津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

知行被差上候

2008-04-13 18:49:29 | 歴史
 「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」を見ると、延宝三年九月十六日「煩ニ付知行被差上(候)」として米田甚内(是員)殿、延宝七年十一月二日「御役儀御断ニ付知行被差上候」と米田助右衛門殿とある。二人は兄弟である。米田家四代是長監物の次弟が助右衛門、末弟が甚内だが共に江戸証人を勤めた。又夫々共家老職を勤めたが、助右衛門は隠居無嗣断絶。甚内は先に記す如く病を得て二十九歳で死去こちらも無嗣断絶した。米田家は四代是長女吟が忠利末子元知に嫁いだが、これも陽明学徒追放に際し、藩主綱利に対し諫言これが災いして永蟄居となる。寛文九年十月十一日「煩ニ付知行被差上候、五千石・長岡左近(南條元知)殿」と「覚」は記録している。その嫡子である是庸が命により、外祖父養子になったのは延宝五年の事である。ちなみに四代是長室は南條元信女伊代である。米田家と南條家の深いつながりがある。

  寛文九年(1669) 長岡元知(是長女婿)永蟄居
  延宝三年(1675) 米田甚内(是員)死去(29歳)
  延宝五年(1677) 長岡是庸、命により米田是長の養子となる。
  延宝七年(1679) 米田是正隠居
  延宝八年(1680) 米田是長死去(63歳)

 米田家の波乱の延宝期である。
  
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しっかりしろ行政

2008-04-13 16:12:06 | 熊本
 十数年前行きつけのスナックで、警察出身のご老人と知り合った。県のトップまで登られた鹿児島出身の方である。話しの端々から「西郷派」である。いたずら心がふと湧いて、「初代警視総監川路利良をどう思われますか?」と聞いてみた。きっと睨みつけられた。「鹿児島の恥だ、あのくそやろう」と仰る。これには驚いてしまった。訥々と鹿児島に於ける彼の「西郷に対する裏切り行為」について述べられる。そこで始めて知ったのが司馬遼太郎の「飛ぶが如く」に登場している、川路利良のフランスに於ける「くそやろう」事件である。("大便放擲事件"詳細は同書をどうぞ)「国辱もんだ」日本の警察の育ての親に対して口調は終始穏やかだが辛らつである。(まさしく国辱ものだ)
鹿児島県人のいまだいやされぬ深い心情的対立が残されているのを知った。
 ご自宅は熊本の西方の見晴らしのよい山の上にお在りだという。「マスターと一緒に遊びのおいで」といって下さった。約束は果たされる事なく、お亡くなりになった事を知った。ご老人曰く「都市計画がまずいねー。まわりはラブホテルばかりで住んでいて肩身が狭いよ」 昨日すぐ近くを車で走ってみると、状況は現在も全然改善されない。新幹線の車窓から見えることになるその景色に、熊本を訪れる方々はどう思われるのかと思うと、ご老人ならずとも肩をすぼめたくなる。
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