津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

片喰紋

2008-04-22 11:55:26 | 徒然
 カタバミが黄色い花つけている。すごい繁殖力ではびこっている。今の内に抜いておこうと腰をかがめてみたが、とてもじゃないが抜ききれない。この繁殖力が愛でられて家紋に多く使われている。日本の三大家紋とか聞くが、ウィキペディアは次のように紹介している。

【繁殖力が強く一度根付くと絶やすことが困難である事が、「(家が)絶えない」に通じることから、家運隆盛・子孫繁栄の縁起担ぎとして家紋の図案として用いられており、戦国大名・長宗我部元親で有名な土佐長宗我部家の『七つ酢漿草』や新陰流の上泉信綱の『片喰紋』・徳川氏の譜代・酒井氏の『剣片喰』『丸に片喰』など、片喰紋を家紋とする戦国大名・武将も多い。今太閤と呼ばれた田中角栄の家紋も『剣片喰』である。】

 母の実家の家紋は「亀甲に剣片喰紋」、お説の如く六人兄妹で根を広げた。
先祖は関西の人間らしいが、剣片喰紋は奈良県に多いと言う。奈良人かい・・?
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ひい爺様の仕事

2008-04-22 10:51:58 | 歴史
 横井小楠の「士道忘却事件」というものがある。某所にて酒席を一緒にしていた横井ら三人が何者かに襲われ、小楠は刀を取りに藩邸に走り帰る。其の中の吉田平之助は果敢に立ち向かい傷をえて後絶命する。藩庁は横井に対し「国辱もの」だとして士席を剥奪している。事件が起きたのは文久二年十二月の事である。平之助嫡子巳久馬(後・傳太)の、苦難の仇討ちの旅が始まる。

 慶應四年曽祖父は細川護美公に随い京都に在った。同僚益田某が、松山藩某氏より下手人安田善助・黒瀬市郎助の情報を得る。松山藩との交渉により黒瀬は鶴崎に護送される。安田はすでに亡き人であった。吉田はこの地の就奥寺において仇を討つのである。慶應四年二月三日、七年の歳月が経過していた。この年横井小楠も、新政府に参与として出仕するが、翌明治二年一月十五日参内の帰途を襲われ亡くなることとなる。

 京都から帰った曽祖父は穿鑿役を勤めた。そしてその顛末を書き残している。「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」である。宮村典太氏編著「藻塩草・巻八十二」所載のものであるが、日付けは明治三十年三月とあるから、宮村氏の要請に応じて後日改めて筆をとったものであろうか。
ひい爺様の仕事ぶりが伺えるただ一つのものである。
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