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自学自習が一番良い

2022-12-09 04:11:38 | 暮らし


 人から教わるのが好きでは無い。どんなことでも、分からないところから自分でやってみるのが好きだ。人間に謙虚さがないのだ。教える人を批判的に見てしまう。何でも自分でやれるし、そうでなければおもしろくないと考えて曲がって生きてきたようなものだ。性格に問題があるわけだが、今更おそい。

 結局の所、内心では自学自習でやってきて、それが良かったと考えている。農業も誰かに教わったことはない。やってみてはすこしづつ調整して、何とか出来るようになる。その繰返しである。自然の姿を観察して、想像しながら、いつも解決法を考えた。失敗は誰よりも多かったが、それがおもしろいかったのだ。

 30代後半で開墾生活を始めた時も好き勝手にやった。その工夫の一歩一歩がおもしろくて仕方がなかった。自分だけの知恵で、自給自足をしてみたかったのだ。自分がどこに向かうのかを見失い、自分が生きると言うことを自分の手で実現するところから、生きることの基盤である食料生産からやり直してみれば何か見えてくると考えたのだ。

 世の中には教え好きという人がいるもので、山の中までわざわざ来て、指導をしてくれようとした人も一人や二人ではなかった。一応聞いている振りはしていたが、一切聞くことはなかった。一人で考えやってみるのがおもしろいのであって、人に言われてやるくらないなら、開墾生活など始めないとかたくなに考えていた。

 衰えた現代人が自分だけの体力と知力で自給自足可能なのかへの挑戦である。シャベル一本で自給自足出来るかを確認しようとしていたのだ。その方法すべてを自分で見付けなければ意味が無かった。自給自足生活は本にあるようにやってみて、出来るようなものではないと考えていた。

 その場その場でやり方も条件も違う。その基本となる困難を乗り切る考え方だけが重要で、後は応用力を日々みがいて根気よく積み重ねるだけだ。困難は必ず乗り切れるものだという、確信が重要である。江戸時代までの昔の人には出来たことだといつも思って自学自習で挑戦した。

 一番困ったのは田んぼの作り方がわからなかったことである。稲作の方法はいくらでも解説があるが、田んぼの作り方となると、まず手探りである。どうやって水を確保すれば良いのか。そもそも田んぼにはどの程度の水が必要なのか。そういう所から手探りであった。ついでに結果を書いておけば、一反の田んぼなら、細い水道を出し続けるぐらいの水量で良い。

 石垣島ののぼたん農園の田んぼ作りは、五回目の経験である。必ずここには田んぼが作れると言うことが、土地をくまなく見て穴を掘ってみて分かった。水量から見て二反の田んぼは耕作できるとみた。やってみてほぼその予測は当たっていた。自給自足の35年の経験が生きたわけだ。

 イネ作りもそうだ。最初にやったイネ作りは直播きだった。やっと田んぼらしい形を作った平ら地に稲の種を蒔き、そのまま水を入れて足でかき回して、徐々に水を溜めながら、田んぼにしていった。シャベルだけで田んぼは出来たのだ。難しいことなど何もなかった。

 頭で考えたときは、どうやったら水が溜められるかが分からなかった。どれほど水があれば良いかが分からなかった。屋根の水を集めて幼稚園が閉鎖したときに頂いたタンクに溜めた。それを大雨の日に流して、代掻きをした。すぐ水は溜まるようになった。やれば出来るものだと確信した。

 「やってみなければ何も分からない。」これが基礎の体験になった。そしてやってみればだめでも次の道が開けると言う、試行錯誤をその後何度も体験できた。これが誰かに教えられてやったのであれば、二回目、三回目の田んぼ作りはやらなかったと思う。自分でやると次のさらなる良い田んぼの作り方に興味が湧いてくるのだ。

 自然養鶏も同じことだった。声良鶏を岩手で頂いて帰ったのが始まりだ。立派な鶏だったのだが、1年ほどで死なせてしまった。そこから、声良鶏が飼える養鶏技術に向かって試行錯誤した。何年もかかったが、自然養鶏の技術を見つけ出すことになる。

 そうした自然養鶏の技術や、田んぼ作りの経験から、のぼたん農園と言う形で、理想の楽観農園の田んぼの在り方を模索している。稲作ほど永続性のある食料生産の方法はないだろう。自然の改変をほとんどせずに、最小の水で人間が暮らす方法である。少ない水を無駄なく利用して食料を生産する方法である。

 しかもその食料生産の方法が、自然の中に織り込まれて行く農法でなければならない。自然と折り合いを付けて、人間が生きてゆく方法である。自然との妥協の方法である。大きな自然の営みの中に、人間の暮らしを織り込んでゆく方法の発見。

 こうした自学自習に終わりはない。まだのぼたん農園は一年目である。これから徐々に次の段階に進んで行く。まだ未知数な所ばかりだ。これからも学ぶものは山ほど在るだろう。やったことのないことに挑戦して行くことが、生きるという意味で面白い所だと思う。

 絵を描くと言うことはまさに自学自習である。絵は誰かに教わった匂いがあるだけで、絵はおもしろくない物になる。どこまで自分の絵に到達できるかだけが問題なのだ。誰でも物までで始まるのだろうが、どうやってそこから自分に到達できるかである。人と競べないと言うことは、自分の絵の方法は、自分で見付ける以外にないと言うことになる。

 書という物は極めて単純な表現法である。文字という共通の材料を用いて、世界を表現しようというのだ。だいたいの場合は黒一色である。それでその人の世界観が表現されうるのだ。恐ろしいほど素朴で在るからこその、決定的な表現方法だ。

 何故そんなことが可能なのかと言えば、筆跡鑑定と言うことで分かるように、その人だけの癖のような物が筆跡にはあるのだ。だからその人の人間や世界観が、文字の上に表現されている事があり得るのだ。だから書でおもしろいのは上手下手ではなく、現われている人間なのだ。

 中川一政氏の書が、90歳よりも91歳の時の方が良い。91歳の時よりも92歳の方が良い。死ぬまでどんどん良くなってゆく。そういうことが見て分かる書があるということが、思い込みかも知れないが、そんな表現があるということがすごいことだと思える。

 どこかで何かが抜け落ちてゆくようだ。失われて行くことで本質が現われてくる。私の僧侶の師匠である、山本蘇峯先生の葬儀の際に中川一政氏から花が贈られてきて、そこに大きな板に中川一政という名前が書かれていた。その字はまず鉛筆で中川一政と下書きがされていた。その上に墨で中川一政と書かれていた。

 その字のすごかったこと。その板を頂いて帰ろうかと考えたが、さすがに止した。葬儀の後の片付けてでお経を読みながら燃やした。それを盗んで帰ることは弟子としてかなり悪い行為になると思えて出来なかった。その話を書の評論家に話したのだが、そんな鉛筆の下書きのある書はあり得ないと言った。今の日本の書道界はそんな程度の物なのなのだ。

 ああ燃やさなければ良かったとその時に思ったのだが、下書きの鉛筆とそれからはずれた書の姿が、素晴らしかったのだ。そこまでこだわりのないものに成らなければ書ではない。書はその人間の世界観が立ち現れるものなのだ。燃やしてしまったが、私の中にはまざまざとその文字が浮んでくる。

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