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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「秋篠宮長女結婚」問題の核心は天皇制の是非

2021年10月25日 | 天皇制と憲法

   

 秋篠宮家の長女・眞子氏の結婚問題をメディアは連日大々的に報じてきました。それは量・質ともに異常で、日本のメディアの劣化を象徴的に示すものです。

 「識者」のコメントの中には、「天皇や皇族が自分の意志を持ってそれを貫きたいと思う時、それと国民の反応をどう折り合いを付け、バランスを取っていくのか」(河西秀哉名古屋大大学院准教授、9月8日付中国新聞=共同)が課題だという問題の危険な矮小化もあります。

 この問題の核心は、皇族に憲法上の人権が保障されていないことです。

 秋篠宮は昨年の誕生日会見(2020年11月20日)でこう述べました。
憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります。本人たちが本当にそういう気持ちであれば、親としてはそれを尊重するべきものだというふうに考えています」(宮内庁HP)

 これは皇嗣である秋篠宮が、皇族にも憲法が適用されるべきだと公言したものとして注目されます。 

 この発言に正面から異を唱える人はまずいないでしょう。であるなら、これは個人の結婚の問題であり、メディアやそれに煽られた市民が「賛成・反対」で大騒ぎするのはよけいなお世話、人権侵害も甚だしと言わねばなりません。

 結果、眞子氏はPTSDと診断され、一時金(1億5千万円)を辞退するに至りました。眞子氏に憲法24条の「婚姻の自由」は事実上保障されなかったのです。

 なぜこういうことになったのか。それは彼女が皇族に生まれたから、それが唯一の理由です。つまり秋篠宮の憲法発言は建前論であり、実際は 皇族に「婚姻の自由」はないということです。

 それはもちろん眞子氏だけではなく、また女性皇族だけでもありません。男性皇族の場合は皇室典範で、「皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」(第10条)と定められています。この過程で様々な調査が行われ、結婚相手が選別されます。

 また、皇族に保障されていない憲法上の諸権利は、「婚姻の自由」だけでないことも周知の事実です。皇族には、移動の自由、職業選択の自由、言論・集会の自由などの基本的人権はありません。

 立憲主義といわれている日本の社会に、憲法の基本的人権が保障されていない特別な一団が公然と存在するのです。きわめて異常な現実と言わねばなりません。

 これは皇族だけの問題ではありません。基本的人権の保障に例外をつくることは、憲法体系・民主主義体制に風穴を開けることに他ならず、その影響は重大です。

 皇族に憲法上の人権が保障されていない問題は、必然的に天皇制そのものの是非を問い直すことに直結します。なぜなら、天皇制を温存したまま皇族に基本的人権を保障することは不可能だからです。

「そういう不条理な制度をつくったのは、憲法(とりわけ第一条、第二条)なのであって、憲法自体を改めなければならないのである。個別の取り極めを違憲だと決めても片付くものではない。きつい言葉で言えば、それはお門違いである。

 皇室典範の個々の規定を個別に改正して事態を収拾しようとする政策に頭から反対するつもりはない。しかし、これは対症療法でしかなく、暫定措置的な効果が期待されるにすぎない。天皇制(天皇家)が憲法上の制度たるをやめないかぎり、(皇族の―引用者)不自由・拘束は遺憾ながら制度とともに付いてまわらざるを得ない」(奥平康弘著『「萬世一系」の研究(下)』岩波現代文庫2005年)

「秋篠宮長女の結婚」が投げかけているのは、まさにこの問題にほかなりません。


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東京五輪開会式で露呈した「象徴天皇制」の本質

2021年07月26日 | 天皇制と憲法

    

 徳仁天皇ができれば東京五輪の開会式(23日)に出席したくないと思っていたことはおそらく事実でしょう。雅子皇后や他の皇族の欠席がそれを示しています。しかし天皇は出席して「開会宣言」を行いました。なぜでしょうか。
 ここには、憲法の「象徴天皇制」の本質が表れています。

 第1に、天皇は、自分の意思で行動することはできないし、してはならないのです。

 五輪開会式への出席は天皇の「公的行為」です。憲法に規定のない「公的行為」が許されるかどうかには両論ありますが(私は許されないと考えます)、それが憲法第3条の適用をうけ、「内閣の助言と承認を必要」とすることに学説上の争いはありません。

 天皇(もちろん皇后はじめ他の皇族も)は、完全な「私的行為」以外は、自分の意思で行動(発言・意見表明含め)することはできず、その行為はすべて「内閣の助言と承認」によって決められる、つまり時の政権の意向によって行動し、政権に政治利用されることになっているのです。それが憲法の象徴天皇制です。

 これまでの「被災地訪問」や「皇室外交」などもすべてそうです。ただこれまでは、それが政権による政治利用だということは目立ちませんでした。大きな争点になる問題はなかった(ないように見えた)し、「国民」の関心もなかった(薄かった)からです。

 しかし、今回の東京五輪はそうはいきませんでした。「国民」の関心の高い問題で、しかも「国民」の過半が反対している問題でも天皇を担ぎ出さざるをえなかった。
 結果、徳仁天皇が菅政権の思惑通り開会式に出席したことで、政権による天皇の政治利用がきわめてわかりやすい形で表面化したのです。

 それだけではありません。

 今回の開会式出席について、天皇制を擁護する立場から、「仮に大会で感染が拡大したら、皇室にとって汚点となる。陛下(ママ)は大会と距離を置くべきだった。前例通りではなく、菅首相が宣言をしても問題はなかった」(坂上康博一橋大教授、24日付沖縄タイムス=共同)との意見がありますが、そうはいかない理由が政府・自民党にはありました。五輪憲章で「開会宣言」は開催地の「国家元首」が行うと定められているからです。

 天皇は日本の「国家元首」ではありません。「日本国の元首は内閣または内閣総理大臣ということになる(多数派)」(芦部信喜著『憲法第五版』岩波書店)のが憲法学の定説(多数派)です。だから本来、天皇は「開会宣言」を行うことはできません(13日のブログ参照)。

 しかし、それは政府・自民党にとってはきわめて不都合なのです。なぜなら、彼らは「我が国において、天皇が元首であることは紛れもない事実」(『日本国憲法改正草案Q&A』自民党憲法改正推進本部発行、2012年10月)と断言し、「明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在」(同)していたとして、改憲草案(2012年4月)の第1条に「日本国の元首は天皇」と明記しているからです。「日本国及び日本国民統合の象徴」であるとの文言は残しつつ、「元首は天皇」と明文化しようとしているのです。

 「天皇元首」化は、主権在民の現憲法を明治憲法型の憲法に変える自民党改憲の1丁目1番地です。だから、いくら天皇が開会式に出ることに難色を示しても、政府・自民党はどうしても天皇に「開会宣言」させる必要があったのです。

 天皇徳仁の今回の東京五輪開会式出席・「開会宣言」は、「象徴天皇制」が政権(国家権力)に都合よく利用される支配装置に他ならないことを露呈しました。
 それは同時に、主権在民の社会に天皇制(憲法第1~8条)はあってはならないことを改めて示したとも言えます。


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天皇に東京五輪「開会宣言」を行う権限はない

2021年07月13日 | 天皇制と憲法

    

 天皇徳仁が東京五輪でのコロナ感染拡大を懸念していると西村泰彦宮内庁長官が発言(6月24日)した問題が尾を引いています。天皇の見解表明(間接的にせよ)を歓迎・容認することは危険な誤りですが(6月26日のブログ参照)、さらに原点に立ち返って考える必要があります。

 それは、そもそも現憲法下において、天皇には五輪の開会宣言を行う権限はないということです。あたかも天皇が開会宣言を行うことを自明のことと捉え、報道することは、事実上憲法を蹂躙していることになります。

 「オリンピック憲章」は第5章「プロトコル(儀礼上の約束事)」の「55」で、「オリンピック競技大会は、開催地の国の国家元首(英文ではthe Head of State -引用者)が以下のいずれかの文章を読み上げ、開会を宣言する」と規定しています(JOC訳)。

 では、天皇は日本の「国家元首」でしょうか。答えは、否、です。

 大日本帝国憲法(1889年)は第1条で、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明記しており、天皇が元首であったことは明白です。それが日本国憲法(1947年施行)では「主権在民」となり、天皇の地位は「日本国の象徴」(第1条)にすぎないことになったのは言うまでもありません。

 奥平康弘・東京大名誉教授(憲法)は、「現在の天皇は…象徴的な機能を果たす国家機関である。そうだから、所詮“統治”のなかに位置づけられるほかない。その地位は…権力構造の配置・配列の問題である」(『「萬世一系」の研究(下)』岩波現代文庫2017年)とし、天皇の地位を憲法の権力構造の中に位置づけることの必要性を強調しました。

 横田耕一・九州大名誉教授(憲法)は、「元首の定義について学説はいろいろに分かれて(いる)」としながら、「現在では、内において行政の長であり、外において国を代表する者を指して元首とするのが通説」とし、こう指摘しています。

「いずれの説を採用するとしても、現在の天皇は行政の長でもなければ、国を代表するものでもないから、元首ではない。そしてこのいずれの定義をも満たすのは、憲法上は内閣である。複数の元首を避けるとするなら、日本国の元首は内閣総理大臣であると言わなければならない」(『憲法と天皇制』岩波新書1990年)

 そして一部勢力が天皇を「元首」と主張している狙いについて、横田氏はこう述べています。
なぜ天皇を無理に元首としなければならないのであろうか。これは、天皇を元首とすることで、日本国民の意識の中にかつて(大日本帝国憲法―引用者)の元首=天皇像の再生を図ろうとするものであるとしか考えられない」(同)

 「天皇=元首」論者の狙いを明文化したのが、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年)です。同「改正草案」は「前文」の冒頭で、「日本国は…天皇を戴く国家」とし、第1条で「天皇は、日本国の元首であり…」と明記しています。

 天皇を元首扱いすることは、この自民党改憲草案の先取りにほかなりません。

 前回の東京五輪(1964年、写真中)では天皇裕仁が、長野冬季五輪(1998年)では天皇明仁が「開会宣言」を行いましたが、いずれも現憲法上、容認されるものではありません。

 「日の丸」がはためき、「君が代」が流れる中で、天皇が「元首」として「開会宣言」を行う。それが日本のオリンピックです。それは、自民党の改憲草案を可視化したものと言えるでしょう。

 自民党政権があくまでも東京五輪を強行しようとしている底流には、こうした「天皇元首化」・憲法改悪の思惑があることを見逃すことはできません。


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天皇の「五輪発言」は許されない

2021年06月26日 | 天皇制と憲法

    

 西村泰彦宮内庁長官の発言が波紋を広げています。西村長官は24日の記者会見でこう述べました(写真中)。

「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています」
「(「長官の拝察か」との記者の問いに)拝察です。日々陛下とお接しする中で私が肌感覚として受け止めているということです」
「(「陛下の気持ちと受け止めていいか」との問いに)私の受けとりかたですから。陛下はそうお考えではないかと、私は思っています。ただ陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはありません」(24日の朝日新聞デジタルより)

 これに対し、加藤勝信官房長官は同日の記者会見で、「宮内庁長官自身の考え方を述べられたと承知している」(25日付共同配信)とのべ、菅義偉首相も25日、同じ考えを示しました(写真右)。

 しかし、西村長官の発言は、「「拝察」という言葉を使っているが、実質的には天皇陛下(ママ)の同意に基づいた陛下自身の言葉を伝えているはずだ」(河西秀哉名古屋大大学院准教授、25日付沖縄タイムス=共同)とみるのが自然です。

 この問題をどう考えればいいでしょうか。

 第1に、天皇徳仁が西村長官を通じて上記の考えを公にした意図は何でしょうか。西村氏の言葉からうかがえることは、自分が「名誉総裁」を務めるオリ・パラで感染が拡大すれば自分の責任も問われかねない、少なくともイメージダウンは避けられない。そこで自分は感染拡大を懸念していた、心配していたということを記録しておく必要がある、ということではないでしょうか。

 第2に、どのような意図があろうと、現情勢におけるオリ・パラ開催に関する発言はきわめて政治であり、憲法(前文、第3、4条)に照らして、許されるものではないということです。西村氏はそれが分かっていますから、天皇が直接発言したものではないと強調していますが、それは脱法トリックにすぎません。

「天皇に一切の政治的行為を許さない「象徴」とするのが憲法の「国民主権」だ。東京五輪は開催をめぐる賛否が分かれ、政治的な論点になっている。…こうした政治的問題は国民や議員が自らの責任で決めるべきことで、国民主権を侵害するこの発言の危険性を認識すべきだ」(渡辺治一橋大名誉教授、24日朝日新聞デジタル)

 立憲民主党の安住淳国対委員長は24日、「政府がいう『安心・安全の大会』になるか、懸念をもっておられるんだと思う。国民の多くも共有している。大変重い」(24日朝日新聞デジタル)と天皇の(間接的)意見表明を歓迎する考えを表明しました。とんでもないことです。

