大坂の陣における細川家の一番鑓は清田石見である。「妙解院殿忠利公御代於豊前御侍帳」によると、頭衆として「二千五百石・源・清田七助乗栄、大坂鑓下高名後石見、父主計鎮乗・大友家」と紹介されている。隠居後の忠興に仕えていたが、寛永三年忠利に附属せしめられている。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日)
三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)・清田石見がお供している。側近中の側近であった石見を、忠利に附属せしめたのはどういうことだろうか。石見の行政官としての顔は見えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。一方忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿という立場も或る。
わが先祖は、云庵・石見の斡旋により召出された。いわば恩人であり気になる人物である。兄と同時に召出しを受けたが、過日「日帳」により其の時期の特定が出来た。石見が三齋の元を離れた時期を知る事も又、確かな傍証となった。
「清田七助を殿様ニ御奉公申候へと、三齋様御意ニて、(吉住)半四郎御使ニ被参候、則七助も同道ニて、今日被罷越候而、御礼相済候、知行も前々のことく、三齋様より付遣候事」とある。(日帳五月八日)
三齋の江戸や京への上下には、槙嶋云庵(雲庵とも)・清田石見がお供している。側近中の側近であった石見を、忠利に附属せしめたのはどういうことだろうか。石見の行政官としての顔は見えないが、戦場を縦横に馳せ巡った猛将の存在は忠利の元でも重きをなしたのであろう。一方忠興四男立孝・五男興孝の生母圓通院(幾知)の兄(弟?)であり、忠興妹伊也(初・一色義有室、吉田兼治再嫁)の女婿という立場も或る。
わが先祖は、云庵・石見の斡旋により召出された。いわば恩人であり気になる人物である。兄と同時に召出しを受けたが、過日「日帳」により其の時期の特定が出来た。石見が三齋の元を離れた時期を知る事も又、確かな傍証となった。