細川三齋の死去の前後、八代にあったいわゆる三齋御付衆の動向が、丹羽亀之丞によって詳細に藩庁に報告されている。「丹羽亀之丞言上之覚」として残されている。よく読むとまさに「公安調査」の趣があり、あまり気持ちの良いものではない。その出自や人間関係、扶持、藩の論功に対する不満、三齋死後の離藩の考えなど詳細である。これらの人々は、当然のことながら本藩から扶持を頂戴している。しかし藩はこれらの人に対して、積極的に藩に留まるように動いているようには感じられない。不思議といえば不思議だが、「望めば本藩に帰れば良い」といった風に感じられる。何時の日か読み下しをご紹介したいと思うが、今はただ目で追い引っかかりながら読んでいる状態だ。個人についての情報は、その都度侍帳に転記している。当然亀之丞は何者かの意により動いたのであろうが、闇に蠢く何かが感じられる。
丹羽亀之丞(是良)
四百三十壱石四斗二升二合六勺九才 側弓頭 (於豊前小倉侍帳)
四百三十壱石四斗余 御小姓組衆 (肥後御入国宿割帳)
千石 人持衆併組迯衆 (真源院様御代御侍名附)
千石 ましき (真源院様御代御侍免撫帳)
千石 沢村宇右衛門組 (寛文四年六月・御侍帳)
千石 延宝六年九月十九日 御暇
元禄三年妙解院様五十年忌ニ付御勘気被成御赦免、三十人扶持被下之
老年に至り、御暇を頂戴して木山に在宅、継嗣なく絶家と伝えられるが、実は上記のような事実がある。又、陽明学徒追放と時期を同じくして、お暇の処分が有ったとも伝えられる。尤もこれは時期を置かずして解除となったらしいが・・・
丹羽亀之丞(是良)
四百三十壱石四斗二升二合六勺九才 側弓頭 (於豊前小倉侍帳)
四百三十壱石四斗余 御小姓組衆 (肥後御入国宿割帳)
千石 人持衆併組迯衆 (真源院様御代御侍名附)
千石 ましき (真源院様御代御侍免撫帳)
千石 沢村宇右衛門組 (寛文四年六月・御侍帳)
千石 延宝六年九月十九日 御暇
元禄三年妙解院様五十年忌ニ付御勘気被成御赦免、三十人扶持被下之
老年に至り、御暇を頂戴して木山に在宅、継嗣なく絶家と伝えられるが、実は上記のような事実がある。又、陽明学徒追放と時期を同じくして、お暇の処分が有ったとも伝えられる。尤もこれは時期を置かずして解除となったらしいが・・・