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朝の動禅の継続

2023-12-14 04:12:37 | 暮らし


 朝の動禅はすこしづつ良くなっている。坐禅が良くなっているなどとはとうてい分からないが、動禅は見た目で分かるものだ。分りやすいところが私には良い。分りやすい分、奥が浅そうにも見える。動禅ではただ立っている姿だけで、この人は違うと言うことが分かるというのもすごい。

 1年経つと少し良くなっているので意欲的に取り組める。動禅体操は70歳になり、石垣島に来て始めたものだ。石垣島に越して、70歳に成って何か新しい事を始めてみようと考えた。太極拳、八段錦を習うことから始めた。カヨ子さんが陽名時太極拳の師範で、長年毎朝やっていたからである。

 石垣島に来るまではやろうとは思わなかった。陽名時先生には、個展に来ていただいたことがあり、話を聞かせていただいたことがある。尊敬できる先生である事はよく分かった。太極拳が特別のものであることは分かってはいた。しかし、毎日農作業で身体を使っていて、この上体操もないものだと考えていた。

 石垣島に来たときには農作業から離れると考えた。農作業をやらないのであれば、何かしら身体を動かすことは必要だと考えた。絵ばかり描いていれば、これから身体は衰えるばかりである。せめて維持をするためには、なにか運動が必要だと思えた。

 それならば太極拳と八段錦はいいかもしれないと、体操をやる気持ちで始めた。覚えるのに、一年かかった。確かに1年経ったら動きは頭に入った。次の1年は忘れることに専念した。思い出したり、考えたりしないでも出来るように。歩けくのと同じように、太極拳が自然にやれるようになりたいと忘れる努力をした。

 2年目が終わるころには確かに思い出して動いていない状態になった。始めるとそのまま動きが続いてゆく。散歩していて足の出し方を考える人が居ないのと同じことだ。脳科学的には、動きを小脳化したと言うことらしい。スポーツ選手は皆動きを小脳化する。

 3年目は呼吸を意識した。呼吸法を意識して、深い呼吸が出来るように努力した。太極拳では動きに合せて呼吸が決まっているらしい。私の太極拳の動きはかなりゆっくりしているので、その動きに合せる呼吸になると、静かに長く続く呼吸になる。

 試行錯誤して、口をわずかに開けて、口と鼻両方で呼吸することになった。それは奨励されていない方法なのだと思うが、口を細めると吐ききった息をさらに吐き出すことが出来る。吸気でも同じである。最後まで吸いきる。吸いきるためには口を細く開けることにした。

 4年目は禅を意識した。3年の予備期間が終わり、いよいよと言うことになった気がした。4年目は禅定を目指すと言うことになる。無念無想の状態で動禅を行うと言うことだ。それが出来るというのではないが、そういう方角で動禅を行うということにしたい。 そう4年目に入るときに書いている。

 そのきっかけはユーチューブで、欧州少林寺というものを見たのだ。その動きは力は入れすぎに見えるが、中国の太極拳の派手な速い動きと違い、私の考える動きの速度に近かった。ただそこに立っている姿形が、座禅と同じなのだ。何か大切なことに思い当たるところがあった。

 少林寺はインドから中国に前週を伝えた、菩提達磨大師が開いたお寺である。禅はここでヨガから生まれたのだと思う。坐禅もあるのは当然であるが、動禅もあったはずだ。その動禅が太極拳になり、八段錦になったに違いない。少林寺の八段錦に学ぶべきだ。

 私のような結果を求めるものには、坐禅よりも動禅の方がやりやすいと思えた。じっと静かにしていられない、落ち着きのない、突然教室で歩き回るような子供時代だったのだ。小学校の通信簿には必ず、落ち着きがないので直すようにと書かれていた。

 坐禅はその意味でどうも、受け付けられないところが合ったのかもしれない。しかし坐禅の努力によって、少しは落ち着いていられるように変ったと言うこともあるかもしれない。しかし、動禅と言うものが存在するのであれば、自分には向いているに違いないと思えたのだ。

 来年は5年目である。4年目が抽象的すぎて、成果が分からなかった。目標を美しい動きにして、動きを意識しようと思う。前からそういうことを意識して居なかったわけではない。私の姿はあまりに無様で美しいなどと書けば、恥ずかしい限りだ。

 ところが、日々継続していると、何かがわずかずつ変ってくる。不思議なものだ。1ヶ月ぐらいでは何も変らないのだが、1年という年限は何かが自然と変わているはずだ。一年間美しく動こうとすれば、それなりの結果が出るのではないか。今はそう思っている。

 少林寺の八段錦は力が入りすぎている。まるで空手の型に近い。空手の型はオリンピック種目でも行われて、なるほどすごい気合いのこもった動きだと驚いたが、私の思うところとは違う。空気をつんざくのではない。空気の中に溶け込むような静かなものだ。

 全身から力が抜けていなければならない。力がどこにも入っていなにもかかわらず、形が崩れないで、静かに移動をしているというような姿だ。身体の重心が一定で、上下動無くゆっくりと移動してゆく。出来ているわけでは無い。そういう目標で動こうと思っている。

 絵も動禅同じなのだが「美」という言葉は、曖昧なことなのだが、真実の姿を現している。美は感性が感じる。そこには何かしら価値が存在する。美を基準にして考えることが出来る。美は目的ではなく指針というか、考え方の羅針盤なのかもしれない。

 私が美を求めて動禅をしていると言えばキビが悪い。美をもう少し違う言葉で考えた方が良いかもしれない。安定した動き。正しい動き。集中した動き。やはり美くしい動きの方が近い。美は便利な言葉で間違いやすいが、藝術を美術と考えた日本の考え方も分からないではない。

 具体的に言えば、能のようなゆっくりした動きである。姿に魂だけが乗り移ったような動きである。幽霊のような動きかもしれない。言葉にもならないが、よりよい動きを求めて、あと10年くらい繰り返せば、動禅らしくなるかもしれない。

 
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