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地場・旬・自給

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直播き稲が何かに食べられている。

2022-12-17 04:43:44 | 楽観農園



 12月3日播種。二番田んぼ一週間経った10日に撮影。稲の先の露が稲野根の活動を示している。それは田植えした稲でも同じで、活着した稲は葉先に露を宿すようになる。3粒づつ播いて下さいという支持で、6粒播いたことになる。

 のぼたん農園の直播きの稲は播種して一週間目で発芽した。こんな感じで半分位が出てきたかも知れない。あと一週間の間にどれだけ発芽して、どれだけ消えてゆくかが問題となる。石垣では5日で発芽すると考えていたのだが、実際には7日かかった。

 7日間と予測よりも遅れたのは、雨続きで余りに天候が悪かったのだ。雨が悪いと言うより、雨で水が田んぼから引かなかったことが、少し遅れた理由だと思う。7日間の間雨の降らない日はなかった。日照はある程度在ったのだが、雨が降り田んぼに水は溜まり続けた。

 田んぼの排水は完全にして、入水は止めているのだが、それでも田んぼにはどうしても水が溜まる。だんだん不安になってきたのだが、それで一週間目の10日に成って何とか発芽してくれた。発芽が遅れたもう一つの理由がある。

 種の播種が少し深かったと思われる。種は泥の中に埋めなくても良いのだが、きちっと指示をしなかったので、種を蒔くのだから土の中に埋め込むものだという先入観で、随分奥に押し込んだ人も居たようだ。指示しなかった私が悪かった。

 それでも半分ぐらい出てきたかなと言うところで、突然苗が何者かに食べられ始めた。最初は鳥かと思ったのだが、足跡がない。ネズミでもない。そのうち種を食べて倒される苗がどんどん増えてきてしまった。どうも虫である。苗代の苗が、0番、1番、2番まではすべて食べられてしまった。

 網で覆ってあるし、中が食べられるはずがないのだが、足跡もないまますべての発芽した苗が倒れている。虫と考えるほか無い。なかなか石垣の条件は厳しい物がある。どんな虫なのかは分からないが、今年は直播きを止めて、苗を作り手植えにするほかない。

 溜め池に近い当たりが食害がひどい。溜め池と関係のあることなのだろうか。溜め池に何か食害する虫がいて、ため池から出てきて食べているのか。あるいは足跡を付けないような鳥がいるのか。と言っても網の中に入るわけがないし。

 一つだけの原因ではないのかも知れない。鳥に食べられているものも在るし、虫に食べられているところもあるのかも知れない。いくらか残っている苗を、いくつかの田んぼに集めてみれば、何カ所かは田んぼが残るかも知れない。

 苗箱方式にする。苗箱に穴あきトンネルビニールを使うことにする。ぼかしを作り苗箱土を作ることにする。苗土はどこかで赤土を買う方が良いかもしれない。それによみがえりを混ぜて、混ぜてしばらく発酵させておく。有機で使える良い苗土が売られていれば、それを買うのも考えたい。

 浸種を1月16日に行い、21日か22日に、苗箱に播種する。苗箱は田んぼの中一カ所と畑に一カ所に作る。2月10日線引き、11日12日を田植えの予定にする。苗土作りをもう始めなければならない。赤土と米ぬかを手に入れるところからになる。

 今年は苗土を購入した方が良いかもしれない。もしのぼたん農園の土に原因があれば、まずいことになる。そういうことは無いとは思うが、用心をした方が良いような気がする。土だとすれば、0番田んぼの土壌を掘ってよく観察してみる必要もありそうだ。

 苗箱は30箱はいるだろう。小田原でやってみて成功した、普通の野菜の苗箱にしたい。半分は3番当たりに苗代を作り、そこに置く。畑に置いて見て管理するものもやってみたい。雨が降りすぎたことも発芽に影響があったと言うことも考えて、穴あきビニールをかけた雨の当たらない場所での管理も試したい。

 いずれにしても、石垣の条件がまだまだ分からない。失敗を繰り返していることは、経験を積んでいると考えて、次に進むためには良いことが起きたくらいに考える。ともかく土壌に何か虫でもいるとすれば、直播きは難しいと言うことだけはよく分かった。

 
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納豆の作り方

2022-12-16 05:20:10 | 自給


 納豆は毎朝食べる。納豆は自分で作ったものを食べている。自分で作るというのは、大豆を自分で栽培し、収穫した大豆で納豆を作ると言うことだ。大豆は小田原で作った小糸在来種である。石垣では小糸在来を育てることは出来なかった。

 品種は重要なことになる。小田原で作るのであれば、小糸在来種が一番美味しい。色々の大豆を栽培して試した上で分かった結論である。石垣でも石垣にあった大豆の品種を探したいと思っている。今度、台湾で買ってきたいと考えている。

 自分で栽培してと偉そうに書いてしまったが、今は、渡部さんが作ってくれたというのが本当のところだ。小田原の家の庭で栽培している。いくらか協力はさせてもらっている。大豆の会の作業もいくらかは参加している。しかし、先日味噌造りの参加募集の案内では、麹造りに参加しない人は参加できないと書いてあった。麹造りは日程が合わない。どうしようか。

 最近、その納豆の作り方を少し変えてみたら、とても粘りのある美味しい納豆が出来た。美味しい納豆を作るコツがわかった。先ずは美味しい大豆を使うことだ。これは当たり前でコツではないか。市販の大豆や納豆では味わえない素晴らしい味わいの物になる。

 納豆作りのコツは大豆を柔らかくなるまで、蒸すと言うことだった。米麹を作るときにお米は蒸す。大豆も同じではないかと考えた。煮大豆のように、ベタベタな大豆では中まで納豆菌が浸透して行かないのではないかと推測した。

 見た目からしても煮た大豆では水分が多すぎる。しかも水分に大豆の味が出てしまう。煮汁が無いように煮るのは難しい。まず大豆は24時間水に漬けておく。米麹と一緒の考えで、蒸す大豆は良く水を切る。乾いたタオルでくるんで表面にある水を完全に取り去る。

 大豆を蒸すのは電気高圧釜で蒸している。一時間も蒸した。さすがにベトベトしない柔らかい大豆になった。色は少し茶色くなって納豆色になる。この大豆は特に冷やすようなことはなく、熱い状態で使う。納豆菌というものは素晴らしい能力があり、120度でも死ぬことがない。と同時にマイナス120度でも死なない。

 大豆が熱いまま使う事ができるから、雑菌が入ることがない。養鶏をやっていたときに、納豆菌で発酵させると、80度近くまで温度が上がる。それで大抵の雑菌を殺すことが出来た。ものが腐ると言うことが無くなるのだ。

 熱い大豆に市販の納豆を少量混ぜる。少量でじゅぶんである。まず少量の大豆を取り出して、熱湯をかけてよく混ぜる。パラパラになったところで、熱い大豆に混ぜる。よく混ぜたならば牛乳パックに入れる。牛乳パックに入れるのは、ヨーグルトメーカーで納豆を作っているからで、本当は良い形ではない。

 そんなことをしたらヨーグルトを作るときにおかしくならないかと言うことだが、そんな経験はない。牛乳は乳酸発酵しかし無い。ヨーグルトメーカーで24時間発酵させる。体温より少し高い温めのお風呂の40度で暖めておけば良いのだが、別に温度はそれほど厳密でなくとも大丈夫だ。

 クーラーボックスにお湯を入れたペットボトルを入れて、そこに平らな容器に入れた蒸し大豆と納豆を混ぜたものを入れる。ペットボトルは冷めるので入れ替えたら良い。温度計を入れておき、どの程度温度になるかを確認しておくと良い。感じとして温めのお風呂で大丈夫だ。保温状態のお風呂に発泡スチロールの箱を浮かせて作ったこともあるが大丈夫だった。

 納豆菌の発酵は酸素が必要なので、藁で包むような形が一番良い。平らなタッパーのような容器で作るのがよいが、蓋はしない。網で出来た容器があればそこに入れた方が良い。スレンレスのざるは良さそうなので今度やってみる。

 酸素を供給するために8時間後、16時間後と2回ほどかき混ぜる必要がある。いわば米麹の手入れと同じ考えである。米麹よりも大雑把な作業で美味しい発酵が進んだものが出来る。余り濃厚な発酵はいやという人は、温度を下げ、時間を短縮すれば良い。

 発酵が終われば、冷蔵庫で保存をする。なぜか朝食べる。納豆は自分で作ったものを食べている。ここで自分で作るというのは、大豆を自分で栽培し、収穫した大豆で納豆を作ると言うことだ。小田原で作った小糸在来種である。品種は重要なことになる。小田原で作るのであれば、小糸在来種が一番美味しい。散々試した上で分かった結論。

 自分で栽培してと偉そうに書いてしまったが、今は、渡部さんが作ってくれたというのが正直なところだ。いくらか協力はさせてもらっている。大豆の会の作業もいくらかは参加している。しかし、先日味噌造りの参加募集の案内では、麹造りに参加しない人は参加できないと書いてあった。麹造りは日程が合わない。どうしようか。

 最近、その納豆の作り方を少し変えてみたら、とても粘りのある美味しい納豆が出来た。美味しい納豆を作るコツがわかった。先ずは美味しい大豆を使うことだ。これは当たり前でコツではないか。市販の大豆や納豆では味わえない素晴らしい味わいの物になる。

 納豆作りのコツは大豆を柔らかくなるまで、蒸すと言うことだった。米麹を作るときにお米は蒸す。大豆も同じではないかと考えた。煮大豆のように、ベタベタな大豆では中まで納豆菌が浸透して行かないのではないかと推測した。

 見た目からしても煮た大豆では水分が多すぎる。しかも水分に大豆の味が出てしまう。煮汁が無いように煮るのは難しい。まず大豆は24時間水に漬けておく。米麹と一緒の考えで、蒸す大豆は良く水を切る。乾いたタオルでくるんで表面にある水を完全に取り去る。

 大豆を蒸すのは電気高圧釜で蒸している。一時間も蒸した。さすがにベトベトしない柔らかい大豆になった。色は少し茶色くなって納豆色になる。この大豆は特に冷やすようなことはなく、熱い状態で使う。納豆菌というものは素晴らしい能力があり、120度でも死ぬことがない。と同時にマイナス120度でも死なない。

 大豆が熱いまま使う事ができるから、雑菌が入ることがない。養鶏をやっていたときに、納豆菌で発酵させると、80度近くまで温度が上がる。それで大抵の雑菌を殺すことが出来た。ものが腐ると言うことが無くなるのだ。

 熱い大豆に市販の納豆を少量混ぜる。少量でじゅぶんである。まず少量の大豆を取り出して、熱湯をかけてよく混ぜる。パラパラになったところで、熱い大豆に混ぜる。よく混ぜたならば牛乳パックに入れる。牛乳パックに入れるのは、ヨーグルトメーカーで納豆を作っているからで、本当は良い形ではない。

 そんなことをしたらヨーグルトを作るときにおかしくならないかと言うことだが、そんな経験はない。牛乳は乳酸発酵しかし無い。ヨーグルトメーカーで24時間発酵させる。体温より少し高い温めのお風呂の40度で暖めておけば良いのだが、別に温度はそれほど厳密でなくとも大丈夫だ。

 クーラーボックスにお湯を入れたペットボトルを入れて、そこに平らな容器に入れた蒸し大豆と納豆を混ぜたものを入れる。ペットボトルは冷めるので入れ替えたら良い。温度計を入れておき、どの程度温度になるかを確認しておくと良い。感じとして温めのお風呂で大丈夫だ。保温状態のお風呂に発泡スチロールの箱を浮かせて作ったこともあるが大丈夫だった。

 納豆菌の発酵は酸素が必要なので、藁で包むような形が一番良い。平らなタッパーのような容器で作るのがよいが、蓋はしない。網で出来た容器があればそこに入れた方が良い。スレンレスのざるは良さそうなので今度やってみる。

 酸素を供給するために8時間後、16時間後と2回ほどかき混ぜる必要がある。いわば米麹の手入れと同じ考えである。米麹よりも大雑把な作業で美味しい発酵が進んだものが出来る。余り濃厚な発酵はいやという人は、温度を下げ、時間を短縮すれば良い。

 発酵が終われば、冷蔵庫で保存をする。一日冷蔵保存したぐらいが一番味が良くなる。冷蔵庫ならば美味しい味が一週間は続く。何故発酵食品なのに冷蔵庫保存をするかと言えば、納豆菌は常温では発酵を続けていて、味が変化をしていく。

 食べれなくなるわけではないので、それぞれが一番好実の味のところで食べれば良いのだが、普通は製造してから冷蔵1日目から一週間の間がいいようだ。発酵食品の味はそれぞれ作る人が好みで家の味を味わうものだ。
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動禅における禅定について

2022-12-15 04:29:20 | 暮らし


 禅の修行は、禅定を目指すことになる。心を静めて一つに集中して乱れない状態が禅定である。人間である以上心を空白にすることは出来ない。脳の動きは止まらない。もう60年も禅をわずかずつだが行ってきた。無念無想の状態という経験は無いと言うほか無い。

 これは能力と努力不足と言うことがあるのは分かる。ただ人間である以上当たり前の事だが常に頭の中を思考が回っている。様々な想念が浮んでは消えてゆく状態が当たり前の脳の状態である。寝ていても脳は活動している。生きている間は脳が停止することはない。だから死ぬことを脳死というのだろう。

 ある意味の無念無想の自己催眠状態はあるだろうが、そんな状態が禅定とは考えられない。禅定は静かではあるが、正常でに張り詰めた精神状態であり、その中で精神に乱れが起きないのだろう。それはある意味何かに集中しているときのことなのだろう。坐禅の状態でない場面であれば、そのような状態の経験はいくらでもある。ただ座っていて、心と向かい合い、無念無想である事に集中することが出来ないのだ。

 脳の動きは思考が流れ続け止まるところがない。無念無想の状態とは空の状態ではないかと思われる。体験がないので何とも言えないところだが、存在が空白になる状態を一度は体験したいものだと思っている。それに似た状態はこれかなと思うところが無いわけではないが、実際確かな確証を得たことはない。

 ところが禅宗の僧侶の方が、まるで瞑想法の影響を受けたように、空の状態は、頭も身体も解きほぐされ、リラックシして、呆然としたような状態であると書いている人のものを読んだ。温泉につかって極楽極楽となっているようなときの状態だというのだ。

 人がそう考えるのはかってなことであるが、私の考える禅定はまったくその逆のものなのだ。命がけの緊張をして到達する静寂である。リラックスどころではないし、呆然としているようなのんびりした物ではない。のんびり心を解放するというのは瞑想の方の話で、禅はその対極になるような極限といえるように緊張している状態で到達できるものである。

 もちろんどちらが正しいと言っているわけでは無い。目的が違うのだ。瞑想はどちらかと言えば、慌ただしい日常で疲れた心を回復させるためのリラックス方法というのが普通の説明のようだ。ところが禅は修行であり、自分のすべてを、自分を修行の世界に投げ込まない限り無意味な世界なのだ。

 道元を読んでいると、あまりに深刻な物であって、お風呂につかってボーとしているというような脳の空白とはまるで違う。臨済禅では、考案という物があるらしい。考案をとことん考えることで、他の考えが浮ばない状態を作るのではないかと思う。

 ところが道元は考案自体も否定する。只管打坐に徹するだけなのだ。只管打坐すれば悟ることが出来るというような、目的を持つことすら否定している。悟ることも意識しない。悟ったところで只管打坐である。禅そのものを続ける生き様だけが、意味がある行為となる。

 正法眼蔵のこの解釈は間違っているのかも知れないが、難解で読解できないまま、今のところそのように感じて読んでいる。私の勝手な動禅や画禅はどうなるのか。最近に至って、臨済禅の考案のようなものと近い考え方だと思うようになった。重要なことは心を一つにして、深い集中をする。そして揺るぎない静寂な状態に入ることである。

 動禅では動きと呼吸に集中してゆく。正しい動きは極めて難しくて出来ない。その出来ない動きを出来るように求めてひたすら集中する。だから、私の動禅は惚け防止になるのだ。太極拳が卓球の次に惚け防止になるというのは、脳が緊張して、身体動作に集中してゆくからである。呆然としているだけであれば、呆けてしまう。

 指先の動き一つ間違いが無いような形にしなければならない。適当な形は一切無い。目標は能舞台のような精神の集中した動きである。琉球舞踊にも同じ物がある。手を静かに挙げるだけで、精神の集中が見えるかのような動きである。まだまだ初心であるが、動きに集中が現われるように努力している。

 しかもその正しい形が正しい速度で進む。毎朝行う動禅はできるだけゆっくり行うが、最近は24式太極拳部分で13分のものだが、誤差は10秒無い。今は太鼓の合図が6分ずつあるので何とかなっている。いつか太鼓なしでも出来るようになりたい。本山の坐禅でも鐘は鳴っている。

 空手の型がオリンピック種目にあった。喜友名諒 武道館で魅せた世界一の演武 はその緊張感が伝わる動きであった。あの緊張感のある動作のままに、可能な限りゆっくりにするのが動禅の動きである。重心をできる限り低くする。上半身は上下にゆれない。

 動作はまるで自然に動いているかのように、筋力をかけないで動いているようでありたい。ムーンウオークが参考になる。身体は移動しているのだが、動かしているのではない。そう見えるくらいに自然に静かに移動してゆくような動きでありたい。

 実は絵を描いている時は。かなり近い禅定の状態のような気がしている。たぶん違うのではないかと思いながら、そうかも知れない。と長い間空想してきた。絵に反応しようとしているだけで、何かを考えている状態ではない。脳を空白にして、画面に反応をしやすいようにしている。そして精神は緊張して集中している。

 だから、思いもしないことを手が行っていることが良くある。なんでこんなことをしたのだろうと、画面を見て思うことがままある。後でどうやってそのように、描いたのかが分からない。そうだああやろう、と決めて筆に絵の具をつける。水の加減を調整して、さあ塗ると言うときに、手が違うところにゆき、塗り始めてしまこともままある。

 まったく頭の私の予想外のことをしてしまうのだが、それはそれでいいと受け入れて、手に任せて絵を描いている。ある意味困ることではあるが、これでどうなるのか進んでみようと考えている。結果としての絵が眼前にあるだけである。今はこのまま行けば良いといえる。

 動禅の効果が絵に出ている気がしているのだ。絵を向かい合う気持ちや、絵を描くときの心の置き所が、少し定まってきた気がしている。禅定の状態に以前よりは近づいた気がしているのだ。いい絵を描こうという欲が無くなった。現われてくる絵にまかせていられる。

 動禅はまったく初歩段階なのだが、気持ちの置き所だけは少しずつ感じている。行くべき方角だけは見えてきた。後は継続である。能楽が一子相伝の物ということは理解できる。どれほど動きが素晴らしくとも、生活すべてから受け継がなければ身につかないような物があると言うことだろう。

 欧州少林寺の释恒義師 の八段錦が一つの目標になるものだと思う。動きが素晴らしい。どの動きにも集中が現われている。この人の出ている映像を競べて驚いたのは、年々動きに精神の深まりが現われてくるようになっている。まだ若い人だから、どこまで行くのか興味深い物がある。

 
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生まれてきたこと、死んでゆくこと

2022-12-14 04:33:40 | 暮らし


 確かに生まれてのだと思う。そして毎日が死んでゆくことに向かっていると思う。そして、73歳の今日の一日を生きて行く。これ以上無いくらいに自分の命を生きたいと思う。失敗ばかりの日々であるが、失敗が次の前に進むための材料だと、できる限り前向きに考えている。

 具体的に昨日一日のことを書いてみる。精一杯のことであっただろうか。朝起きてブログを書く。そして動禅を行う。食事を食べ、のぼたん農園に行き水牛の世話をする。10時になったらバガスを石垣製糖に行ってもらってくる。そして麦畑にする予定地に播く。12時過ぎまでに軽トラ3台をもらう。

 バガスというのはサトウキビを砂糖にする時に出る絞りかすである。バガスはまだ見たこともない材料であったが、以前から期待していた材料である。二年前くらいから野済みにしたままのバガスをもらった。バガスを堆肥にした製品が売られているくらいだからこれをかなり量入れれば良い土壌になりそうだ。

 軽トラダンプで3回運んだ。上手く落とすことが出来なかった。ダンプ作業がまだ未熟である。できるだけちらばせたかったが出来なかった。跡でシャベルで広げればと思ったが、これがかなり大変で余りやれなかった。後でやらなければならない。

 石垣島の腐食の不足している土壌にはバガスを入れることで、腐植質が増加できるのではないかと期待している。以前からやってみたいとは考えていたのだが、今回お願いしたらいただけることになったのだ。置き場に困るほど在るようだから、今後いくらでももらえそうだった。

 土をよくする。畑をよくする。そして良い作物を作る。どのように畑に入れてゆけば良いか、実に興味深い。小田原であればソバカスを使っている。これがバガスで代用できれば、土が良くなること間違いが無い。新しいことを計画して実践してみる。これが限りなくおもしろいことなのだ。

 午後3時頃からトラックターで小麦畑を耕した。石を拾って畑に出しては耕した。何とかトラックターでバガスを広げられないかと試みたが余り出来なかった。今度またやってみる。ロータリーを逆回転しながら、進むといくらか広がる。それを終えて4時半頃水牛をもう一度見て家に戻った。

 朝のことにに話を戻せば、ブログをまず書く。6時頃文章を書き終われば、動禅を行う。動禅では意識を集中して行うことにしている。神経を研ぎ澄まし、ゆっくりとした動作が正確に行われるようにしている。動きだけを考えるから、この50分は他のことが入る余地がない。この集中がとても大切な気がしている。

 昼食を食べて、午後には一枚の絵を描いた。花鳥山の一本杉を描いた。その後また小麦畑の石拾いをしながら、耕耘をした。農作業の一休みで絵の続きを描いた。絵は思いもよらない物になったが、一応出来たようだ。こうしてこれ以上はないという一日を日々生きることが出来る。

 その日々に感謝している。つまり生まれてきたことはありがたいことである。こんな日々を送ることが出来るという幸運である。死ぬ日までできる限りの日々をこうして送りたい。失敗ばかりしているわけだが、それを材料にして、努力して道を見付けてゆきたいとおもう。

 心配も山ほど在る。石垣島にミサイル基地が出来てしまう。止める努力はしてきたが、十分でなかったのだろう。もっとやることはあった。石垣島に暮らす当事者として努力足りなかったのだと、反省ばかりである。人殺しに加担したようなものだ。後々の人に謝らなければならない。