 東京オリ・パラは中止すべきであることは当ブログでも再三主張しましたが、だからといって、天皇の政治発言を都合よく容認・評価することは許されません。内容の如何にかわらず、天皇の政治発言・政治行為は絶対に許されません。

 第3に、しかし同時に、自らが「名誉総裁」を務めるイベントが感染拡大の場になろうとしていることについて何も言えないのも問題がないとは言えません。そもそも政治にかかわる発言をしてはならない者が憲法上存在していること、その者を「名誉総裁」に担いで政治利用すること自体が問題なのです。

 すなわち、「象徴天皇制」の存在自体が、基本的人権に反する制度だということです。このような「象徴天皇制」は廃止(憲法から関連条項を削除)すべきです。西村発言はあらためてその必要性を示していると考えます。


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軽視できない憲法違反「皇女制度」創設の動き

2020年12月22日 | 天皇制と憲法

    
 「コロナ禍」のドサクサに紛れて、政権(国家権力)がたくらんでいることは少なくありませんが、「皇女制度」創設もその1つです。菅政権は年明けから検討を本格化させようとしています。「皇女制度」とは、結婚によって皇籍を離れることになっている女性皇族を、結婚後も「皇女」と称する特別公務員にし「皇室活動」を継続させようとするものです(写真左・中は「立皇嗣の礼」=11月8日、「即位の礼」=2019年10月22日に出席した女性皇族たち)。

 「皇女制度」は仮に現行憲法の「象徴天皇制」を是としたとしても、何重にも憲法原則に反するもので、絶対に容認することはできません。

①「職業選択の自由」(憲法第22条)違反
 憲法は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由」を有する(第22条)と定めています。「皇室出身の女性」を「皇女と称する特別公務員」と定めることは「職業選択の自由」違反です。

②公務員に対する「国民固有の権利」(憲法第15条)侵害  
 憲法は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(第15条)と規定しています。しかし「皇女と称する特別公務員」に「国民」の「選定」「罷免」の権利は及びません。

③「信教の自由」(憲法第20条)違反 
 「皇女」となった女性は国家神道に基づく行事への参加(執行)が任務となります。「信教の自由」に反することは明白です。

④「表現・集会・結社の自由」(憲法第21条)違反 
 「皇女」となった女性は当然、政治問題での言論活動や集会・結社に参加することはできません。

⑤「法の下の平等」(憲法第14条)違反 
 そもそも憲法は、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」(第14条)としています。上記①~④はこの憲法の大原則を侵害し、新たな身分制度を創りだそうとするものです。

⑥配偶者に対しても「表現・集会・結社の自由」(憲法第21条)違反
 憲法違反が及ぶのは「皇女」となる女性だけではありません。その夫となる人にも「表現・集会・結社の自由」が保障されないことは明らかです。

⑦「女性差別」に固執する「保守派」への迎合が出発点
 
そもそも菅政権が「皇女制度」を創設しようとしているのは、「男系による皇位継承の維持、旧宮家(旧皇族)の男系男子の皇籍復帰」を求め「女系天皇に道を開く可能性のある女性宮家創設に強く反対する」いわゆる「保守派」に迎合するためです。「女性宮家創設につながらない皇女制度はその点で、保守派の賛同が得られる」(11月24日付中国新聞=共同)との思惑からです。
 「皇女制度」創設の発想は、女性・女系天皇排除という女性差別が立脚点です。

⑧「皇室活動」自体が天皇制維持のための脱法行為 
 「皇女制度」は「皇族数減少に伴う皇室活動の担い手確保策」(同上、共同)ですが、そもそも憲法に「皇室活動」に関する規定はありません。それは天皇の「公的行為」に準ずるものとして行われています。しかしその天皇の「公的行為」自体、憲法にはなんの規定もありません。
 それは憲法違反だと私は考えますが、学説上の定説はありません。しかし少なくとも、「広汎にわたる公的な行為は、国事行為と同様に、いやある場合にはそれ以上に、国民に天皇を意識させる場として機能しており、結果として天皇の権威や統合機能を強めている」(横田耕一著『憲法と天皇』岩波新書1990年)ことは確かです。「皇室活動」は天皇制維持・強化のための脱法行為にほかなりません。

