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地域自給は、未来の扉

2023-12-13 04:42:16 | 暮らし


 現代農業の1月号に「地域自給」と言うことが書かれていた。まさに私が30年前に目指した方角である。あの頃、農文協でも自給農業に関心を持ちはじめたらしい。もしかしたら、あの頃現代農業を読んでいて、影響を受けて、地域自給を考え始めたのかもしれない。

 現代農業は地域としては東京で一番売れているらしい。アーサーミラーラーの「セールスマンの死」だ。当時滝澤修で大評判だった。りんご園を夢見る人が農業雑誌を買うのだろう。農的生活を夢見るのだが、実際には踏み切ることなく死んでゆく。私はあの頃踏み切ったのだが、アーサーミラーの影響もあるのか。

 農業は停滞する経済の中では、政府は切り捨てることしか頭にない。給与を上げて好循環などと主張したところで、農業者にはほとんど関係が無い。30年前に予測したとおりの衰退の経過である。農業で生活は出来なくなった。そして農業者は減少し、農地は急速に減少した。

 農地は守らなければならない。農地がなくなることは日本が終わりになることだ。これは私にとっては議論の余地も無いことなのだが、どうもいつまで経っても少数意見のようだ。しかし、日本列島に暮らす人達が、農地を守ろうという気持ちが出てこない限り、日本ではなくなることになる。その意味を考えてみる必要がある。

 地域自給と言うことを考えたのは、私が食糧自給を達成してみて、その面積は、一人の自給は200坪で可能だと言うことだった。それは今思うと、有機農法だから出来たことだったのかもしれないが、計算上はあしがら平野にある農地で、あしがら平野に生きる人は食糧自給は可能だった。

 有機農法の循環型農業は実に小さな自給には合理的で、小面積での自給が可能なのだ。しかも鶏を飼えば、肥料も生産できるし、肉や卵の供給も可能になる。農業経験の無かった私が、食糧自給を5年間で達成できた。このやり方をみんなに伝えれば、日本が救えると本気で考えたのだ。

 そして意気揚々とあしがら農の会を始めた。徐々に仲間が増えて、200人の仲間があしがら平野で自給農をしている。私も月に一回は行って参加をさせてもらっている。最近は、石垣島の「のぼたん農園」に集中していて、少し参加が減っているが、離れたわけではない。

 みんなの自給は、楽しい集まりである。田んぼの会はおおよそ1万円の会費で、120キロのお米がもらえる。作業は74歳の私でも参加できるレベルのものだ。食糧自給は農業技術が重要である。自給できないで挫折する人も多い。農の会で行っている有機の自給技術はほぼ完成している。

 お米、麦、大豆、ジャガイモ、玉ねぎ、その他野菜、日本の農業の平均生産量をどれも超えている。その技術が無ければ、食糧自給は出来ない。大変なばかりで、たいした収穫物がないと言うことでは、継続は出来ない。農の会ではその技術を伝えるために、有機農業塾も開催している。

 30年前に農業に関していくつか予測した。農業者は減少し、農地はいくらでも借りられるようになる。だから農地は買うのではなく、借りることが良い。世界は食糧危機に陥り、日本は食糧が不足するようになる。食糧を自給する動きが始まる。農業は企業が行う大規模農業と、非農業者が行う自給農に二分する。

 農業は予測通りの経過をたどっている。ただどうしたわけか、食糧自給の非農業者の動きはまだ弱い。やってみたいという人は少なくないのだが、実践が物足りない。食糧自給をやろうという人がまずとりつくのが、叢生栽培。自然農法。無除草。無施肥。ここから始まると挫折に終わりそうだ。

 現代農業が12月号では不耕起を取り上げている。耕さないのだから、手間がいらない。一見楽そうに見えるが、実際は耕起するより手間がかかる。叢生栽培もそうだ。やらないでいいという農業は名人でなければ出来ない。5年間何も食べずにやり抜けるなら良いが。収穫量が低いのだ。収穫がないのでは継続が出来ない。

 こうした農法もあるのだろうが、初心者はまず作物の生理を科学的に学ぶだけで、数年はかかる。その上でやらない限り何をやっても収穫はない。食糧の地域自給を掲げた現代農業が、先月号は不耕起栽培である。確かに不耕起も良いが、非農家の人が自給農業にそこから入って大丈夫とは思えないのである。

 5年間は我慢だというような農法で、どうやって新規就農が出来るというのだ。もっと現実的に見なければだめだ。具体的に自給農業の路を湿すことが大事なのだ。夢物語ではいつまで経っても、セールスマンの死をでることが出来ない。

 自給農は自然の摂理に従うものである。自然を理解し、植物を読むことが出来なければ、農業は出来ない。例えば今この文章を書いている、石垣島の12月12日の朝4時35分の時間で気温は25.2度である。12月に熱帯夜になることを数ヶ月前から予測できなければ、収穫はおぼつかない。

 自給農で一番大切な心構えは、自分の手で作った食料以外は食べないという覚悟である。収穫できなくてもいいやというような、曖昧な気持ちでは農地に対して失礼である。それでも楽しいかもしれないが、そういう人はゴルフでも山登りでもやっていればいい。

 農地に向かい合うと言うことは、命がけのことなのだ。だからこそ、そこに真実が発見できる。本気でやらなければ、自給農の農業技術を見つけ出すことは出来ない。例えば、農の会で教わり、どこかで農地を借りて農業をやったとしても、多分失敗してしまうだろう。

 農の技術というものの基本は物を観る力なのだ。観察力が無ければ、言われたとおりにやるだけになる。これでは必ず失敗する。農地には同じ条件はない。気候も毎年異なる。この中で命を支える食料を作るのだ。そうした能力のない現代人には極めて難しいことだ。

 天気予報のない時代であれば、スマホがなくとも明日の天気を誰もが予測できた。漁師であれば、まさに命がけである。何時種を蒔くのが最適なのかは常に科学的な研究が必要なのだ。たとえば、今年ジャガイモを10種類の種芋を植えた。その中で何と男爵が一番出来が悪い。

 自給農はこうした経験の積み重ねしかない。ことし、8月27日に播種した「台光」は1月始めが稲刈りになる。11月末に蒔いた大豆はやはり芽が出なかった。トウモロコシとトマトはよく芽が出た。玉ねぎとニンニクは今のところ大丈夫そうだ。

 のぼたん農園で自給技術を残したいと考えている。日に日に自給の必要性が高まっている。政府は39%の食料自給率に甘んじている。手を打たないうちに食糧危機が近づいている。食糧が不足したときに必要になるのが、自給技術である。非農家の自給だ。

 もう一度江戸時代の自給自足を思い起こすべきだ。日本が日本らしくあった百姓の時代である。この時代に帰るつもりになれば日本は大丈夫だ。百姓の知恵が、日本ならではの世界が必要する新産業を生み出せるはずだ。第3の矢が飛ばなかったのは、百姓の魂を持つ人がいなくなったからだろう。

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