 直播きの発芽がかなり悪かった。そしてやっと出た、今度は芽を鳥が食べていることが分かった。悪天候の可能性も考えて対策をすべきだった。鳥対策が甘かった。今になって反省している。後悔遅し。またみんなに迷惑をかけた。後悔の多い毎日である。ここには書く気にもなれない申し訳のないことも多々ある。

 のぼたん農園の冒険は、まず1年目に土木作業をあらまし行った。これは予定通りに来た。二年目は土壌を良くしてゆくことだ。畑は腐食を増やす。今回のバガスもその一つだ。田んぼの畑には向日葵緑肥である。果樹園にはチップを蒔くつもりだ。

 田んぼはアカウキクサだ。溜め池から流れ出る水が良くなり、どの田んぼにもアカウキクサが増えれば、全体として腐植の増加が期待できる。抑草効果も期待できる。腐植の増やす方法の確立が二年目の課題だろう。考えただけでもわくわくしてくる。

 たんぼの畦際に溝を掘る方が良いという干川さんの指摘は正しいようだ。溝を掘り、田んぼの外に水を流す方法を考える必要がある。手作業なのでなかなか大変になるが、すこしづつやってみよう。改善してゆけば、必ず達成できるはずだ。

 ダメでもいいじゃん。口癖である。ダメでもいいじゃん。甲州弁である。どれほど一生懸命であっても結果は失敗が多い。それを受け入れるほか無い。受け入れて、もう一度挑戦する元気を出す。諦めればそこで終わる。粘り強く継続する。必ず出来るようになるという希望は見えている。

 心配なのは死ぬまでにのぼたん農園が出来るかなのだ。死ぬまでにまともな絵が描けるかである。何時までも死なないのであれば、どんなことでも必ず到達するきでいる。しかし、80を過ぎれば、農作業は難しくなるだろう。絵の法は100でも描いている人も居る。それまでに、絵が自分の表現になればと言うと焦りの気持ちがある。

 先の長い冒険である。一緒に冒険に出発したみんなには船長として、成果の少ない冒険の途上で申し訳がない。成果が出るには5年かかるというのが当初からのもくろみなので、許してもらいたい。試行錯誤しなければ、農の冒険は成果が出ない物なのだ。

 こんな試行錯誤の日々である。それが成果のある未来に繋がると思っている。意味ある結果を期待する性格である。ゴッホは立派な絵を描くと言うことで、人のためになる人間に成れると考えた。ゴッホなりに立派な絵を描いた。しかし周囲はその絵の素晴らしさを理解できなかった。

 ゴッホは無価値な絵しか描けなかったと考えてしまい、自分を嘆き、自分の価値を見失ってしまった。ゴッホは実は十分ゴッホの絵を描いていたのに、世間の評価で、自分を見失った。他者と自分を比べて考えたところに問題があった。

 私にはそれはないだろう。世間は余り問題にしない自己満足型の人間である。今はまだ死の身近な感じが無いから、感覚としては分からないことだが、十二分に生きたと思えれば、死ぬことを受け入れることが出来るのではないかと思っている。

 今のところすべてが途中で、まだまだ死ぬわけにはいかない。道元禅師も正法眼蔵を100巻まで書くつもりだったと言うから、途中で終わったわけだ。果たして途中で終わってしまい、書き残したことが多いのだろうか。それでもたぶん残念さはなかったと思う。死ぬことを明らかにしていた方だ。

 生まれてきたことは幸運でありがたいことであった。両親に恵まれたと言うことが一番の恩である。好きなことだけをやりながら生きてこられた。生きる才覚という意味では自信があった。やりたいことをやっていれば、生きていけると考えてその通りになった。

 そして、死んでゆくことを考える歳になった。70までは助走のようなものだ。これから何年生きるかは分からないが、70からやることが自分の総決算になる。のぼたん農園であり、絵である。総決算の30年と考えたわけだ。さあどうなることだろうか。
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沖縄警察官による高校生警棒殴打失明事件

2022-12-13 04:11:07 | Peace Cafe


 「警邏中の警察官による高校生警棒殴打失明事件」沖縄県警察本部の30歳の男性巡査は、ことし1月27日の未明、沖縄市内を1人でパトロール中、17歳の男子高校生が運転するバイクを止めようとつかみかかり、持っていた警棒を接触させ右目が失明するなどの大けがをさせたとして今月2日、特別公務員暴行陵虐傷害の疑いで書類送検されました。ーーーNHK 

 沖縄県警の対応のまずさが目立つ事件である。何故、高校生は警棒で殴られて、失明しなければならなかったのか。この事件で該当の警察官は告訴されているので、高校生に対して過剰な暴力を振るったことで裁判にかけられることになっている。

 沖縄県警は、加害警察官が少年に職務質問するためにバイクの停止を求めたが、少年が止まらずに向かってきたと説明している。しかし、少年は、加害警察官から停止を求められていません。突然物陰から出てきた加害警察官に、声をかけられることもなく、突然棒のようなもので殴られたと主張している。

 少年は暴走族などではない普通の高校生であった。少年は、ヘルメットを着用して、路地を普通に走行していたに過ぎず、そもそも職務質問が必要な状況でもなかった。 また、沖縄県警は、加害警察官が右手に警棒を持ちながら停止を求め、左手でバイクや、少年の身体に触れたと説明している。

 少年は、加害警察官に突然掴みかかられたという認識だった。今のところ 沖縄県警は、加害警察官が少年に職務質問をするため停止を求めたが止まらなかったために、警察官が少年に掴みかかった、という行為を故意の暴行と認定している。少年は、突然物陰から出てきた加害警察官に殴られたのであり、状況判断を誤った警察官による、故意の暴行があり、少年を失明させた事件と言うのが今のところ判断できる。

 ところがそれらの事件を警察はごまかそうとしてきた。当該の警察官は宮崎県警から『特別出向』で赴任している立場だった。そのことが判断を狂わせた可能性がある。以前にも出向の辺野古警備の沖縄からの出向警察官が暴言を吐いた事件が問題になった。

 『ないちゃー(内地人)』が『うちなーんちゅ(沖縄人)』に重傷を負わせたという事実が明るみに出た時の世間の反応を、沖縄警察は相当気にかけていたようです」 と言われている。はっきりしているのは警察はその後の暴動がなければ、この事件は明るみに出なかったと言うことである。

 この警察官はこの事件の報告をしていない。自分が腕にケガをしているにもかかわらず、その場をはなれたのだ。自分のケガを報告すれば、自分のとった行動が明らかになるので、ごまかそうとしたと思われる。救急車は被害者少年が連絡してきたものだ。そこから事件としての調査が始まる。その後この警察官は取り調べもされずに、そのまま警邏勤務をしていたというのだ。

 少年のどこかに不審な点があったとするのであれば、それをまず明確にした上で少年と争うべきである。警察は少年に謝罪したにもかかわらず、その謝罪の理由が、当人とその家族への状況説明と、記者会見での状況説明が違っていると少年の弁護士は記者会見しているのだ。

 そもそも警察の記者会見自体が、発生から9カ月以上たって初めてされた誤解を呼ぶ謝罪 会見だったのだ。身内を正当化できる可能性を9ヶ月探ったが、見つからなかった結果、警官を処分し謝罪をせざる得なかったに過ぎない。誤るのが余りに遅すぎる。遅すぎるだけですでに謝罪の意味をなさない。

 この間、SNS上で高校生に対する差別投稿やデマが拡散された。高校生は周囲に将来への不安を口にするなど、深刻な二次被害が生まれた。 「暴走族である。ノンヘル運転。無免許運転。」等々の事実無根の誹謗中傷を受けているのだ。

 警察がすぐにも、警棒で飛びかかった警官の行為の非を認めて、謝罪していれば少年がこのような中傷を受ける必要は無かったのだ。

 何故このように警察の対応が遅れたのかと言えば、この少年への警官暴行事件がSNSを通じてすぐに拡散され、400人と言われる高校生が警察前に集まり暴動に近い状態になったからだ。そして今に成って、その暴動行為をしたという7人が書類送検されたのだ。

 警察の発表では「暴走族を警戒中の警察官がオートバイに乗った少年を制止しようと接触、少年は走り去った」「少年は接触後に単独事故を起こし、右目の眼球破裂という大けがを負った」その時点で警察官の接触と少年のけがとの因果関係は不明という説明を警察はしていたのだ。

 これが沖縄テレビ報道されてゆく。ところが、テレビ報道とは違う現場からの情報が、報道を知って、周囲で目撃した高校生が、高校生の間にこのままでは警察が事件を隠蔽しようとしていると拡散されてゆく。確かに最初の発表と、その後の警察の対応を見れば、隠蔽しようとしていたのは事実である。

 暴動がなければ、隠蔽されて終わった可能性も高い。まさか警官が職務質問のために警棒を振りかざして襲いかかるなどと言うことは考えられない。警察自身がそんな警官が居るとは思わなかったのだろう。しかもその警官は腕をケガしていたにもかかわらず報告もせずに、その後も職務を続けていたのだ。

 警官であれば、職務中に起きたケガはすぐに報告し、対処しなければならない。当たり前の事だ。ケガを報告しなかった背景には、自分の失敗をごまかしてしまおうという意識が働いていると考えて良い。簡単に言えば、暴走族の取り締まりに駆けつけたところ、バイクで走ってくる若者がいた。それでとっさに止めようと飛びかかってしまったのだろう。

 この行為が間違っていたことは後でこの警官は気付いたはずだ。バイクを実力行為で止めること自体が間違えな訳だ。そのバイクは暴走行為をしているわけでは無い。怪しいと思えば止まれと指示をして、止まらないのであれば、ナンバー、風体を確認して、本部に連絡をすべきだったのだ。落ち度があったから自ら報告をさえしなかったのだ。

 警官に警棒で殴られて、高校生が失明。警察はこれを隠蔽しようとしているという、情報が拡散広がり、隠蔽許してはならないという高校生が警察署の前に集まる。これは当然のことで、むしろそうあって欲しいぐらいのことである。この時の警察側の態度が間違っていたのだ。

 テレビ報道一時間半後に、警察署前に集まった高校生に対して、冷静に正しい情報を伝えるべきだったのだ。そして警察署長が自ら高校生の前に現われて、必ずこの間違った警官に対して厳正な処罰をすると謝罪すれば良かったのだ。それをせず、力で抑えようとした。

 高校生を含む若者達の400人もの群衆になり、暴行事件を隠蔽するなと叫んでいるのだ。この暴動になりかけた群衆に対して、警察は対抗的な実力行使の態度で取り締まろうとした。これが暴動の引き金を引いて、群衆の投石が始まったのだ。

 警察には暴動を沈静化する知恵も力も無かったのだ。むしろ、火に油を注ぐ行為の責任は、警察襲撃事件の引き金は警察側にある。暴動を沈静化すべき役割にある警察にその能力がなかった。事実は今後の裁判で明らかにすべきだ。むしろ暴動静止を出来なかった警察の責任が問われなければならないことだ。

 7人の少年の書類送検が今回行われた。7人の少年はこの暴動を引き起こした責任があるのだろうか。いくつもの警察の間違った対応が重なっている。今後裁判で明らかにしてゆくべきだ。警察は書類送検したことで、自らの誤りを公にしなければならなくなったのだ。これから始まるだろう裁判で、警察の対応ミスを明らかにしてゆく必要がある。

