津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

公安調査?

2008-04-03 15:05:07 | 歴史
 細川三齋の死去の前後、八代にあったいわゆる三齋御付衆の動向が、丹羽亀之丞によって詳細に藩庁に報告されている。「丹羽亀之丞言上之覚」として残されている。よく読むとまさに「公安調査」の趣があり、あまり気持ちの良いものではない。その出自や人間関係、扶持、藩の論功に対する不満、三齋死後の離藩の考えなど詳細である。これらの人々は、当然のことながら本藩から扶持を頂戴している。しかし藩はこれらの人に対して、積極的に藩に留まるように動いているようには感じられない。不思議といえば不思議だが、「望めば本藩に帰れば良い」といった風に感じられる。何時の日か読み下しをご紹介したいと思うが、今はただ目で追い引っかかりながら読んでいる状態だ。個人についての情報は、その都度侍帳に転記している。当然亀之丞は何者かの意により動いたのであろうが、闇に蠢く何かが感じられる。

丹羽亀之丞(是良) 
 四百三十壱石四斗二升二合六勺九才  側弓頭  (於豊前小倉侍帳)
 四百三十壱石四斗余 御小姓組衆 (肥後御入国宿割帳)
 千石   人持衆併組迯衆  (真源院様御代御侍名附)
 千石   ましき      (真源院様御代御侍免撫帳)
 千石   沢村宇右衛門組  (寛文四年六月・御侍帳)
 千石   延宝六年九月十九日 御暇
      元禄三年妙解院様五十年忌ニ付御勘気被成御赦免、三十人扶持被下之

 老年に至り、御暇を頂戴して木山に在宅、継嗣なく絶家と伝えられるが、実は上記のような事実がある。又、陽明学徒追放と時期を同じくして、お暇の処分が有ったとも伝えられる。尤もこれは時期を置かずして解除となったらしいが・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御一門払い

2008-04-03 08:45:05 | 歴史
 父・忠興と絶縁関係であった長男・忠隆は、寛永三年(1626)廿数年振りに忠興と対顔している。孫との対面も果たした忠興は終始ご機嫌であったようだ。「細川忠雄(五代忠英)家譜」によると、忠隆の嫡子坊丸(忠恒)とはどういう理由か対面しておらず、二男侍者丸(忠春)にたいして「嫡孫」とし、中務と改名細川の名乗りを許している。侍者丸五歳である。ご一門としての扱いが認められた。

 四男興孝の父忠興との不和はつとに有名であるが、同腹の兄立允(宇土細川家祖)の溺愛とは両極にある。廿数年を証人として江戸ですごし、禄も忠興の監理の下で満足に得られず鬱屈したものが有ったのであろう。肥後下国後すぐに隠棲、嫡子興之が弐万五千石を家督するも25歳で継嗣なく死去。「興孝公 御子孫今御国一門ニ而長岡之称号也、但御嫡男興之公御早世ニヨツテ断絶、御二男御取立興知公ヨリ新知一万石ニ而長岡之称号(御)国一門也、已前ハ御連枝様ニ而細川之御称号也」と於豊前小倉御侍帳は説明する。
二代興之の早世により御連枝細川刑部家は断絶の取り扱いとなり、弟興知が相続の後は一門としての扱いとなり長岡姓としたとしている。

 徳川御三家に習うならば、内膳家・宇土細川家・刑部家がそれに該当し、御三卿が新田細川家と言ったところだろうが、藩主を輩出したのは新田細川家・宇土細川家であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする