私の奥方の里は宮崎県延岡市、今は大企業・旭化成の城下町だがかっては内藤七万石の城下町であった。
市役所の西方にお城があり、勇壮な石垣が残されている。
岳父が亡くなってから足が遠のいてしまったが、お墓参りもかねてお城を訪ねてみたいと思っている。
熊本から約120キロあるので3時間を要する。この歳になると少々応える距離ではある。
幕末の藩主・内藤政義はあの井伊直弼の実弟だが、先代藩主・政順の夫人が井伊直弼・政義の長姉である。実姉であるとともに養母という関係である。
その故を以て養継嗣となり延岡藩内藤家七代藩主となった。
万延元年三月三日の「桜田門外の変」に於いては、当日が上巳の日であり内藤家の江戸留守居が挨拶のために彦根藩邸を訪れるが、まさに事件勃発の直後であったらしい。固く閉じられた門前で案内を乞うが、直弼公実弟の内藤家の訪問にもかかわらず、正確な情報は伝えられなかった。その江戸留守居は情報収集に走り回って藩邸に駆け戻る。
すぐさま国元へ急使が立てられた。10数日をかけて届けられた内容はとんでもない間違いであった。
「直弼公は存命されている、首を取られたのは藩士のものである。」直弼公の死はあくまで伏せられ、内藤藩江戸屋敷の実姉である内藤政順夫人また国元にある実弟政義公といえども真実は伏せられたのである。真実は後日再度の急使によって伝えられた。
延岡城は桜がきれいな所である。政義公が真の情報を得られたころは正に桜が咲き、風に花びらが舞っていたころであろう。
無念の思いを噛みしめて、桜を眺められたことであろう。