 今回もし暴動がなければ、高校生の失明の実態は明らかにされることはなかった。警察はごまかして終わりにしたはずだ。暴動が良いこととは思わないが、身体を張っても許しては成らない場合だって在る。その行為を違法だというのであれば、警察の隠蔽しようとした事実の違法性が問われなければならない。
 
 
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防衛費の増額の危険

2022-12-12 04:28:26 | Peace Cafe


 岸田総理大臣は中期防衛力整備計画で示す2023~27年度の5年間の防衛費の総額を「43兆円規模」とするよう指示した。そこには敵基地先制攻撃ミサイルの配備が含まれている。日本の防衛計画は専守防衛からの大きな転換になる。十分な議論がないまま行うような簡単なことではない。

 これは防衛費を国内総生産(GDP)の2%程度に増すと言うことになる。国の財政は大きな赤字状態である。借金まみれの財政再建計画中である。まったくそのめどが立たない中で大丈夫なのだろうか。財政が破綻すれば、軍備どころではなくなる。

 政治にはもう諦め気味だが、困ったことに政治の方が石垣生活を脅かしてくる。敵基地先制攻撃ミサイル配備が石垣島では行われる。こうなるとは予測して居たことだが、アメリカと本土の人間で、先島列島を防人の島にする計画である。人間の盾作戦のまさに悪魔のような計画である。

 戦争が起こるとすれば、まずミサイル基地に先制攻撃がなされるだろう。その時に先島の人間の避難方法すら計画が出来ていない。5万人はどうやってどこに行けば良いというのだろうか。飛行機で行くならば、1000便必要になる。たぶん限界を超えているかも知れないが。1日50便飛んだとしても、20日はかかる。その間に多くの住民の犠牲が出るだろう。

 船と言っても自衛隊の船は住民避難には使えない。ではどこまでどうやって逃げれば良いのだろうか。島内に避難設備など全くない。先島の住民の安全などまったく無視した、ミサイル配備が進んでいるのだ。本土とアメリカのために沖縄が犠牲になれば良いという話だ。

 石垣市長中山氏は石垣市民が命の危険にさらされる、自衛隊基地をわざわざ誘致したのだ。驚くことにその中山市長が市長に再選された。現状では自衛隊基地は市民が認めた物になっている。自分の頭にミサイルがとんでくることを石垣市長と石垣市民は望んでしまったのだ。まったく信じがたい選択である。

 腹が立つが少しは本土の人達は一安心したかも知れない。石垣島に住んでいて大丈夫ですかと笑った人まで居る。他人事なのだ。石垣島が攻撃を受けている間に逃げれば良いと考えているのだろう。そうやって時間を稼いでいれば、アメリカが反撃をしてくれるはずだ。これが岸田政権の考え方である。先島の人を除けば正解なのであろう。

 しかし、武力に対して武力で対抗できるするという考え方は必ず失敗をする。敗戦という大失敗をもう忘れてしまった。日本国憲法はその結果できた憲法である。歴史がそのことを示している。世界で起きている武力紛争や軍事侵攻が何かを解決できたかと言えば、問題を悪化したばかりである。

 ウクライナでいまも9ヶ月の長きにわたり戦闘が続いている。この戦争はクリミヤのロシア併合から始まったわけだが、そもそもはソビエト連邦の一員だったウクライナが、国家として独立したところから問題は始まっている。さらに言えば、帝政ロシアのウクライナ支配がある。根深い歴史的問題なのだ。

 その解決を武力で行うと言うことは不可能である上に、問題をより困難な状態にしている。戦争で解決できる国際問題は無い。常に問題を悪化させるのが戦争と言う武力行使である。例え勝利した国でも、必ずその恨みが帰って行くものだ。

 今日本は台湾統一問題が身近な紛争となっている。北朝鮮問題もある。分裂国家の二つが近隣諸国なのだ。これを解決することは武力によっては不可能と言うことを、大前提として考えなければならない。誰かが武力を使えば、問題はより根深い混乱した物になるばかりなのだ。

 紛争の解決のためには平和的努力以外にない。平和的努力で国際紛争を解決すると言っても、確かに実効的な方法は見当たらない。方法が見当たらないから、やらないでいいと言うことでは無いのだ。敵基地攻撃ミサイルはさらに実効性がない。中国や北朝鮮の原爆ミサイルから見れば、おもちゃのようなものだ。

 原爆には原爆で対抗しなければならないという話が必ず出てくるはずだ。武力競争が始まると言うことになる。一体これほど財政赤字の日本が中国に対抗するとなれば、北朝鮮のような国民無視の国家になると言うことだろう。こんな選択はしてはならない。

 効果が無いと見える平和外交であっても、あらゆる角度から粘り強く探求するほかないのだ。例えば、尖閣諸島を解決するために中国と外交交渉を始めるべきだ。何もやらないで、中国を非難してばかり居ても緊張関係が高まるばかりである。

 石原慎太郎がわざわざ中国との関係を緊張させるために、尖閣国有化をしたのだ。石垣市の中山市長はそれ以来の手下なのだ。ここに石垣市の土地である住所表示をした。まったく愚かな緊張を高める方法である。そうして日本を緊張させて、軍事国家を目指すという極右勢力の陰謀である。

 これだけの経済危機の中、日本は衰退の道を転げ落ちている。ここで軍事国家を目指したところで中途半端な物になるに決まっている。むしろ、日本の国防には、まず食糧確保である。食料自給率が38%の国が戦争など出来るはずもないだろう。国をしっかりした状態にするのが国防の基本だ。

 戦争などしないでも日本を締め付けることなど簡単である。中国だって食糧輸入国なのだ。中国は日本よりも輸入余力がある。まず自給率を高めることだ。現代の戦争は経済圧力から始まる。石油が輸入できなくなるのもたしかに困ることだが、食料となればそれ以上に困る。国民が餓え出せば、降伏するほかない。

 次にやるのはITの安全保障である。時に携帯電話が使えなくなっただけで、日本の社会は回らなくなる。病院のデーターが狙われて、病院が麻痺している。こんな状況なのだから、外国からITが本気で狙われたらそれだけで危ういだろう。

 そして次に怖れているのが、原発の安全性である。ロシアが盛んに原発攻撃をした。あれは恐ろしかった。原爆など落とさないでも同様な効果がある。ヤケになって原発めがけてミサイル攻撃をすれば、もう日本は終わりになるだろう。敵基地などと言っている内にすでに潜水艦から発射できるミサイルを装備しているのだ。

 ロシアを見ていると、盛んにドローン攻撃をしている。そして、病院とか、発電所とか、ダムとか、そういう生活インフラを破壊する。どこから見ても日本の防衛計画がが余りに旧態依然としたものだ。ミサイルを沢山持ったところで意味が無いと言うことを考えなくてはならない。ウクライナの武器は西側諸国が提供している。

 NATOのような友好国との幅広い連携が必要だ。小さな北欧の国でもNATOに加盟することで、ロシアに対抗しようとしている。韓国や台湾やアジア諸国と仲良くする。出来れば中国とも仲良くなる。武力で身を固める前にやるべきことはいくらでもある。
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第139 水彩画 日曜展示

2022-12-11 04:39:08 | 水彩画
 第139 水彩画 日曜展示

10号ぐらいの作品です。






1「下田港」
2022.12








2「房総岬の家」
2022,12








3「伊豆戸田漁港」
2022.12









4「呼子より加部島」
2022.12










5「伊豆子浦」
2022.12








6「下田」
2022.12








7「岩礁」
2022.12







8「石垣の海」
2022.12








9「下田港」
2022.12








10「紀伊半島の港」
2022.12


  今回は港を描いた絵を集めた。たまたまそういう絵がまとまった。こうしてみると、海の絵、山の絵が随分ある。耕作地の絵と同じくらいあるのだろうか。何か意図があってではなく、その時々に書きたい物を描いていたら、そうなったと言うことになる。

 人物の絵や花の絵、そして静物画も少しだけ在る。3%ぐらいだろうか。本来であれば、何かを選んで描くほうが普通かも知れないが、その時の気持ちにできる限り合せたいので、意識はしないようにしている。石垣に来て海の絵が増えたことは確かだろう。

 石垣で港は描いたことが無い。見に行ったことは何度かあるのだかが、描きたくなるような物ではなかった。思い出すのは与那国の港である。与那国では港を描いたのだが、完成することは出来なかった。今度また与那国にか気に入ってみるつもりだ。
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コンピューターの方が頭が良くなる。

2022-12-10 04:17:33 | 楽観農園


 コンピューターに考えてもらう時代が近づいている。将棋がコンピュターソフトの方が人間よりも強くなったのと同じことである。人間がやることが変わらざるえないことになるだろう。創造的な仕事と言われているようなことでも、どこが創造的なのかと言うことが明らかなに成るだろう。

 学問研究の世界のほとんどの分野でコンピュターの方が優れていると言うことになるだろう。司法の世界は判決では法律と判例に基づきコンピュターの方が正確な判断をするに違いない。わたしが訴えられたならば コンピュター裁判をお願いします、と言いたい。

 法律解釈にブレが無いと言うことになる。間違いなく早い、即決裁判で訴えたその場で判決が出る。つまり負ける裁判は誰もしなくなる。自分で判決が確認できることになる。そもそも政府が法律違反をしなくなる。憲法9条の拡大解釈などあり得ないことになる。

 官僚がやっているような仕事はコンピュターの方が、公正で的確な指示が出せるだろう。日銀の仕事などは早くコンピュターにまかせた方が間違いがなくなる。役所の許認可事務などすべてコンピュターが判断して、返事をすべき仕事になる。すでに株式投資をコンピュター任せでやる人が居るらしい。

 判断に個人恣意的判断が入らない方が良い公の仕事は多い。もちろん談合や収賄などもなくなる。あの人の口利きだからとか、あの人には前世話になったからと言うようなことがない方が良い。その意味では早くコンピュターに切り替えてもらえばと思うようなことはままある。

 一方で、肉体労働のような仕事はロボットがやるようになる時代が遠からず来る。すでに肉体労働を嫌う人が世界中で増えてきている。労働生産性などはどこまでロボット化できるのかで決まってくる。そうなれば労働人口とGNPの関係も変わってくるに違いない。老人に偏ったところで問題は無い。

 そんなSF映画のような世界を生きている内に見ることに成りそうだ。必ず来るだろう次の社会では、人間がどのように生きるようになるかが重大な課題にになる。どこに生きがいのような物を見付けることになるかである。人間の幸せの追求の意味が変わる。

 頭が良いというようなことは、それほどのことではなくなる。これは有り難いことだ。コンピュターの方が頭が良いのだから、少々頭の回転が速くともコンピュターの何百分の1の愚鈍となる。今調べ物はスマホ検索という人が多いだろうが、近いうちに何かを判断をするためにスマホ検索という人が増えるはずだ。

 人間の頭脳も価値を失う。肉体労働も価値を失う。その時人間は何をするのだろうか。どう生きれば良いのか。次の世代のことであるから、私が考えても参考にもならないわけだが、どうも好きなことをやり尽くすというような私のような生き方が増えるような気がしているのだ。時代の先を行っている。

 将棋と言うゲームでコンピュターが人間より強くなったときに、果たしてそんなゲームがおもしろいのかと言われていた。しかし、藤井聡太ブームを見ていると、別段コンピュターより人間が弱くとも、人間同士が将棋をする勝負を見て楽しめるという意味では変わらなかったのだ。

