津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

三齋大いに怒る

2008-04-15 09:15:10 | 歴史
 光尚の室・彌々は三齋の愛娘萬(烏丸中納言光兼簾中)の娘である。三齋にとっては夫々孫に当たる。二人の間に男子が誕生したのは、寛永十三年十月二日忠利は光尚に宛て祝いの書状を発している。

  御彌々悦之由、目出度候而、先早打下候、爰元何事無之候、三齋様も一段御息災
  事候、十一月初比に可為御上と見へ申候、我等も一段無事候事 恐々謹言
    十月十四日                 越
                           忠利(花押)
     肥後殿
       進之候

 書状を発したその日、江戸に於いては彌々が亡くなっている。
彌々の死に対しての忠利の十月廿九日書状。

  御彌々之儀、不及是非候、吊之儀、此方之御寺未出来不申、切くミ計ニ候間、南
  禅寺天壽庵にて吊申候(以下略)
                  (「吊」は「弔」の異字)
そして、十二月十二日にはその男子も亡くなっている。この間の事情は三齋の体調を慮って報告がなされていなかったらしい。愛してやまなかった孫娘・彌々やその男子の死に直面して、三齋の怒りが爆発した。報告を怠ったとして江戸留守居が扶持離しとなる。これは三齋の指示によるものである。

 寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)

  中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、従 三齋
  様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事

 光尚は三人に対し再召出しを伝えたとされるが、光尚の死により約束は果たされていない。源右衛門は細川家を離れた。神戸・宮本は息の代に至っての召出しである。
行き違いとはいえ、老いて益々気短になった三齋の行動が分かる。

 
 
コメント
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