津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

傍証

2008-04-28 17:28:37 | 歴史
 大坂の陣における細川家の一番鑓は清田石見である。「妙解院殿忠利公御代於豊前御侍帳」によると、頭衆として「二千五百石・源・清田七助乗栄、大坂鑓下高名後石見、父主計鎮乗・大友家」と紹介されている。隠居後の忠興に仕えていたが、寛永三年忠利に附属せしめられている。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日)

 三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)・清田石見がお供している。側近中の側近であった石見を、忠利に附属せしめたのはどういうことだろうか。石見の行政官としての顔は見えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。一方忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿という立場も或る。

 わが先祖は、云庵・石見の斡旋により召出された。いわば恩人であり気になる人物である。兄と同時に召出しを受けたが、過日「日帳」により其の時期の特定が出来た。石見が三齋の元を離れた時期を知る事も又、確かな傍証となった。

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竹の子

2008-04-28 16:31:43 | 徒然
 草むしりをしていると、袖が山椒の木に触れたのか芳しい匂いがただよう。五六年ほど前どこから飛んできたのか、実生で育って50センチばかりの高さになっている。横にはその子だろうか、10センチばかりの小さな山椒もみえる。ふと「竹の子」が食べたいと思った。そういえば、毎年新鮮な竹の子を届けてくれる妻の友人が、今年はまだ来てくれない。電話をさせようかと思ったりする。若い頃は得手ではなかった「竹の子」だが、還暦を過ぎた頃から良く食べるようになった。「セリ」とか「蕗のとう」「蕗」などは昔からの好物だが、竹の子が加わり、人に言わせるとすっかり「爺の食べ物」に親しんでいる。田舎にいる友人の顔を思い浮かべながら、久しぶりに電話をしておねだりしてみようかなどと、良からぬ事を考えている。
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綱利の跡継ぎ事情

2008-04-28 10:42:30 | 歴史
細川綱利の略年譜である。
 誕生  寛永二十年(1643)正月八日、江戸にて誕生
  7歳  慶安二年(1649)父光尚卒、翌年四月特例を以て遺領相続
 12歳  承応三年(1654)婚姻 (松平讃岐守頼重女・實水戸徳川頼房女)
 19歳  寛文元年(1661)初入国
 24歳  寛文六年(1666)弟・利重に蔵米知行三万五千石内分、新田支藩とす。
 25歳? この時期・細川家長老松井興長諫言す
 33歳  延宝三年(1675)正室本源院逝去
 45歳  貞享四年(1687)嫡子与一郎誕生・元禄十三年逝去
 47歳  元禄二年(1669)次子吉利誕生
 59歳  元禄十五年(1702)十二月十五日浅野内匠頭遺臣、主君の仇敵吉良上野介を討つ。
             元家老大石良雄以下十七人預けられ、翌年二月四日白金邸にて切腹
 63歳  宝永三年(1706)継嗣・吉利逝去
  ?  この時期柳沢吉保三男安基を養子に願うも実現せず
 65歳  宝永五年(1708)弟・細川利重次男利武(宣紀)を養子とす
 67歳  宝永七年(1710)生母清高院逝去
 69歳  正徳二年(1712)隠居
 71歳  正徳四年(1714)十一月十二日白金邸にて卒す

 老域に入った綱利に、継嗣吉利の死は辛い出来事であったろう。柳沢吉保三男安基を、養子に望んだという事実も理解できるように思える。老中稲葉正住の反対によりその望みも潰えて、弟利重の次男利武を養子に迎えるのは、その直後の事である。後の宣紀、時に36歳であった。21人の子をなした宣紀だが、その子らはすべて宗家相続後に生まれている。宣紀の立場が垣間見えて面白い。
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