 機械の方が人間よりも力のあるのは当たり前であるが、重量挙げなど馬鹿馬鹿しいように見えるが、十分に見て楽しめるスポーツである。ロボットの方が職人仕事ならまかせてくれと言うことになるだろうが、それでもできの悪い人間仕事に価値が置かれる場面はあるはずだ。

 商品という意味では大半の物はロボットとコンピュター製造に取って代わるだろう。絵画であっても、商品という意味ではそうなるに違いない。つまり私絵画だけが残ると言うことになるはずだ。人間が絵を描くという喜びと面白さは限界がない。その出来たものがどれほどの物かはさして意味が無い。

 私絵画の時代はもうそこまで来ている。絵画芸術の意味は、描く行為自体に意味が求められて行く。コンピュターが描く絵と違うという当たりに絵の意味が出てくるかも知れない。コンピュターはどれほど完璧な絵を描いたところで、行為としての意味を持たない。

 農業をすると言うことは、ロボットやコンピュターで出来るようにはなるだろうが、人間が楽しみで農業をするというようなことは却って盛んになるような気がする。おもしろ区手、やり尽くせないようなことは、どんな時代になっても残って行くと言うことだろう。

 自然というような多様な変化をする総合的な物の中で自分の身体を使って、自分が食べるものを作る。この面白さは尽きることがないはずだ。商売としての農業をやる意味は無くなる。人がやらなくなった農地は機械がやる農地になるはずだ。労賃の占める割合が下がれば、農産物は地場産が一番になるはずだ。

 自分と言う人間が掘り起こされ、その自分と言う存在が他者に伝えたいという思いが込められる意味は、より意味を持つようになるのかも知れない。次の時代は私藝術の時代になるのかも知れない。人間が労働から解放された時にやることは、人間自身の探求である。

 現代社会が抱える解決できない問題をコンピュターが解決してくれるだろう。気候変動をどうすれば止められるか。マイクロプラステック問題はどうすれば良いか。原子力の安全性の問題。人口減少や人口爆発はどう対応して行けば良いのか。能力差別は自然解消されるのかも知れない。

 あと10年ほどすれば、正確な解決可能な方法が次つぎに示されることだろう。もちろん人間が取り組めるかどうかは別になるが。取り組まざる得ないところまで追い込まれたならば、さすがに政府は取り組むだろう。そうしなければ社会も自分も死ぬしかない。

 一方で、人間はだめかも知れないという思いもある。客観性のある正しい回答が示されても、人間にはやれないのかも知れない。そうして人類は滅びるのかも知れない。プーチンを見ていると人間の愚かさが、人間を滅ぼすところを目の当たりにしている。

 10年後のコンピュターであれば、ウクライナ侵攻は出来ないと回答を出してくれたはずだ。85%ロシアはウクライナに敗れると出ていたのではないだろうか。台湾侵攻も同じである。コンピュターが正確な成り行きを示すはずだ。戦争が問題解決にならないことは、いかなる場合でも同じである。

 人間が人間らしく生きる時代が来るのか。その前に滅びてしまうのか。大きな分岐点に来ているのだろう。これは産業革命と同じく人間の暮らしの大きな変化である。労働の意味が変わるのだ。人間が食料生産で精一杯の時代から、人間自身の探求の時代に入ると言うことになる。

 生きている間に時代がそこまで進むことはないだろうと思っていたが、加速度的に時代が動いている。大変な時代に遭遇したことになる。次の時代を生きる人達に何も言えることはないのだろうが、ともかく時代が大きく変わると言うことは知ってもらった方が良い。10年後にこの文章を確認してみたい。

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自学自習が一番良い

2022-12-09 04:11:38 | 暮らし


 人から教わるのが好きでは無い。どんなことでも、分からないところから自分でやってみるのが好きだ。人間に謙虚さがないのだ。教える人を批判的に見てしまう。何でも自分でやれるし、そうでなければおもしろくないと考えて曲がって生きてきたようなものだ。性格に問題があるわけだが、今更おそい。

 結局の所、内心では自学自習でやってきて、それが良かったと考えている。農業も誰かに教わったことはない。やってみてはすこしづつ調整して、何とか出来るようになる。その繰返しである。自然の姿を観察して、想像しながら、いつも解決法を考えた。失敗は誰よりも多かったが、それがおもしろいかったのだ。

 30代後半で開墾生活を始めた時も好き勝手にやった。その工夫の一歩一歩がおもしろくて仕方がなかった。自分だけの知恵で、自給自足をしてみたかったのだ。自分がどこに向かうのかを見失い、自分が生きると言うことを自分の手で実現するところから、生きることの基盤である食料生産からやり直してみれば何か見えてくると考えたのだ。

 世の中には教え好きという人がいるもので、山の中までわざわざ来て、指導をしてくれようとした人も一人や二人ではなかった。一応聞いている振りはしていたが、一切聞くことはなかった。一人で考えやってみるのがおもしろいのであって、人に言われてやるくらないなら、開墾生活など始めないとかたくなに考えていた。

 衰えた現代人が自分だけの体力と知力で自給自足可能なのかへの挑戦である。シャベル一本で自給自足出来るかを確認しようとしていたのだ。その方法すべてを自分で見付けなければ意味が無かった。自給自足生活は本にあるようにやってみて、出来るようなものではないと考えていた。

 その場その場でやり方も条件も違う。その基本となる困難を乗り切る考え方だけが重要で、後は応用力を日々みがいて根気よく積み重ねるだけだ。困難は必ず乗り切れるものだという、確信が重要である。江戸時代までの昔の人には出来たことだといつも思って自学自習で挑戦した。

 一番困ったのは田んぼの作り方がわからなかったことである。稲作の方法はいくらでも解説があるが、田んぼの作り方となると、まず手探りである。どうやって水を確保すれば良いのか。そもそも田んぼにはどの程度の水が必要なのか。そういう所から手探りであった。ついでに結果を書いておけば、一反の田んぼなら、細い水道を出し続けるぐらいの水量で良い。

 石垣島ののぼたん農園の田んぼ作りは、五回目の経験である。必ずここには田んぼが作れると言うことが、土地をくまなく見て穴を掘ってみて分かった。水量から見て二反の田んぼは耕作できるとみた。やってみてほぼその予測は当たっていた。自給自足の35年の経験が生きたわけだ。

 イネ作りもそうだ。最初にやったイネ作りは直播きだった。やっと田んぼらしい形を作った平ら地に稲の種を蒔き、そのまま水を入れて足でかき回して、徐々に水を溜めながら、田んぼにしていった。シャベルだけで田んぼは出来たのだ。難しいことなど何もなかった。

 頭で考えたときは、どうやったら水が溜められるかが分からなかった。どれほど水があれば良いかが分からなかった。屋根の水を集めて幼稚園が閉鎖したときに頂いたタンクに溜めた。それを大雨の日に流して、代掻きをした。すぐ水は溜まるようになった。やれば出来るものだと確信した。

 「やってみなければ何も分からない。」これが基礎の体験になった。そしてやってみればだめでも次の道が開けると言う、試行錯誤をその後何度も体験できた。これが誰かに教えられてやったのであれば、二回目、三回目の田んぼ作りはやらなかったと思う。自分でやると次のさらなる良い田んぼの作り方に興味が湧いてくるのだ。

 自然養鶏も同じことだった。声良鶏を岩手で頂いて帰ったのが始まりだ。立派な鶏だったのだが、1年ほどで死なせてしまった。そこから、声良鶏が飼える養鶏技術に向かって試行錯誤した。何年もかかったが、自然養鶏の技術を見つけ出すことになる。

 そうした自然養鶏の技術や、田んぼ作りの経験から、のぼたん農園と言う形で、理想の楽観農園の田んぼの在り方を模索している。稲作ほど永続性のある食料生産の方法はないだろう。自然の改変をほとんどせずに、最小の水で人間が暮らす方法である。少ない水を無駄なく利用して食料を生産する方法である。

 しかもその食料生産の方法が、自然の中に織り込まれて行く農法でなければならない。自然と折り合いを付けて、人間が生きてゆく方法である。自然との妥協の方法である。大きな自然の営みの中に、人間の暮らしを織り込んでゆく方法の発見。

 こうした自学自習に終わりはない。まだのぼたん農園は一年目である。これから徐々に次の段階に進んで行く。まだ未知数な所ばかりだ。これからも学ぶものは山ほど在るだろう。やったことのないことに挑戦して行くことが、生きるという意味で面白い所だと思う。

 絵を描くと言うことはまさに自学自習である。絵は誰かに教わった匂いがあるだけで、絵はおもしろくない物になる。どこまで自分の絵に到達できるかだけが問題なのだ。誰でも物までで始まるのだろうが、どうやってそこから自分に到達できるかである。人と競べないと言うことは、自分の絵の方法は、自分で見付ける以外にないと言うことになる。

 書という物は極めて単純な表現法である。文字という共通の材料を用いて、世界を表現しようというのだ。だいたいの場合は黒一色である。それでその人の世界観が表現されうるのだ。恐ろしいほど素朴で在るからこその、決定的な表現方法だ。

 何故そんなことが可能なのかと言えば、筆跡鑑定と言うことで分かるように、その人だけの癖のような物が筆跡にはあるのだ。だからその人の人間や世界観が、文字の上に表現されている事があり得るのだ。だから書でおもしろいのは上手下手ではなく、現われている人間なのだ。

 中川一政氏の書が、90歳よりも91歳の時の方が良い。91歳の時よりも92歳の方が良い。死ぬまでどんどん良くなってゆく。そういうことが見て分かる書があるということが、思い込みかも知れないが、そんな表現があるということがすごいことだと思える。

 どこかで何かが抜け落ちてゆくようだ。失われて行くことで本質が現われてくる。私の僧侶の師匠である、山本蘇峯先生の葬儀の際に中川一政氏から花が贈られてきて、そこに大きな板に中川一政という名前が書かれていた。その字はまず鉛筆で中川一政と下書きがされていた。その上に墨で中川一政と書かれていた。

 その字のすごかったこと。その板を頂いて帰ろうかと考えたが、さすがに止した。葬儀の後の片付けてでお経を読みながら燃やした。それを盗んで帰ることは弟子としてかなり悪い行為になると思えて出来なかった。その話を書の評論家に話したのだが、そんな鉛筆の下書きのある書はあり得ないと言った。今の日本の書道界はそんな程度の物なのなのだ。

 ああ燃やさなければ良かったとその時に思ったのだが、下書きの鉛筆とそれからはずれた書の姿が、素晴らしかったのだ。そこまでこだわりのないものに成らなければ書ではない。書はその人間の世界観が立ち現れるものなのだ。燃やしてしまったが、私の中にはまざまざとその文字が浮んでくる。

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統一教会とオオム真理教と創価学会

2022-12-08 04:39:54 | Peace Cafe


 宗教組織と政治は関わらない方が良い。とかく宗教組織は権力と関係したがる。宗教弾圧を怖れる。現世利益を目的にしている。社会を自分流にしたい場合もある。宗教は宗教を通して世の中のを変えれば良い。政治にかかわりを持つと言うのはその宗教の宗教力に自信が無いからではないか。

 統一教会に解散命令が出る流れで進んでいる。創価学会だって似たような組織だと思っている。公明党が自民党にすり寄り、敵基地先制攻撃まで容認したのは、創価学会を守るために違いない。あらゆる宗教がそうして権力におもねり社会をだめにした歴史がある。
 
