昨日の■細川幽齋公と宝暦の改革でご紹介した大奉行・志水才助という人物は、豪放な性格で知られるが、そのことを示すような発言をしている。
学問の師・片岡朱陵が「藩の御扶持を離れることになったら、どうして渡世をするか」と尋ねたところ、それぞれの人が手習いの師匠とか句読を教えるとか答える中、才助は「何の覚えもない人間なので、切り取り強盗をして渡世する」と応じた。
そして朱陵もまた、「吾等も至極同意」と膝を叩いたという。
才助は大奉行になったある時、重賢と酒肴の席に列し、大いに酩酊してあろうことか重賢の妾にもたれかかったという。
史料を見てみると才助は大奉行を罷免されている。しかしながら、しばらくして復帰を仰せい出された。
その間は謹慎でも言い渡されたのであろう。重賢はこの大酒のみの豪放な奔馬を、見事に操る御者であった。
重賢の元で宝暦の改革という事業を成し得たのは、このような「かぶき者」とも思える人たちが活躍したのだが、それらの人がほとんど片岡朱陵の門人であったという。
片岡朱陵は「徂徠学」の人だと言われる。細川家家臣藪家に仕える又者(陪臣)であった。
時習館二代目教授は、朱陵の主筋である藪孤山が就任したが、重賢は朱陵を召し出して侍講として遇した。
宝暦の改革は、このような成り上がりとも思える人たちが大いなる能力を発揮した。
三卿家老を初め、それまでの政を一手に握っていた勢力は埒外に於かれて憤懣を膨らませていく。
有吉家の家臣の呪詛事件などがその最たるものであろう。
かれらは、「座班」において高位に座して、ただこの鬱憤を晴らしたのであろう。
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