 この重大な「皇女制度」に、菅政権・自民党だけでなく、立憲民主党も賛成する可能性が大きいことは見過ごせません。
 「結婚後も皇室活動を続けてもらう案(皇女制度―引用者)は民主党政権でも議論され、2012年10月公表の論点整理で「検討に値する」と評価。菅義偉首相周辺は「党派を超えて理解を得やすい案だ」と話す」(11月25日付共同)と報じられています。

 何重にも憲法原則に反する「皇女制度」が、天皇制維持・強化のために与野党一体(大政翼賛)で強行される可能性はけっして小さくありません。

 


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皇室典範の違憲性示した秋篠宮発言

2020年12月01日 | 天皇制と憲法

    
 秋篠宮(皇嗣)は11月30日の誕生日にあたっての記者会見(実施は11月20日)で、長女の結婚に関し、「結婚することを認めるということです。憲法にも結婚は両性の合意のみに基づいてというのがあります」「両性の合意のみに基づくということがある以上…」(宮内庁HP)と繰り返し述べました。

 当たり前のことですが、皇嗣である秋篠宮の発言である以上、単純に当たり前として見過ごすことはできません。なぜなら、この発言は皇室・皇族(写真右)の義務、すなわち天皇制の在り方を規定している皇室典範と矛盾するからです。

 秋篠宮が言うように、憲法は第24条で「婚姻は両性の合意のみによって成立」すると規定しています。これが現在の日本における婚姻の原則です。
 しかし皇室典範は、「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」(第10条)としています(立后とは皇后を決めること)。一見この規定は「皇族男子の婚姻」の自由を制限しているようですが、これによって「皇族男子」の結婚相手である女性が皇室会議でふるいにかけられ選別されることになります。この条項は婚姻における女性差別・蔑視の規定でもあるのです。この皇室典範の規定が憲法に反していることは明白です。

 秋篠宮家長女の結婚に皇室典範のこの規定は適用されません。しかし、娘の結婚にあたって憲法24条に従うべきだと言明した秋篠宮の発言が、皇室典範(第10条)と矛盾していることは明らかで、その発言は皇室典範の違憲性を照射したと言えるでしょう。

 皇室典範の違憲性はもちろん婚姻についてだけではありません。

 その第1条は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」であり、これが皇位継承から女性を排除する明白な女性差別(憲法14条違反)条項であることは周知のことです。

 また皇室典範は、第11条~14条で皇族が「身分を離れる」場合の要件を細かく規定しています。皇族は自分の意思で「皇族」という「身分」から脱することができないのです。これは「居住・移転の自由、職業選択の自由」(憲法22条)、「信教の自由」(同20条)、「表現・集会・結社の自由」(同21条)、「選挙権」(同15条)などを奪うもので、「基本的人権の尊重」(同11条)という憲法の大原則に何重にも反しています。

 以上のように、皇室典範が憲法に反していることは明白です。もともと現在の皇室典範は、戦前の大日本帝国憲法下の旧皇室典範の主要部分をそのまま引き継いだものです。本来、敗戦後憲法下において廃棄されるべきものでした。それが今日まで温存され、それによって天皇制は維持されているのです。ここに天皇制における戦前と戦後の歴史の連続性が端的に表れています。

 秋篠宮は2年前、やはり「誕生日会見」(実施は2018年11月22日)で、天皇の代替わりに行われる「大嘗祭」について、「宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか」「宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています」(宮内庁HP)と述べ、憲法の「政教分離」(第20条)の観点から国事行為としての「大嘗祭」に異議を唱えました。

 この時、菅義偉官房長官(当時)は、「あくまでも個人的意見」として政府としてのコメントを避けました。しかし秋篠宮はいまや「皇嗣」です。秋篠宮の憲法発言を「個人的意見」としてスルーすることはできません。

 「象徴天皇制」の法的元凶は、もちろん皇室典範ではなく、日本国憲法自身です(第1~8条)。したかって憲法から天皇条項(第88条も含め)を削除することが必要です。
 同時に、そこに至るまで、憲法が現行のままの段階でも、違憲立法が許されないことは言うまでもありません。天皇(皇嗣)にももちろん憲法遵守義務(憲法第99条)があります。

 憲法違反の皇室典範は直ちに廃棄されなければなりません。
 今回の秋篠宮発言で目を向けるべきは、堕落したメディアが興味本位で取り上げるスキャンダルなどではなく、皇室典範、天皇制の違憲性という根本問題です。


