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コンピューターの方が頭が良くなる。

2022-12-10 04:17:33 | 楽観農園


 コンピューターに考えてもらう時代が近づいている。将棋がコンピュターソフトの方が人間よりも強くなったのと同じことである。人間がやることが変わらざるえないことになるだろう。創造的な仕事と言われているようなことでも、どこが創造的なのかと言うことが明らかなに成るだろう。

 学問研究の世界のほとんどの分野でコンピュターの方が優れていると言うことになるだろう。司法の世界は判決では法律と判例に基づきコンピュターの方が正確な判断をするに違いない。わたしが訴えられたならば コンピュター裁判をお願いします、と言いたい。

 法律解釈にブレが無いと言うことになる。間違いなく早い、即決裁判で訴えたその場で判決が出る。つまり負ける裁判は誰もしなくなる。自分で判決が確認できることになる。そもそも政府が法律違反をしなくなる。憲法9条の拡大解釈などあり得ないことになる。

 官僚がやっているような仕事はコンピュターの方が、公正で的確な指示が出せるだろう。日銀の仕事などは早くコンピュターにまかせた方が間違いがなくなる。役所の許認可事務などすべてコンピュターが判断して、返事をすべき仕事になる。すでに株式投資をコンピュター任せでやる人が居るらしい。

 判断に個人恣意的判断が入らない方が良い公の仕事は多い。もちろん談合や収賄などもなくなる。あの人の口利きだからとか、あの人には前世話になったからと言うようなことがない方が良い。その意味では早くコンピュターに切り替えてもらえばと思うようなことはままある。

 一方で、肉体労働のような仕事はロボットがやるようになる時代が遠からず来る。すでに肉体労働を嫌う人が世界中で増えてきている。労働生産性などはどこまでロボット化できるのかで決まってくる。そうなれば労働人口とGNPの関係も変わってくるに違いない。老人に偏ったところで問題は無い。

 そんなSF映画のような世界を生きている内に見ることに成りそうだ。必ず来るだろう次の社会では、人間がどのように生きるようになるかが重大な課題にになる。どこに生きがいのような物を見付けることになるかである。人間の幸せの追求の意味が変わる。

 頭が良いというようなことは、それほどのことではなくなる。これは有り難いことだ。コンピュターの方が頭が良いのだから、少々頭の回転が速くともコンピュターの何百分の1の愚鈍となる。今調べ物はスマホ検索という人が多いだろうが、近いうちに何かを判断をするためにスマホ検索という人が増えるはずだ。

 人間の頭脳も価値を失う。肉体労働も価値を失う。その時人間は何をするのだろうか。どう生きれば良いのか。次の世代のことであるから、私が考えても参考にもならないわけだが、どうも好きなことをやり尽くすというような私のような生き方が増えるような気がしているのだ。時代の先を行っている。

 将棋と言うゲームでコンピュターが人間より強くなったときに、果たしてそんなゲームがおもしろいのかと言われていた。しかし、藤井聡太ブームを見ていると、別段コンピュターより人間が弱くとも、人間同士が将棋をする勝負を見て楽しめるという意味では変わらなかったのだ。

 機械の方が人間よりも力のあるのは当たり前であるが、重量挙げなど馬鹿馬鹿しいように見えるが、十分に見て楽しめるスポーツである。ロボットの方が職人仕事ならまかせてくれと言うことになるだろうが、それでもできの悪い人間仕事に価値が置かれる場面はあるはずだ。

 商品という意味では大半の物はロボットとコンピュター製造に取って代わるだろう。絵画であっても、商品という意味ではそうなるに違いない。つまり私絵画だけが残ると言うことになるはずだ。人間が絵を描くという喜びと面白さは限界がない。その出来たものがどれほどの物かはさして意味が無い。

 私絵画の時代はもうそこまで来ている。絵画芸術の意味は、描く行為自体に意味が求められて行く。コンピュターが描く絵と違うという当たりに絵の意味が出てくるかも知れない。コンピュターはどれほど完璧な絵を描いたところで、行為としての意味を持たない。

 農業をすると言うことは、ロボットやコンピュターで出来るようにはなるだろうが、人間が楽しみで農業をするというようなことは却って盛んになるような気がする。おもしろ区手、やり尽くせないようなことは、どんな時代になっても残って行くと言うことだろう。

 自然というような多様な変化をする総合的な物の中で自分の身体を使って、自分が食べるものを作る。この面白さは尽きることがないはずだ。商売としての農業をやる意味は無くなる。人がやらなくなった農地は機械がやる農地になるはずだ。労賃の占める割合が下がれば、農産物は地場産が一番になるはずだ。

 自分と言う人間が掘り起こされ、その自分と言う存在が他者に伝えたいという思いが込められる意味は、より意味を持つようになるのかも知れない。次の時代は私藝術の時代になるのかも知れない。人間が労働から解放された時にやることは、人間自身の探求である。

 現代社会が抱える解決できない問題をコンピュターが解決してくれるだろう。気候変動をどうすれば止められるか。マイクロプラステック問題はどうすれば良いか。原子力の安全性の問題。人口減少や人口爆発はどう対応して行けば良いのか。能力差別は自然解消されるのかも知れない。

 あと10年ほどすれば、正確な解決可能な方法が次つぎに示されることだろう。もちろん人間が取り組めるかどうかは別になるが。取り組まざる得ないところまで追い込まれたならば、さすがに政府は取り組むだろう。そうしなければ社会も自分も死ぬしかない。

 一方で、人間はだめかも知れないという思いもある。客観性のある正しい回答が示されても、人間にはやれないのかも知れない。そうして人類は滅びるのかも知れない。プーチンを見ていると人間の愚かさが、人間を滅ぼすところを目の当たりにしている。

 10年後のコンピュターであれば、ウクライナ侵攻は出来ないと回答を出してくれたはずだ。85%ロシアはウクライナに敗れると出ていたのではないだろうか。台湾侵攻も同じである。コンピュターが正確な成り行きを示すはずだ。戦争が問題解決にならないことは、いかなる場合でも同じである。

 人間が人間らしく生きる時代が来るのか。その前に滅びてしまうのか。大きな分岐点に来ているのだろう。これは産業革命と同じく人間の暮らしの大きな変化である。労働の意味が変わるのだ。人間が食料生産で精一杯の時代から、人間自身の探求の時代に入ると言うことになる。

 生きている間に時代がそこまで進むことはないだろうと思っていたが、加速度的に時代が動いている。大変な時代に遭遇したことになる。次の時代を生きる人達に何も言えることはないのだろうが、ともかく時代が大きく変わると言うことは知ってもらった方が良い。10年後にこの文章を確認してみたい。

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