津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

小篠四兄弟

2008-04-02 18:49:24 | 歴史
 神風連を語るとき驚きを禁じえないのが、小篠四兄弟の死である。本妙寺塔中晴雲院の裏手に四兄弟のお墓と、末子源三が可愛がっていたという愛犬のお墓がある。小篠家の遠祖は大江広元に遡ると言われるが、初代七左衛門の父・次大夫は転切支丹でもある。六代十郎右衛門は西山家からの養子である。足利将軍家のDNAが入った。
十代千次郎(七郎右衛門・宗平 四百石)の四名の男子が神風連志士として散った。長子・一三(27歳)、二子・山田彦三郎(25歳)は、中島村荒木神社社頭にて自刃。三子・清四郎(22歳)、四子・源三(18歳)は、池上村谷尾崎の山王神社にて自刃した。              
一三の辞世「忠と義のためには身をも捨て小舟堀や河辺に朽ち果てぬとも」
彦四郎辞世「大君の為には何か惜しからむ野邊の草葉の露と消ゆとも」
清四郎辞世「事ならで果つる我が身はいとはねど心にかかる皇国の御世」
源三の辞世「予てよりおもひこめにし真心のけふは操の立つぞうれしき」

 四兄弟の集合写真が残されている。断髪はいまだ成されていない。源三はまだ幼さが伺える。愛犬虎は源三の死後食を絶って死んだとされる。

 
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寛永九年六月十三日榊原職直宛書状

2008-04-02 10:36:57 | 歴史
 この時期肥後國は加藤家の改易が決定し、城受け取りについて騒然としている。そんな中、五月廿七日・六月二日に榊原職直からの書状に対する忠利の書状だが、「肥後ノ国主ヲ望ム」気持ちや、「蒲生忠知の領地が空けば行きたい」といった思いを綴っている
           (大日本近世史料・細川家史料十六・・1589から該当項を抜粋)

 一、肥後ノ國ヘハ誰が可被遣候哉、是ハ能々被成御思案可被仰付と存候、 
    御仕置ハ此國主ニ而大かたかたまり可申と内々存候、と角か様二遠國
    二居申候者、肥後へ参度候、御出頭候而可預御取合二候、されとも我
    等ごときの草臥もの彼國へ参候ハヽ、御為ニも成ましきと存笑申候、此
    國主ハおそく候ても、末々まて可然様ニ仕度事ニ候事
 一、松中殿(蒲生忠知)出入いかヽ成候哉、此あたりあき候へかし、参候へ
    者舟道半分ニ而候、将軍様へ早々可被仰上、おかしく候

 肥後の國主になりたいと言う反面、「我等如きのくたぶれ者(?)では御國の為に成らぬだろう」と言い、慎重に選ぶべきだと思いは複雑である。
一方、蒲生忠知の領地(伊豫松山二十万石)であれば、舟道も半分に成るしそちらはどうだろうかと尋ねるのである。最期の「おかしく候」という言葉が意味慎重である。

【蒲生忠知】松平中務大輔。秀行の子。寛永四年伊豫松山城主二十万石。十一年八月十八日歿。年三十。

【榊原職直】花房職之の二男。左衛門佐。慶長元年榊原康政の執政により、徳川家康に初見榊原を號す。三年秀忠附小性。大坂陣に従い功あり、五百石。元和三年父の遺跡のうち千石。寛永二年十月千八百石。徒頭。九年四月、書院番頭。十二月従五位下飛騨守。十年四月、加増されて二千五百石。十一年五月八日、長崎町奉行。十四年嶋原の陣に従い、十五年二月鍋島勢の軍監。軍令違反により閉門。十七年五月免さる。十八年先手鉄炮頭。正保二年七月火付盗賊改。三年近江水口城番。慶安元年九月朔日歿。年六三。
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