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「帝国議会開設130年」を天皇出席の国会で祝う異常

2020年11月30日 | 天皇制と憲法

    
 第1回帝国議会開院式(1890年11月29日)から130年を祝う式典なるものが29日、国会内(参院本会議場)で、徳仁天皇・雅子皇后出席のもとで行われました。主権在民の日本国憲法の基本原則を何重にも蹂躙する明白な憲法違反であり、絶対に容認することはできません。

 そもそも帝国議会は、天皇睦仁(明治天皇)の「勅諭」(1881年10月)によって開設されたもの。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国憲法第1条)という天皇絶対主権の下で、帝国議会は、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」(同第5条)と位置づけられた天皇の協賛機関にすぎませんでした。

 さらに、「天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス」(同第7条)とされており、議会を開くも閉じるも解散するも天皇の思いのまま。まさに天皇の付属機関でした。

 事実、天皇は帝国議会をそのように操りました。
 「天皇は、天皇が任命し、天皇が信頼する政府に協賛するのが、議会の役目だと思いこんでいる。…議会と内閣がぬきさしならぬ対立にはいったとき、天皇はどうしたか。…にっちもさっちもいかなくなったとき、伝家の宝刀として抜くのが天皇の詔勅である」(宮地正人「政治史における天皇の機能」、『天皇と天皇制を考える』青木書店1986年所収)

 その帝国議会の「開設祝賀式典」なるものを、敗戦後憲法で「国権の最高機関」(第41条)となった国会で、各党の国会議員出席のもとに行うこと自体、現行憲法の趣旨に反しています。

 しかも、その場に天皇・皇后が出席し、最も高い位置から国会議員を見下ろす。さらに天皇は、「お言葉」なるものを発し、「決意を新たにして国民の信頼と期待に応えることを切に希望」するとして、国会議員に“新たな決意”を促す。それを受けて首相(菅義偉)が、「われわれは新しい時代の日本をつくり上げていかねばならない」と“決意表明”する。

 まさに天皇主権下の帝国議会の再現と言わねばなりません。二重三重に憲法原則が蹂躙されていることは明白です。

 この憲法違反の儀式に、日本共産党を除くすべての政党が出席し、天皇を見上げ、首(こうべ)を垂れました。これが現代日本の権力機構の実態、天皇制国家・日本の現実です。(象徴)天皇制がいかに民主主義に反するか、主権在民を蹂躙する存在であるかを白日の下に示しています。この一事をもってしても、天皇制を廃止する(憲法から天皇条項を削除する)ことが急務であることは明らかです。

 共産党が「戦前の帝国議会を踏襲した天皇中心のやり方」(29日NHK)だとして式典を欠席したことは、当たり前とはいえ、評価されます。しかし、それならなぜ同党は、天皇が出席して「お言葉」を述べる(この日と同じ位置から)国会の開会式に出席するのでしょうか。「戦前の帝国議会を踏襲した天皇中心のやり方」であることは、国会開会式もまったく同じではありませんか。

 にもかかわらず、共産党は2016年1月4日の通常国会から方針転換し、開会式に出席し始めました。これは明らかに今回の態度と矛盾し、憲法違反に加担する行為です。共産党はこの日の自らの言明に従って、国会開会式への出席をきっぱりやめねばなりません。


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国事行為「立皇嗣の礼」の3つの憲法違反

2020年11月05日 | 天皇制と憲法

    

 政府は今月8日、「立皇嗣の礼」を国事行為として強行しようとしています。秋篠宮を皇位継承順1位の皇嗣とすることを内外に宣告する儀式です。これを「国」の行事として行うことは絶対に容認できません。そこには少なくとも3つの憲法違反があります。

 第1に、政教分離の原則(第20条)違反です。

 同儀式は装束から手順まで、すべて神道にのっとって行われる宗教儀式です(写真左は徳仁天皇の「立太子の礼」1991・2・23)。これを国事行為として税金を支出することは、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」(第20条)という原則に反します。

 第2に、法の下の平等原則(第14条)に反します。

 政府が同儀式を国事行為とする“根拠”は、憲法第2条「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」に基づく皇位継承だということです。その皇室典範は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(第1条)と定めています。

 現在の天皇制は憲法でその在り方が規定されており、天皇は国の機関です。その就任(皇位継承)資格を「男系・男子」に限定していることは明白な女性差別です。「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により…差別されない」(第14条第1項)に反することは明らかです。

