津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■九州の小笠原(秀政)一族

2017-03-14 09:28:45 | 熊本地震

昨日は■この監物殿は誰?で細川家家臣の溝口氏に少々触れた。小笠原秀政の男子だが家臣溝口氏の養子になった。

小笠原秀政と嫡男・忠脩は共に戦死したため二男・忠真が一族の長となり細川氏が肥後へ転封の後、そのあとの豊前小倉藩(15万石)主となった。
忠脩の子・長次は中津藩初代(8万石→4万石)に任ぜられ、忠真の次弟・忠知が杵築藩主(4万石)となった。その後三河吉田藩・岩槻藩・遠州掛川藩・陸奥棚倉藩・肥前唐津藩と転封が続いて苦労している。徳川幕府の老中を務め、長州戦争に於いて将軍家茂の死の報を聞き戦場を離脱した小笠原長行は最後の唐津藩主である。細川藩士小笠原家は忠知の孫・長賢を初代とする。
一族に松平姓(能美氏)を名乗る忠重は忠真の三弟、嫡子・英親が杵築藩主(32千石)となった。(伯父・忠知が三河吉田に転封後)

秀政の女婿・細川忠利に加え、小笠原一族が、小倉・中津・唐津・杵築の九州各地を納めていたことになる。

季節柄「桜田門外の変」について勉強しているが、事件の一部始終を目撃したのが現在の警視庁に屋敷があった杵築藩の藩士達である。
その目撃談は事件の三日後江戸を発して国元に急使が走った。事件のあった三日を含め三日間の情報はまことに正確である。
先に触れた井伊直弼の実弟延岡藩主(7万石)内藤義政へ発せられた一報は、情報収集もままならない中江戸を発し、「直弼存命」の誤った情報が届けられたという。

当時の杵築藩主は松平親良である。幕府において寺社奉行を務めており、延岡藩からの問い合わせにも正確な情報は秘されたのであろう。
徳川家外戚として九州の要となった小笠原一族である。 

       小笠原一族略系図 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/310f28ef8292d21ea30ac14c3cc22939

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