 確かに統一教会の信者の献金で家庭が壊れていく事例を聞くと、これは問題だと思わない訳ではないが、宗教というものが、人間にとって様々な意味で危険な側面があるのは、統一教会だけの特別な話ではない。オーム真理教は高学歴の医師の信者に宗教的な理念から殺人までさせたのだ。

 人間の歴史は宗教の名の下に、生贄として人間を神にささげるというようなことすら行われてきたのだ。宗教がまともな暮らしを崩壊させるという事例など幾らでもある。すべての仏教宗派が、権力と結びつき戦争協力をした歴史がある。

 今回慌ただしく、統一教会の解散が進められているのは、安倍暗殺とその背景を曖昧ににしてしまうためである。統一教会と自民党国粋系の歴史的連携がある。今になっては統一教会を政府としてきつく取り締まらないで居ることで、安倍氏の話がくすぶり返すことを怖れているのだろう。このことは見逃してはならない。

 安倍の背景には日本の政治の根底からの腐敗が現われている。安倍と統一教会の関係は誰が説明責任を果たすのであろうか。死人に口なしで良いのか。何とかほとぼりが冷めるのを待っているだけのようだ。統一教会を解体することなど、政治の腐敗から見れば小さな事だ。

 このままでは暗殺犯山上の意図通りではないか。安倍を殺せば、統一教会が解散させられる。政府は犯人の意図通りの展開に乗せられている。世論の動かし方が読み通りだったと言うことになる。宗教と寄付の問題を法律がどう関わるべきなのかは、純粋な法律問題として必要か不要か考えるべきだ。

 死んだ人に口はないが、国葬までした岸田政権には、殺された安倍当人に変わって、その関係の実態を説明する責任はある。それを行わないで済ますための統一教会への解散命令になる。説明をしないで居れば、国葬をしたという事は、統一教教会まで評価をしたということになる。

 しかし、岸田政権にはそれが出来ない。早く死んだ人の蓋をしてしまおうという事のように見える。そのために献金家庭崩壊のひどい話をことさらに強調しているのだ。それは野党も同じである。立憲民主党も我が身を省みれば、安倍追求が出来ないらしい。

 自民党の中に深く巣みつく、どんな宗教でも選挙に利用できるなら利用するというのは、霊感商法以上のあくどい精神だ。統一教会の理念を評価して関わったのであればまだ許される。政治は日本を良くしたいが為に行うのではなく、私腹を肥やすことと名誉欲以外にない。

 統一教会がえせ宗教の反日組織であったことは日本の右翼と結びついたときから変わらないことだ。岸から安倍に繋がる右翼勢力の中にある、腹黒い国民支配の方法が、統一教会と結びついているのだ。国粋主義のはずの右翼が、実は韓国の反日組織と結託して行動していたのだ。

 日本の右翼は同時にアメリカに隷属もしている。この節操など丸でないのが日本の既得権益集団なのだ。互いにもつれ合いながら、日本主義を主張しながら、日本を食い物にしているような、鵺集団なのだ。既得権を守るためなら、誰とでも手を結ぶ連中である。自民党保守派の思想は勝共連合と何ら変わらない。

 創価学会と自民党の結びつきは日本の政治ををだめにしている。思想的に共鳴するのであれば、まだしも創価学会は自己保身で自民党に接近し、自民党は選挙のために創価学会を利用している。こうした利害で動くと言うことでは、まともな政治が行われることはない。

 宗教が直接政治と関係するのはこれを機会に止めてもらいたい。宗教はそれそれの人間のものである。組織力で権力を動かすなど、民主主義を腐らせる行為になる。民主主義は社会を構成するすべての人が大切にすることがなければ、成立しないものだ。宗教はあくまで個人の内なるものとして大切にすべきだ。

 悪人正機という考えもある。悪人にも人権はあるし、邪教に見える宗教にも信教の自由は及ぶのかと言うことになる。オウム真理教はテロ行為を行い、反社集団扱いになった。オウム真理教の教義が日本の法律に逸脱していると言うことなのだろう。その意味では禁止される理由がある。

 統一教会はその教義が日本の法律に照らして問題があるのだろうか。私には問題があるとは見えない。そもそも献金をマインドコントロールをして騙してさせているとするならば、マインドコントロールとは一体何のことか。科学的論理を超えて、天国は存在すると信じさせる宗教とどこが違うのだろうか。

 10分の1の収入を献金するという決まりは統一教会もキリスト教会も同じである。自分の持てる物をすべて献金すべきという教えも、無一物を主張する禅宗と大きくは違わない。そういえば山岸会も同じだ。詐欺集団だから問題がある。反日集団だから問題がある。そういうことと宗教の解散命令は違う。

 何故安倍はその宣伝看板にならざる得なかったのか。ただ頭が悪かったから、迂闊な行動だったと言うことなのか。それもありそうだが、看板になれと言われて断れないような弱みを握られていたと考えた方が筋が通る。その闇は今も少しも暴かれていない。統一教会とは腐れ縁が深いのだ。

 統一教会の力を借りようとした自民党の多くの政治家はすべて弱みを握られているのだろう。当選したいから、汚い手も借りてしまう政治家の汚さ丸出しである。臭い物に蓋をするために、統一教会解散法を作ることは間違っている。臭い物を暴き出すことが、今政治が国会でやるべき事だろう。

 先ずは国葬をしたことを間違いであったと認めるべきだ。安倍のやった10年間日本が衰退したことを認めることだ。アベノミクスが間違いであったことを認めて、日本を建て直すことだ。そうしなければ日本の衰退はさらに進むはずだ。既得権益勢力を排除しなければならない。

 原発温存を見ても分かるように、原発は利権なのだ。既得権益の電気事業利権のために新エネルギー開発の第三の矢は、力を持てなかったのだ。災害の多い日本では、原発は不向きなのだ。ロシアのウクライナ原発攻撃を見れば分かるように、原発は国防の上でも極めて危険な物なのだ。

 日本を滅ぼそうという国があったとして、原発をめがけてミサイル撃ち込んできたときにすべてが終わる。日本は原発破壊で壊滅する。人間が住めない汚染地域に日本が成る。国防上これほど危険な施設は他にない。それでも原発にしがみついて居るのが、日本の保守勢力の利権なのだ。
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「外来生物」を農業はどう考えれば良いか。

2022-12-07 04:24:45 | 環境関連


 のぼたん農園の溜め池には石垣島では貴重になってしまった、ミズオオバコ、ミズワラビ、アカウキクサの3つの植物がある。そのことをとても有り難い、大切なことだと考えている。しかし、本当にそれでいいのだろうかとも思う。

 希少な植物だから守らなければならない意味はどこにあるのだろうか。守られるべきものの第一は、人間の暮らしである。人間が豊かに暮らして行くと言うことが、良い環境の目標である。そのための生物の多様性である。環境の永続性である。

 毒蛇のハブはそれなりに希少なものである。石垣島では近年孔雀の増加に伴い減少している、と私は見ている。孔雀の沢山居た、名蔵シーラ原では先ずハブは見なかったが、崎枝は孔雀が居ない代わりにハブは結構居るようだ。ハブだけでなく、ヘビ全体が多い。

 は虫類を孔雀は食べ尽くしてゆくのだろう。孔雀を害鳥として駆除しているが、減少するどころかだんだん増えている傾向だ。しかし、ハブはその御陰で減っているのかも知れない。それをありがたいことだと思っている。孔雀ぐらい我慢したくなるぐらいだ。

 さすがに石垣島に孔雀が居るのはひどく困ることだが、ハブが減るのは有り難い。それでも生物多様性と言うことで言えば、ハブなぞ居なくなれば良いともいえない。ウミガメが西表では保存が成功している内に限度を超えて、増えている。海藻を食べ尽くしてしまい、今度は魚が住めなくなっている。

 ウミガメは仕方がなく石垣の方にまで来ているようだ。ウミガメウオッチングをダイビングの売りにしているので、観光として考えれば、ウミガメの増加は良いことなのだろうが、漁業者はこれでかなり困っているはずだ。漁業資源の衰退。海藻の林の消滅である。

 先日網に入った亀をもりで突いて流したと言うことで、大量の死んだ亀が岸辺に流れ着いたために、注意を受けた漁師さんが居た。今のところ亀の保護活動は継続しようと言うことのようだ。一方で漁で被害が出ていることで、漁師さんの生活に影響が出ている。

 先日市史編集員の松島さんと言う方が、水生植物のオモダカ、カナダモ、ヒルムシロ がないかとのぼたん農園に調査に見えた。その3つはあまりない方が良いと思っている植物である。最近水生植物は田んぼの除草剤で、壊滅的な影響が出ている。

 稲作ではオモダカは難防除性の水田雑草として扱われる 。たぶんお米が日本に伝わるときに、オモダカも便乗して日本に来た植物かと思う。農の会の親子田んぼでは、オモダカが余りに増えてしまい、一年間休耕して駆除したことがある。

 カナダ藻は名前の通り、北米からきた帰化植物で、小田原の水路では異常繁殖していた困りもんの水生植物であった。日本に現在繁茂している植物のたぶん半分位は日本にそもそもはなかった植物が、日本に侵入して蔓延ったものであると考えても良いのだろう。在りがたいものも在れば、困りものもある。

 アカウキクサは現在日本全体で純粋種はほとんど失われているのではないかと思われる。ほとんどの場所でアメリカ産のアゾラと交雑したと言われている。アゾラは特定外来生物の一つで、見付けたら駆除した方が良い植物とされている。特定外来生物としては、植物では19種が指定されている。

 法律に基づいて、駆除し広げないようにしなければいけない植物とされている。アゾラは合鴨農法では田んぼに有効な植物と言うことで、わざわざ導入されたものである。良いと思って悪かったと言うことが、頻繁にあるのが植物の海外からの導入である。

 特定外来生物の問題は日本にそもそもあった希少になっている植物を守るためには、新しくやってきた旺盛な繁殖力のある植物を抑えなければならないと言うことなのだろう。アメリカハマグルマは石垣島では一番困る植物ではないかと思われる。

 やたら繁殖力が強くて、今や於茂登岳の山頂付近にまであると言う。イノシシが足の爪の間に挟んでどこにでも運んでいるらしい。すぐ根ずくから、石垣島では至る所で黄色い花を咲かせている。土手の植栽で崩壊を防ぐために道路建設に伴い、わざわざ導入した植物だ。確かに崖の保全には有効だ。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし。

 黄色い花と言えば、黄ショウブは帰化植物で、その繁殖力で自生していた水辺のショウブを凌駕している。しかし、なかなか美しいショウブである。花だけ見たら駆除しろとはいえない美しさである。舟原溜め池では一部に留まるように管理している。

 黄色い花菖蒲は日本にはなかったから、明治時代以降園芸植物としてとても尊重がされ改良までされた。それが野外に出たら、繁殖力が半端ではなかったのだ。そういう園芸で持ち込んで広がったものも様々在る。牧草の種が、牛の糞を通して、各地で広がっているのもある。

 日本から出て行って外国で暴れているのが、グリンモンスターと呼ばれて怖れられているクズである。くずはアメリカの鉄道の土手を守るためにわざわざ植えて、手に負えなくなったと言われている。葛粉は今でも生産されているが日本では、困るほどの繁殖はしない。

 そういえば同じデンプンの片栗粉のカタクリの方は滅多に見かけることのない植物になってきた。カタクリのように花が素晴らしいものは、群生地が保護されて守られている。一方で見た目が地味な日本の固有種は黙って無数に消えていって居るのだろう。

 そう考えるとき、感傷的な気分では、カタクリには残って欲しいが、葛はいらないと言うことだが、人間の勝手だなということになる。何を残して、何を排除するか、たぶん何千年前に日本に来た植物もある。それはもう許せるもので、江戸時代はどうなのか。明治以降にきたもの、戦後に来たもの、何かそういう線引きが意味があるのだろうか。

 植物の場合、そもそも農業というのは帰化植物を育ている物だ。稲だってやってきた帰化植物だ。サツマイモだって、ジャガイモだって、麦だって、大豆だって、大抵の農作物は外国からもたらされて、日本人の食料となり日本を支えてくれている。

 治まるところに治まっていれば、妥協して良いのではないか。こう言うときに、環境原理主義では困る。あくまで手入れの範囲で収まれば良いのだ。小田原でメダカ池にひめだかが入ったと言うことで、石灰を播いて淘汰した。生き物を殺すことが環境保全というのは正しい判断だったのだろうか。今でも気分が悪い。

 例えば石垣島で目立つ戦後導入された樹木はギンネムとモクマオである。どちらもわざわざ防風林として入れたものだ。それなりに役立つているのだろう。特にマメ科のギンネムは土壌をよくするから、許して良いように思える。牧場の中にギンネムが在れば日陰にも成るし、土壌の改善にも成る。

 まあまあのところで妥協するのが一番である。善悪で決めつけないことだろう。舟原溜め池にカキツバタを購入して植えた。それをとんでもないことだと地球博物館の研究者の方が怒っていた。環境原理主義者なのだろう。溜め池はビオトープのような遊びではないのだ。

 舟原の溜め池はれっきとした江戸時代初期に作られた農業遺構である。どうやって溜め池を残すのかを考えれば、行政にはその力は無い。美しい場所にして、人を引きつける何かがいるのだ。カキツバタが咲き乱れていれば、さすがにゴミためにはしないだろう。と私は考えた。間違っているのだろうか。


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動禅千日行

2022-12-06 04:02:22 | 暮らし


 どんなことでも千日くらいは繰り返してみなければ分からない。と思っている。絵も日々の1枚と考えて続けているが、千枚くらい続けてみなければ、何をやっているのかさえ分からない。と思ってやってきた。確かに1000枚を描いてみて、いくらか分かったことがある。次の千日をやれば、もう少し分かりそうだ。これからも続けてゆくつもりだ。

  絵も動禅もほぼ同じ頃に日々の行いとして開始したので、動禅行も千日が来たと言うことになる。動禅で何かが分かったかと言えば、1000日やったところで何にも分からないということが、分かったぐらいのことだ。動禅は絵よりもよほど難解である。

 動禅の場合はっきりしていることは、身体が衰えていないと言うことが分かる。むしろ、始めた頃よりは身体の動きは安定してきている。頭の方も何とかまだぼけが進んだと言うことでは無いようだ。一応ブログは書ける状態である。太極拳は卓球に次いで惚け防止になるとされている。

 動禅のなんたるかがよく分からない。やってみてそう思えたことは悪くない。次に進める。絵の方は1000枚前の水彩画日曜展示を始めた頃より、いくらか進んだと見える。絵は競べられるからなんとなく分かる。この歳の偏屈な人間が、いくらかでも前に進めることが出来れば、それは相当にすごいことだ。良い努力を重ねたと言うことになる。

 動禅との向かい合い方では、「気」という物を考えないと言うことにした。気ですべてを都合良く考えてしまうことが、私の科学性からすると耐えかねない。科学的にあるかないか不明な物を在るとすることは出来ない。気が無いとして禅と向かい合う行だ。

 動禅は、形を考え覚える所からだったわけだ。そこから、自分なりの動禅の一通りが定まったのだから、形だけを身につけることが出来たという事で、かなりの進歩といえる。1000日の間には良いという体操を取り入れたり、止めたりで今のかたちになったてきた。

 止めた体操にも惜しい物はいくつかある。特に蹴り上げ体操はかなり良かったが、しばらく止めていた。蹴り上げ体操までやると50分で収まらない。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。継続のためには50分ぐらいが良いところではないかと思っている。

 しかし、そう思いながら、爪先立ち立禅を半分にして、蹴り上げ体操に戻してみた。どうもその方が全体としては良いようだ。何が良いのかも分からないが、また新しい順序で続けてみるほかない。おかしければその時に変えれば良いだけのことだ。

 自分の求めている動禅の方向に少し進んでいるのだと思う。一番の自己流は爪先立ち背伸び禅である。こんなものは聞いたこともない。歴史上始めてかも知れない。まあそれは大げさだが。私には合っていると思っている。乞食禅らしい背伸び禅だ。

 立禅は太極拳の站樁功からきている。これは柔らかい受け入れる禅である。背伸び禅は剛の堅い自己に固執する禅ではないかと思う。その意味では坐禅はその中間的なものに成るのかも知れない。背伸びをするという形で身体をまっすぐな直線にして安定させ維持する。

 乞食禅とは悟りたい悟りたいと物欲しげにやる禅のことだ。私にはそういうことしか出来ない。お前の乞食禅がだめだと言われて禅から離れた。今は乞食禅だってかまわないじゃないか。あと20年のことだ。他人の為は関係が無い、自分流で許してもらおうと思っている。

 絵を描くことも禅を行うことも、結果があるわけではない。只管打坐である。悟りというような結論を目指しているのではなく、目指す方角への行為として、それにひたすら向かうことが意味があるのだと思う。どんな意味かとするならば、生きると言うことを実感して、死を楽観して受け入れる。

 動禅を考える上でも只管打坐のわずかづつ正法眼蔵を読んでいる。最近正法眼蔵を読解している若い禅宗の僧侶が現われた。昔なら、余りそういう理屈が先行する坊主は尊重されなかった。学問として正法眼蔵にとりかかるのは、なかなか良い傾向だと思っている。

 只管打坐の道元が何故こんな難解な大著を書いたのだろうか。本当に道元が書いたのだろうか。いつもその矛盾を考える。只管打坐であるなら、本など書いている時間があろう訳がない。道元は自分のことと、弟子に対してと別に考えているように見える。

 道元の弟子のつもりである私が絵を描いて何が悪いのだろうかと思う。絵を描いていればきっと破門されたのだろう。破門するのは道元であるが、弟子の私が弟子で居ることを止める必要は無いと勝手に考えている。正法眼蔵を書くように絵を描いているのだと言いたい。屁理屈かもしれないが、居直ってそう思っている。

 禅は形から入るものだ。訳など考えないで、ともかくこの形で続けてみる。それ以外に方法は無いと言うことだ。様々な動禅よりも只管打坐を中国から学んできた道元。新しい修行方法の提案。それが鎌倉末期の混迷した時代に受け入れられてゆく。

 現代は鎌倉幕府が滅びていった時代のような末世だろう。世界が崩壊に向かっているように見える。コロナの蔓延。ロシアのウクライナ侵攻。競争主義の能力主義の蔓延。資本主義経済の限界。すさまじい気候変動。豊かな世界の裏に、飢餓が増加している。

 果たして人類に未来があるのだろうか。そう思わざる得ないような混沌の世界に生きている。切り抜ける道はあるのだろうかというほどの行き詰まりである。のぼたん農園は楽観農園である。絶望の時代の中で、生きる希望を感じられる場所の構築である。

 道元禅師であればそんなくだらないことはするなと言うことだろう。くだらなくてもかまわない。私の生命がやるべき事をやろうと思っている。それが私の動禅の行である。山を走り回る千日回峰行よりも、只管打坐よりも、のぼたん農園の構築の方が、私の行としては向いている。

 修行は何か形の在るものに頼ってはならないと言うことなのだろう。修行にならないと言うことだろう。このことで中学生の頃から、くよくよしながら生きてきたわけだ。結局、まともな僧侶になることは出来なかったことになる。それでも何も意味の無いことを大切にすると言うことは理解できる。

 形のある物を求める無意味さは理解できないわけではない。ある意味末世の無常観である。修学院離宮を残した後水尾上皇の思いから学んだものがある。徳川家に権威を剥奪されてゆく中で天皇が、天皇家に伝わる日本のあるべき思想を形に残そうとした。修学院離宮の意味は形として伝わってくる。

 のぼたん農園を形作ることは私が自給自足に生きてきた学んだことを、農園と言う形として残しているつもりだ。私が死ねば消えて行くのかもしれない。それはそれで仕方がないことだ。ただ人間の生きるための形にはこういうものもあると言うことは形にしてみたい。

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12月3、4日は田んぼの種まきだ。

2022-12-05 04:26:07 | 楽観農園


 いよいよのぼたん農園の二年目が始まる。11月30日に水を抜き、3日経過した12月2日に線引きをして、4日目の3日から種まきである。30日に水抜きをして、2日に線が引ける状態になるのかどうかが、先ずは問題だったが、何とか線を引くことが出来た。

 水を抜いた30日から、雨がちの天気だった。水がある程度残っている状態で、線引きをすることになった。圷さんの作った。線引きが素晴らしくて、田んぼに線がつよく引かれる。しかも一度引いた線の痕跡は、その晩に強い雨が降ったにもかかわらず、消えなかった。

 翌朝種が一応蒔ける程度には線が残っていた。この日も雨予報であったにもかかわらず、なんと青空の見える好天である。真夏のような陽射しでみんな日焼けをした。それが種まきが終わるとまた豪雨である。みんなの思いが天に通じたようだ。今までもこういう経験が何度かある。



 土壌の状態から考えると、今までの線引きでは出来なかったことだ。石垣島の土壌の特殊性もあるかも知れない。水たまりが所々にあって、その当たりは適当に播いてもらった。直播きの種がうまく発芽しなかったところはもう一度補植という形で、田植えをする予定だ。

 0番田んぼに苗代がある。0番は種を選抜してゆくために一粒蒔きにしたのだが、やはり上手く発芽しない部分は苗代の苗を手植えする予定だ。いと粒巻はやはり難しい。この苗で6番田んぼに田植えをする予定にした。田植えをするのは今年も、水牛クルバシャーをしたいと言うことがある。

 家畜を使う伝統農業は残して行かなければならない、農業遺産だと思う。家畜を使うことは決して動物虐待ではない。人間が生き物として生きていると言うことを確認することになる。水牛農業を残してゆくことものぼたん農園の役割だと思う。



 10枚の田んぼを直播きにしてみたのだが、これが成功するのかはまだ不安だが、少なくとも今回の直播きの試みがこれから先ののぼたん農園の稲作法に影響してくるはずだ。2人家族で一つの田んぼを担当するとすれば、直播きは2畝の1枚の田んぼでは、1家族で一日でゆっくりと種が蒔けると言うことになる。

 のぼたん農園の自給農法は誰でも出来るものでなければ成らない。簡単に、楽しみの範囲で出来るものにしたい。田植えよりも直播きの方が楽だ。問題は雑草と言うことになるが、今のところはまだ出ていない。徐々に増えるだろうから、同それを抑えきるかが今後の課題になる。2セの田んぼなら早めの草取りが出来ると考えている。

 水が抜けているところから、線を引き始めて、水がまったく抜けていない田んぼは、3日あるいは4日に線を引く予定にしていた。結局の所、1,4,5,6,9番が線が引けないくらいに水があった。たぶん下の方のいくつかの田んぼは水が抜けないだろうと見ていた。