 第3に、重要なのは、主権在民の原則(前文)に反していることです。

 天皇が「世襲制」であることは当然のことのように思われていますが、これは根本的に問い直す必要があります(写真右は徳仁と祖父の裕仁)。「世襲」とは何でしょうか。

 「世襲制は、本来、民主主義の理念および平等原則に反するものであるが、日本国憲法は天皇制を存続させるためには必要であると考えて、世襲制を規定した」(芦部信喜『憲法』第五版、岩波書店2011年)のです。

 それは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)を大原則とした大日本帝国憲法を継承するためです。なぜなら、「「萬世一系」は…純粋血脈上の意味で「世襲のもの」として存続することができてきた」(奥平康弘『「萬世一系」の研究(下)』岩波現代文庫2017年)からです。

 「世襲制」は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、すなわち天皇主権と一体不可分です。それは「一般的に「君主制の標識は世襲制にある」といわれる」(中村政則氏「戦前天皇制と戦後天皇制」、歴史学研究会編『天皇と天皇制を考える』青木書店1988年所収)ことからも明白です。

 ここで銘記しなければならないのは、「国民主権の観念は、本来、君主主権との対抗関係の下で生成し、主張されてきたもので、君主主権であることは国民主権ではなく、国民主権であることは君主主権ではない、という相反する関係にある」(芦部信喜、前掲書)ことです。

 日本国憲法は「万世一系」の天皇制を残すために「世襲制」を明記しました(第2条)。しかし、それは本来、国民主権とは「相反」します。ここに、現行憲法の根本的矛盾があります。「立皇嗣の礼」の裏にはこの根本矛盾が隠されていることを見抜く必要があります。

 この根本矛盾はどうすれば解消できるか。国民主権の原則を放棄しない限り、方法は1つしかありません。天皇の「世襲制」を廃止することです。しかし「世襲制」を廃しては天皇制は存続し得ません。すなわち、主権在民の原則を守るためには、憲法から「象徴天皇制」(第1章)を削除する以外ないのです。


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国政(外交)左右する「天皇会見1カ月ルール」

2020年03月24日 | 天皇制と憲法

      
 新型コロナ問題に報道が集中する中であまり注目されませんでしたが、見過ごすことができないことがありました。天皇(制)が国政(外交政策)を左右した重大な出来事です。

 昨年6月、安倍晋三首相と中国の習近平主席が会談した際、習氏がことし4月中にも国賓として初来日することで同意しました。日中双方にとってことしの重要な外交になるはずでした。

 その訪日計画は、3月5日に「延期」と発表されました。「新型コロナ」のためですが、注目されるのはその決定・発表の時期です。
 「4月中」の訪日計画の延期が3月の初めに早々と決定されたのです。延期の判断はコロナの感染状況をみながら直前に行ってもよかったはずです。たとえば、天皇・皇后は4月中にもイギリスを訪問する計画でしたが、その「延期」が発表されたのは3月19日です。

 習氏の「訪日延期」も今月下旬の決定でもよかったはずです。が、そうはいかない理由がありました。少なくとも「1カ月前」には実施か延期かを決める必要があるのです。「天皇との会見」のためです。

 「外国要人が国賓として日本を訪れる場合、宮内庁の慣行に基づき1カ月前までに天皇陛下との会見日程を確定させなければならない。…宮内庁の1カ月ルール』と呼ばれる慣行は、同庁と外務省の間の取り決め。これに基づき外務省は、外国要人の天皇との会見要請を、原則として希望日の1カ月前までに出すこととしている」(3日付中国新聞=共同)(写真はトランプ大統領、フランシスコ法王と会見する徳仁天皇)

 この「慣行」がいつ、なぜ生まれたのか、なぜ「1カ月」なのかはわかりませんが、いかなる理由・経過があろうと、これはおかしな話です。

 日本国憲法は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(第4条)と明確に規定しています。その「国事行為」は第6条と第7条で計12項目挙げられていますが、この中に「国賓との会見」はありません。拡大解釈できるような項目もありません。強いて言えば第7条第10項の「儀式を行うこと」ですが、「国賓との会見」を「儀式」というのも無理な話です。

 つまり天皇と外国の国賓の会見は、憲法が規定する天皇が行いうる行為ではないのです。いわば天皇の私的行為です。しかし、国賓の外国要人にとっては天皇との会見は重要な政治的行為とされています。したがって天皇が外国の国賓と会見することは、天皇による国政(外交)への関与となる疑いが濃厚です。これは憲法第4条に反するものです。

