アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

明仁天皇が影響を受けた4人の人物

2018年12月25日 | 天皇制と憲法

     
  来年5月1日の「退位」へ向けて、メディアは競うように明仁天皇賛美の特集を組んでいます。この傾向はさらに強まるでしょう。
 先日の「最後の会見」も含め彼の言動の特徴は、憲法の規定を無視して「象徴天皇制」のあり方を自ら考え行動した独断専行ですが、その根底には4人の人物の強い影響があります。

  1人目は、明仁12歳(1946年)から家庭教師となったアメリカ人のエリザベス・グレイ・バイニング夫人です(写真左)。

  夫人はたんなる家庭教師ではなく、明仁が成人し即位したのちも、美智子皇后とともに生涯親交を深めました。
 少年期、何事につけ侍従たちの顔色をうかがう依頼心の強かった皇太子明仁に対し、夫人が最も重視した教育方針は「自立」でした。後年、夫人は牛島秀彦氏(東海女子大教授=当時)のインタビューに答えてこう述べています。

 「私は皇太子殿下にいつも『自ら考えなさい』と言い…ご自分で決定して行動なさるように言いました。殿下はそのことを実践していらっしゃいますので、大変うれしく思います」(牛島秀彦著『ノンフィクション天皇明仁』河出文庫1990年)

  夫人が最後の授業で黒板に書いた言葉は、「Think for yourself」だったといいます(22日放送TBS「報道特集」)

  2人目は、明仁15歳(1949年)に「東宮御教育常時参与」となった小泉信三(写真中)です。

 福沢諭吉を信奉し自らも慶應義塾塾長となった小泉が、福沢の『帝室論』で皇太子明仁に「帝王学」を教え込みました(17日のブログ参照)。
 小泉が明仁と正田美智子の結婚にも深く関与し、その実現のために報道機関に圧力をかけたことも見過ごせません。

  3人目は、バイニング夫人、小泉信三ほど深いかわりはありませんが、無視できない影響を与えた、イギリス首相(当時)チャーチルです。

  明仁皇太子は19歳の時(1953年)、父・裕仁天皇の名代として英エリザベス女王の戴冠式に参列しました。戦犯・裕仁への英国民の怒り・反発を避けるための名代で、明仁にとって初の外国公式訪問でしたが、英国民、メディアの強い反発・批判は明仁皇太子にも向けられました。
 その状況をなんとかしようと、チャーチルは明仁を私邸に招き、労働組合の代表や「反日メディア」代表も呼んで昼食会を開催しました。そこでチャーチルは予定になかったスピーチでこう述べ、明仁に英国流の立憲君主制を教えました。

 「英国には、君主は君臨すれども統治せずという格言があり、もし君主が間違ったことをすれば、それは政府の責任であります」(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)

  帰国した明仁皇太子は会見で、「大いに知見を広め貴重な体験を得たことは、私にとって大きな収穫でした」と述べています(23日放送NHK「天皇・運命の物語」)

  そして4人目は、メディアは取り上げませんが、ある意味で最も影響を与えた人物、父・裕仁天皇です。

  明仁天皇は65歳の誕生日会見(1998年12月18日)で、「昭和の時代と比べて天皇としての活動の在り方も変わってきたようだが」との記者の質問にこう答えています。

 「天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。私は、昭和天皇のお気持ちを引き継ぎ、国と社会の要請、国民の期待にこたえ、国民と心を共にするよう努めつつ、天皇の務めを果たしていきたいと考えています」
 「昭和天皇のことは、いつも深く念頭に置き、私も、このような時には『昭和天皇はどう考えていらっしゃるだろうか』というようなことを考えながら、天皇の務めを果たしております」(宮内庁HPより)

 興味深いのは、以上の4人が1つに結びつくことです。バイニング夫人を家庭教師に望んだのは裕仁であり、夫人と小泉信三は意気投合し相談しながら皇太子明仁に英国流の立憲君主制を教育しました。

 「天皇(制)の危機を察知した天皇(裕仁-引用者)自身の要請で、戦勝国アメリカからやってきた絶対平和主義を信奉するクエイカー教徒の家庭教師E・G・ヴァイニングが理想とする王室は、イギリスの場合であった。これは、皇太子の教育参与(主任)になった小泉信三の意見でもあり(注・小泉が明仁を教えた教科書は福沢の『帝室論』とともにハロルド・ニコルソンの『ジョージ五世伝』でした-引用者)、ヴァイニング・小泉の息は合っていた」(牛島秀彦氏、前掲書)

  明仁天皇が目指した「象徴天皇制」は、イギリス流の立憲君主制です。明治政府がモデルにしたのもイギリスの立憲君主制でした。それは福沢諭吉の「脱亜入欧」(アジア蔑視)とも不可分です。さらに明仁天皇の念頭には常に、父・裕仁が実践した絶対主義的天皇制がありました。

  重要なのは、こうして明仁天皇が「主権在民」とは相いれない立憲君主制を志向してきたことに対し、「民主陣営」の側から異議を唱え、批判する声が出てこなかった(あるいは微弱だった)ことです。
 明仁天皇の独断専行、国家権力によるその政治利用を許してきた責任は、メディアはもちろん、「民主的学者・知識人」そして「主権者・国民」の側にもあることを銘記する必要があります。



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「明仁天皇最後の会見」の10... | トップ | キャッシュレスと天皇制 »