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動禅における禅定について

2022-12-15 04:29:20 | 暮らし


 禅の修行は、禅定を目指すことになる。心を静めて一つに集中して乱れない状態が禅定である。人間である以上心を空白にすることは出来ない。脳の動きは止まらない。もう60年も禅をわずかずつだが行ってきた。無念無想の状態という経験は無いと言うほか無い。

 これは能力と努力不足と言うことがあるのは分かる。ただ人間である以上当たり前の事だが常に頭の中を思考が回っている。様々な想念が浮んでは消えてゆく状態が当たり前の脳の状態である。寝ていても脳は活動している。生きている間は脳が停止することはない。だから死ぬことを脳死というのだろう。

 ある意味の無念無想の自己催眠状態はあるだろうが、そんな状態が禅定とは考えられない。禅定は静かではあるが、正常でに張り詰めた精神状態であり、その中で精神に乱れが起きないのだろう。それはある意味何かに集中しているときのことなのだろう。坐禅の状態でない場面であれば、そのような状態の経験はいくらでもある。ただ座っていて、心と向かい合い、無念無想である事に集中することが出来ないのだ。

 脳の動きは思考が流れ続け止まるところがない。無念無想の状態とは空の状態ではないかと思われる。体験がないので何とも言えないところだが、存在が空白になる状態を一度は体験したいものだと思っている。それに似た状態はこれかなと思うところが無いわけではないが、実際確かな確証を得たことはない。

 ところが禅宗の僧侶の方が、まるで瞑想法の影響を受けたように、空の状態は、頭も身体も解きほぐされ、リラックシして、呆然としたような状態であると書いている人のものを読んだ。温泉につかって極楽極楽となっているようなときの状態だというのだ。

 人がそう考えるのはかってなことであるが、私の考える禅定はまったくその逆のものなのだ。命がけの緊張をして到達する静寂である。リラックスどころではないし、呆然としているようなのんびりした物ではない。のんびり心を解放するというのは瞑想の方の話で、禅はその対極になるような極限といえるように緊張している状態で到達できるものである。

 もちろんどちらが正しいと言っているわけでは無い。目的が違うのだ。瞑想はどちらかと言えば、慌ただしい日常で疲れた心を回復させるためのリラックス方法というのが普通の説明のようだ。ところが禅は修行であり、自分のすべてを、自分を修行の世界に投げ込まない限り無意味な世界なのだ。

 道元を読んでいると、あまりに深刻な物であって、お風呂につかってボーとしているというような脳の空白とはまるで違う。臨済禅では、考案という物があるらしい。考案をとことん考えることで、他の考えが浮ばない状態を作るのではないかと思う。

 ところが道元は考案自体も否定する。只管打坐に徹するだけなのだ。只管打坐すれば悟ることが出来るというような、目的を持つことすら否定している。悟ることも意識しない。悟ったところで只管打坐である。禅そのものを続ける生き様だけが、意味がある行為となる。

 正法眼蔵のこの解釈は間違っているのかも知れないが、難解で読解できないまま、今のところそのように感じて読んでいる。私の勝手な動禅や画禅はどうなるのか。最近に至って、臨済禅の考案のようなものと近い考え方だと思うようになった。重要なことは心を一つにして、深い集中をする。そして揺るぎない静寂な状態に入ることである。

 動禅では動きと呼吸に集中してゆく。正しい動きは極めて難しくて出来ない。その出来ない動きを出来るように求めてひたすら集中する。だから、私の動禅は惚け防止になるのだ。太極拳が卓球の次に惚け防止になるというのは、脳が緊張して、身体動作に集中してゆくからである。呆然としているだけであれば、呆けてしまう。

 指先の動き一つ間違いが無いような形にしなければならない。適当な形は一切無い。目標は能舞台のような精神の集中した動きである。琉球舞踊にも同じ物がある。手を静かに挙げるだけで、精神の集中が見えるかのような動きである。まだまだ初心であるが、動きに集中が現われるように努力している。

 しかもその正しい形が正しい速度で進む。毎朝行う動禅はできるだけゆっくり行うが、最近は24式太極拳部分で13分のものだが、誤差は10秒無い。今は太鼓の合図が6分ずつあるので何とかなっている。いつか太鼓なしでも出来るようになりたい。本山の坐禅でも鐘は鳴っている。

 空手の型がオリンピック種目にあった。喜友名諒 武道館で魅せた世界一の演武 はその緊張感が伝わる動きであった。あの緊張感のある動作のままに、可能な限りゆっくりにするのが動禅の動きである。重心をできる限り低くする。上半身は上下にゆれない。

 動作はまるで自然に動いているかのように、筋力をかけないで動いているようでありたい。ムーンウオークが参考になる。身体は移動しているのだが、動かしているのではない。そう見えるくらいに自然に静かに移動してゆくような動きでありたい。

 実は絵を描いている時は。かなり近い禅定の状態のような気がしている。たぶん違うのではないかと思いながら、そうかも知れない。と長い間空想してきた。絵に反応しようとしているだけで、何かを考えている状態ではない。脳を空白にして、画面に反応をしやすいようにしている。そして精神は緊張して集中している。

 だから、思いもしないことを手が行っていることが良くある。なんでこんなことをしたのだろうと、画面を見て思うことがままある。後でどうやってそのように、描いたのかが分からない。そうだああやろう、と決めて筆に絵の具をつける。水の加減を調整して、さあ塗ると言うときに、手が違うところにゆき、塗り始めてしまこともままある。

 まったく頭の私の予想外のことをしてしまうのだが、それはそれでいいと受け入れて、手に任せて絵を描いている。ある意味困ることではあるが、これでどうなるのか進んでみようと考えている。結果としての絵が眼前にあるだけである。今はこのまま行けば良いといえる。

 動禅の効果が絵に出ている気がしているのだ。絵を向かい合う気持ちや、絵を描くときの心の置き所が、少し定まってきた気がしている。禅定の状態に以前よりは近づいた気がしているのだ。いい絵を描こうという欲が無くなった。現われてくる絵にまかせていられる。

 動禅はまったく初歩段階なのだが、気持ちの置き所だけは少しずつ感じている。行くべき方角だけは見えてきた。後は継続である。能楽が一子相伝の物ということは理解できる。どれほど動きが素晴らしくとも、生活すべてから受け継がなければ身につかないような物があると言うことだろう。

 欧州少林寺の释恒義師 の八段錦が一つの目標になるものだと思う。動きが素晴らしい。どの動きにも集中が現われている。この人の出ている映像を競べて驚いたのは、年々動きに精神の深まりが現われてくるようになっている。まだ若い人だから、どこまで行くのか興味深い物がある。

 
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