 しかも、憲法上疑義のあるその「国賓との会見」に「1カ月ルール」なるものを設定し、外交日程に影響を及ぼすことは、天皇が政府の上に立つ存在であることを示すものであり、国民主権の原則にてらして二重に問題です。

 こうした重大な問題を含む「1カ月ルール」なるものに対し、どの政党、メディアも異議を唱えず容認していことは極めて異常です。

 百歩譲って現行憲法の「象徴天皇制」を当面認めるとしても、「1カ月ルール」を含む天皇の「国賓との会見」は直ちに廃止すべきです。


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戦後「象徴天皇制」の「天皇在位」に憲法上疑義

2019年09月03日 | 天皇制と憲法

     

 天皇裕仁の「拝謁記」(田島道治初代宮内庁長官メモ、8月19日にNHKが一部を公表)に対してはさまざまな論評が行われましたが、その中で特に注目されたのは、小林武氏(沖縄大客員教授、憲法学)の次の指摘です。

 「新憲法の第1条は、『主権の存する日本国民の総意に基づいて』新しい天皇を『決定する』としているのであるから、国民による天皇選任の手続きを探るべきではなかったか。新憲法への理解も天皇としての戦争責任を果たす意思もない人物がそのまま、当然のごとくに天皇の地位に就き続けたことは、今なお問題にすべきことであると思う」(8月28日付琉球新報)

 以前「天皇代替わり」にあたって、憲法第1条にもとづいて、「新天皇の信任を問う国民投票を実施すべきだ」と書きましたが(2月19日のブログ)、小林氏の指摘はそれに通じます。

 先のブログでも紹介したように、この考えはけっして特異なものではありません。

 例えば、色川大吉氏(歴史学)は、「皇室典範によると、皇太子が即日践祚して位につくことになっていますが、厳密にいうと、憲法第一条によって本当は主権者たる国民の信任を得なければならないのです。…つまり、国民の総意に基づかなければ日本国の天皇になれない」(「天皇制イデオロギーと民衆のメンタリティー」、『沖縄・天皇制への逆光』社会評論社1988年所収)と指摘しています。

 また、憲法学者の小林直樹氏(東大教授=当時)も、「日本国憲法は、象徴としての天皇の地位を、主権者たる国民の『総意』にかかわらしめた。…憲法一条のその規定からすれば、国民の意思いかんによって天皇制の廃止も存続も自由に決められるのである。…そのためには、憲法の改正は必要ではなく、さし当たり国民投票法の制定をもって足りるはずである」(「現代天皇制論序説」、「法律時報」1976年4月号所収)と、国民投票による天皇制廃止の可能性を指摘しています。

  同じ敗戦国でもイタリアは、1946年6月に「王制か共和制か」を問う国民投票を行い、共和制支持54%、王制支持46%という結果に基づいて、王制を廃止しました。

 「拝謁記」であらためて浮き彫りになった裕仁の新憲法への無理解、戦争責任回避の無責任から、裕仁が新憲法制定後も天皇に居座り続けたことに小林武氏が大きな疑問を提示しているのはきわめて妥当です。

 小林武氏の論考でさらに注目されるのは、この裕仁在位疑義の問題はけっして過去のことではなく「今なお問題にすべきこと」だと指摘していることです。

 裕仁に続いて天皇になった明仁、そして徳仁は、いずれも「世襲」によってその地位を継承したものです。裕仁の天皇在位(継続)に疑義があるなら、明仁、徳仁のそれにも疑義があるのは当然です。
 小林武氏の指摘は(自身は明言していませんが)、現在の徳仁天皇の在位に対する疑義・異議申し立てでもあります。換言すれば、今日に続く戦後「象徴天皇制」は憲法(第1条)上疑義がある、憲法に反している疑いが濃厚だということです。

  この指摘はきわめて重要です。たとえば日本共産党は、憲法の「全条項を守る」という立場から「憲法上の制度である天皇に対して儀礼的な敬意を払うのは当然」(志位和夫委員長、6月4日付「しんぶん赤旗」)として徳仁即位の国会「賀詞」に賛成しましたが、徳仁の即位自体に憲法上疑義があるとする小林氏の指摘を同党はどう聞くのでしょうか。

 裕仁―明仁―徳仁と引き継がれてきた「象徴天皇制」は、憲法(第1条)に照らして正当なのか。検討しなければならない重大問題です。


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