 今回の様子としては上の1番はどうしても溜め池の方から水がすこしづつ入ってくるので水が抜けにくい。在る程度水があっても、線を引いて、おおよそで種を蒔いてゆけば、それでいいわけだ。3日の種まきの午前の部が20名で、0、2、3、7、8、10、11,と種まきが終わった。

 午後に、紐張り班と線引き班に分かれて、作業をして、2時過ぎにはすべての田んぼの線引きが終わった。紐も張り終えたので、2時半くらいからの残りの、1番、9番、の種まきをした。3時過ぎに一日目の作業がが終わったことになった。

 残りをすべてやってしまうことも可能であるが、明日は日曜日しか出れない人のこともあるので、4番、5番、に餅米のゆがふもちの種を蒔きをして紐張りをすることにした。6番田んぼはさらに残しておいて水牛のクルバシャーをして、24日辺りに田植えを行う予定にする。やはり水牛を使いたい。

 種を蒔いて、3週間すれば田植えが出来る大きさになるだろう。石垣の田んぼは風が強いので、大苗は風にやられやすい。昨年機械苗をもらって植えた稚苗は、案外に活着が良かった。まだどのくらいに成長するかは分からないが、次の週となると、正月になるのでさすがにまずい。

 浸種した種籾の直まきまでの流れを整理しておく。28日の朝に溜め池から流れ出ている水を桶に入れて、その桶の中に種籾をネットに入れて漬けた。水温は25,6度だった。かなりの水が流れ出ていた。今年は私がその時に居なかったので、海水選もしなかった。

 水に漬けて於いた種籾は五日目の2日の午後水から上げて、新聞紙の上に広げて陰干ししておいた。ほどよく乾いていないと蒔きにくいからだ。3日の朝に一度新聞紙に包んでビニール袋に小分けした。余り濡れていると、手にまとわりついて3粒づつ蒔くのが難しい。

 3粒蒔きと言うことだったが、もう少し多く蒔いても良いということにした。おおよそだが、二反で3㎏ぐらいの種籾が蒔かれたことになる。想定以上に蒔いてしまうものだと思った。種籾を採る0番田んぼは一粒蒔きにした以外では、多く播いたから問題があると言うことではない。

 石垣の風の強さは一本植えでは危うい。数本まとまっている方がまだ耐えてくれる。種籾を採る0番田んぼは風の当たらない田んぼなので一本植えでも可能だ。ゆがふもち種ととよめき種を比べて見ると、とよめきの方がいくらか芽の伸びが早いようだ。

 直播きをする種籾は鳩胸よりもさらに芽が出ていた方が良い。ともかく短時間で芽が出てしまい、ネズミや鳥にやられないことが重要である。手で丁寧に蒔くのであれば、少々大きく発芽していても種を蒔くときに痛めることはない。

 蒔き終わってから、すぐ紐を張った。鳥よけは必ず必要だ。凧も飛ばした方が良いのかも知れない。少なくとも二週間鳥には来て欲しくない。水の入れ方が難しいが早めに水を戻したいと考えている。一度土壌が乾いてしまうと、水がたまらない状態になる。

 今年は常に水がある状態を作りたいと考えている。すぐに藻が出てくるので、発芽した稲にどう影響するのかも、観察したい。ここでジャンボタニシが現われたら、かなり困ることになる。ジャンボタニシは今のところ居ないと思うのだが、まだ分からないので要注意。

 20人で一日で終わりまで種を蒔くことは可能である。土曜日に線引きをして、日曜日に種を蒔くという形の方が、参加者に負担が少ないかも知れない。みんなと相談しなければならないことだ。2日の方がどちらかに出れるという人も居るかもしれない。

 種まきを終わったところの状態の写真 発芽の状態を比較して、どんな状態が一番良いのかを、確認したいと考えている。
0番田んぼ
1番田んぼ
7番田んぼ
2番田んぼ
8番田んぼ
3番田んぼ
4番田んぼ
5番田んぼ
9番田んぼ
10番田んぼ
11番田んぼ
7番田んぼ


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第138 水彩画 日曜展示

2022-12-04 04:04:23 | 水彩画
 第138 水彩画 日曜展示

小田原滞在中に描いた中判全紙の絵です。






995「花鳥山11月」
2022.11





996「大野寺からの甲府盆地」
中判全紙 2022.11





997「宮良川下流域」
中判全紙
2022.11






998「ひこばえの出た田んぼ」
中判全紙
2022.11






999「津波の来た海1」
2022.11
中判全紙






1000「津波の来た海2」
2022.11
中判全紙


 最初の2点が甲府盆地の風景。次の2点が石垣島の風景。この2点の絵は今回かなり描いた。そして次の絵が津波が来て、絵が描けなくなりその後、やっと描けた絵。今回少し手を入れた。偶然こういうことになった。小田原の家に描きかけの絵があったので今回整理をした。

 どの絵も大して変わらないようなものだが、自分の中では変化がある。津波の後もうだめだと言う挫折の中にいた。石垣に移り新しい方向の模索が始まった。そしてのぼたん農園を始めることで、動ける残りの時間やることが見つかった。

 今回が日曜水彩画展示の1000点目である。この10年間の絵のことが少し分かる。わずか変わってきている。現在進んでいると思うこの方角で、行き先は間違いは無いようだ。このまま日々の一枚を続けようと思う。次の2000点目にはどう変わっているだろうか。

 
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山梨で花鳥山の上で絵を描く

2022-12-03 04:18:19 | 水彩画


 今回の小田原行きでは少し無理しても甲府盆地で絵を描きたいと思っていた。秋の葉が枯れ落ちてゆく季節の甲府盆地を見たいと思った。南アルプスの山には雪が来ているはずだ。石垣島に暮らしていて、甲府盆地の秋の空気だけは懐かしくなる。盆地の縁から甲府盆地を見渡す景色に、自分の視覚の作られた風景があるように思っている。

 11月29日と30日の二日間笛吹市から甲府盆地とその向こうにある山の姿を描いた。いつも描いている場所なのだが、今回はこの盆地の風景の特徴を絵を描く気持ちで感じた。ここからの景色は人間が暮らす姿が絵図のように見える。

 人が生きている姿が、よく現われた素晴らしい景色だ。もちろん家の点在する姿もそうなのだが、盆地全体に畑が広がっている。果樹園が多いのだが、今は秋で剪定をしている姿が見える。農作業をされている姿を見て何故か懐かしい気持ちになる。



 秋のしみじみとした空気が身に染みてきた。童謡に唄われるように静かな静かな里の秋だ。雨上がりの木々にすんだ光が当たり輝いている。霞んだ空気に光が反射して、盆地の中が特別な場所のように見えている。この景色を確認したかったと言うことが分かった。

 遠く正面に見える金峯山や甲武信岳。そして甲斐駒や北岳が雪をかぶっている。雲で隠れている当たりに、北アルプスが見えるはずだ。確かに連山の影は特別ではあるのだが、やはり甲府盆地の輝く人間の営みの姿は神聖なものに見えた。

 人間が生きている舞台なのだ。この景色を眺めて、俯瞰の構図が身体に浸み込んだのだと思う。この大きな空間の広がりが自分の中の景色と言うものなのだろう。自分絵を描いてきたわけだが、やっとそのことが絵を描くという視点から、分かりかけてきた。

 絵を何のために描くのか。絵は自分にとって何なのか。すこしづつ見えてきた気がしている。自分の記憶の底に残ってきたものを描きたいのだ。それが自分という人間の見ると言うことを、作り上げてきたという感覚があるからのようだ。

 石垣ののぼたん農園の景色を見ていていも、結局この甲府盆地の景色の空間感が根底にある。空間をとらえる能力のようなものが、向昌院の梅の木の下から、甲府盆地を見ながら獲得した視覚として自分を作っている。そのことが絵を描きながらやっと見えてきた。

 そんなことは普通に暮らしている分には大きな事ではないのだろう。しかし、風景画を描き続けている物としては、何に引きつけられ絵が描きたくなるのかの理由が、知りたかったことだった。梅の木の下で、お婆さんは日がな一日立っている。

 そしてこんな良い景色はどこにもないといつも言うのだ。あそこが油川で、お婆さんの生まれた家だと、懐かしそうに話してくれる。油川の田んぼがあの光っている当たりだとか。あの笛吹川の子供の頃の思い出など話してくれる。それが自分の記憶のように、蓄積された。

 向昌院からの風景は両側に額縁のような山があり、自分の位置は暗いまるで砲台のような場所なのだ。さあこれが風景ですというように、甲府盆地が俯瞰されていた。開墾に行く坊ヶ峯が、甲府盆地を案内してくるように眼下に広がっている。

 脳裏にはまだテレビ塔などない坊ヶ峯には、開墾で出来た畑が美しい貼り絵のように描かれている。その貼り絵は季節ごとに色を変えながら、人間が作り出している、風景として開墾端に行く暑さと楽しさと共に、よみがえってくる。

 山に取り囲まれた大きな空間に人間が暮らす祭壇がある。その祭壇は人間が作り出したものだ。この感覚が記憶の底に残った。人間が営々として暮らしてゆく姿。そこには絶対的な美しさが存在する。悲しいような、涙するような、静かな里の秋なのだ。

 しかし、それは同時にこの場所を出て、新しい希望を感じる暮らしが東京にあると言うことも知っていた。こうした個人的な記憶が風景と結びついてある。それを描いているような気がする。石垣島の始めて見る亜熱帯の風景の中に実は同じものを見ている。

 小田原の篠窪の景色にも同じものを見ている。自分が描きたいと思うものを探してきたわけだが、引きつけられる景色は人間が大きな自然の中で、暮らしていると言うことが、伝わってくる景色のようだ。農の暮らしである。自然をささやかに切り開き、手入れをしながら暮らす姿。

 人が死に働き手を失えば、農地は忽ちもとの姿に戻る。自然に織り込まれた人間の営み。その大切さと悲しさが絵を描きたいという思いになっている。今目の前にある風景というものは人間の営みが作り上げた、折り合いを付けた風景なのだ。

 言葉にすれば私が描くと言うことはそういうことらしい。決めつける必要も無いのだが、甲府盆地の広がりを前にして、そんなことを考えていた。果たして絵がそういう物になっているのかである。まだまだ本質まで到達していないと思う。

 そういう方角へ向かいたいと言うことかもしれない。人間が暮らす景色を描きたいという、私絵画の方角なのだ。人間の暮らしをどのように考えるかとか、そのことにどんな意味があるのかというようなことではない。自分が描きたいという思いの、根底に子供の頃の景色があると言うこと。

 人間が生まれてきて、生きてきて、絵を描いている。そして死ぬまでの残された時間。自分の見ようとした風景の祭壇を絵に表すことにしたい。描くことは祈りである。どうにもならないことをあきらめようとして描いている。その行為の方に意味がある。

 思い出す記憶というものは悲しいものであるが、描く絵は楽観である。花鳥山で描いていたら、描かせていただいた畑のお爺さんが見えた。子供の頃の景色の話から、これから山に戻ってゆくだろうという話をされた。辛いだろう話を楽しそうに話されていた。

 そのすべてを受け入れているのだろう。どうにもならないことをくよくよしたところで始まらない。生きると言うことは楽観である。私の絵は決して暗い絵にはならない。消えてゆく農地の姿も、人間と同じで行為として重要なものだったのだ。

 
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