雑な気がする。
歴史とはめぐり合わせだと感じるところだが、重賢公の側近と言われた堀平太左衛門や志水才助といった人物は優秀な用人・竹原勘十郎(玄路)の真心からくる推挙であったことを思うと、私は勘十郎こそが一番称えられてしかるべき人だと思うのである。
時代のいたずらは、阿蘇家の家臣であった竹原氏を薩摩の嶋津氏に臣従せしめていた。
阿蘇家の家督争いに負けた一方の阿蘇氏が、嶋津家を頼ったからである。
或る時幽齋は秀吉の命により薩摩に派遣され検地をおこなっている。その時幽齋公は、この竹原氏に出会っている。
幼いながらものその能書ぶりに、嶋津氏に乞うてもらい受けて連れ帰っている。
忠興が豊前に入国し、忠利が肥後へはいった。細川家に臣従した竹原氏はくしくも父祖の地・肥後へ帰国したことになる。
そして、阿蘇氏の覇権を争った阿蘇氏も武家としての存在を失い、社家として残された。
そんな竹原氏が勘十郎の時代に至り、重賢に任用され、その推挙により堀平太左衛門・志水才助という曲者をして宝暦の改革を遂行せしめた。
巡り合わせの不可思議を思わざるにはいられない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■ご近所のMさま | トップ | ■切り取り強盗 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