地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

「心の教え」「命の教え」東井義雄著

2022-12-24 04:33:34 | 


 「心の教え」「命の教え」東井義雄著。この本を学生時代に読んでいれば、生き方も変わったのかも知れない。続けて3冊の本を読んだ。どの本も読んでいる間涙が流れてきて仕方がなかった。年寄は涙腺が弱いというのを実感したわけだ。本にある体験談にある澄んだ心が圧倒的なものとして心に迫ってきた。

 1970年代日本が悪い方角へ転がり出した。子供達の状況が日に日に悪くなって行く。この悪い流れをなんとしても食い止めたいという教育者の切実な想いが溢れている本だ。素晴らしい小学校の先生がいたのだ。そういう先生は全国各地にいて悪戦苦闘してきたのだと思う。

 教育学部の学生だったので、友達から東井先生の話は聞いていた。にもかかわらず読まないでいた。何故読まなかったのかと自分の心の狭さを残念に思う。校長先生であり、後に大学の先生に成られた、浄土真宗の僧侶。と言うことで、なんとなく読まないでも、たぶんありがちな教育者の本だろうと勝手に思ってしまった。

 教育に関係する本で素晴らしい本は色々あった。遠山啓氏という数学者が「人」という雑誌を発行していた。その雑誌は創刊からずっと読んでいた。熱量がすごくて、魅了されるようなことが沢山書かれていた。大学の生協の本屋にはそういう本が並んでいたのだ。

 東井先生の本も著作集があるのは知っていたのだ。教育学部の友人達が余りに感激して話すもので、読まなかったのかも知れない。浄土真宗の僧侶であり、暁烏敏と関連もあるに違いないと思っていた。大学には暁烏文庫があり、その関係の本はかなり読んでいた。

 教育学部には出雲路暢良先生がおられた。暁烏氏の弟子である浄土真宗の僧侶であった。出雲路先生は暁烏文庫の整理をされていた方だ。週一回茶話会のようなものがあり、それに出ていた。素晴らしい方だと先生の話を聞くのが楽しみだった。それでも浄土真宗の方というので、これもまた距離は置いていた。

 こうしてみると、素晴らしい僧侶の方は浄土真宗の方に多い。今注目されている阿満 利麿 氏も素晴らしい宗教者だ。この方の統一教会に対する発言は納得が行くものだった。現代社会の問題点を一番深く洞察されているのではないかと思われる。

 2040年までに、仏教寺院を含め、35%の宗教法人が消えてなくなるといわれている。江戸時代檀家制度によって仏教が日本人の生活の中に、根ざすものになった。多くの家庭には仏壇がある状態、日本人が無宗教とは言えない現象に見える。

 既成宗教が衰退して行く中、新宗教が広がり始めている。この科学の時代にまさかと思うような、幻想的な非科学的な教義を主張する。方角を失った社会では新宗教が信者を増やす。オウムや統一教会は氷山の一角である。信者以外の人から見れば、まさかと思うような教義や主張を、熱狂して受け入れているのだ。

 それを洗脳とか、マインドコントロールとか分析して、一種の催眠状態で騙されているという解釈で社会は理解しようとしている。果たしてそれは本当のことであろうか。天国があると言うキリスト教の教義は、非科学的の極みである。そもそも宗教は非科学的なものだ。

 どうもそれだけではない、マインドコントロールされたい精神状態が、社会に蔓延してきているとも思える。東井先生の心配されていたことが、現実化した社会なのだ。1970年代に時代の分かれ目があった。あそこで実現できなかった結果が今の時代である。

 オウムがテロ事件を起して、解散命令を受けたときに、これは始まりだと感じた。オウムが主張した社会の問題点の指摘は間違っていたわけではない。どうしようもない社会が始まってしまったという認識は、社会共通のものではないか。もちろん暴力で解決など出来るわけもない。

 宗教に心の解決を委ねたいという思いが、一部の人に広がっている。それは安定した家族とか、家庭というようなものが、薄なわれてきたが為だろう。ご先祖様を大切にして、次の世代につなげて行くというような家庭はほぼ無くなったのだろう。

 何をよりどころに生きて行くのかという意味で、日本人の安定が消滅したのだろう。その根底にあるものは能力主義の広がりだと思っている。東井先生も繰返し能力主義を否定している。能力の高いものは、能力の低いものよりも、人間としての価値が高いのだから、社会で優遇されるのは当然だという考えは間違っている。

 能力主義は拝金主義を生んだ。金儲けが旨い人間を評価する時代。お金を上手く投資をして、儲けることは人間として立派なことだという、かつては守銭奴と呼ばれたような生き方が、正面を切って社会的に認知されたのだ。しかも学校教育にまで金融が入った。

 既成宗教は拝金主義を否定している。健全な労働を評価して、お金がお金を生むような価値観を排除している。もちろん拝金主義はどの時代にも存在したのだろう。しかし、それはいつも少し陰に隠れていて、悪い事だという認識が普通だろう。お金は不要とは言わないが、卑しいものなのだ。

 ところが資本主義が限界まで来た現代社会では、国家までもが投資を良い行為だと奨励する状況が生まれた。学校教育の中でさえ、金融というような授業が行われる事態である。かつてのお金にとらわれてはならない、お金は不浄のものというような感覚は、払拭されようとしている。

 価値観というものが失われて不安定化している社会に於いて、お金という価値観だけが広まっている。統一教会の家庭崩壊に至る献金の原因は、お金という最も重要な価値を献金することで、始めて自分の救済が始まるという考え方なのだろう。

 そこに前世の因縁やら、ご先祖の悪行などが持ち出されて、洗脳されてしまう。様々な新宗教が広がっているが、そのほとんどが集金を第一としている。しかし、前世やらご先祖が持ち出されて思い当たるのは今が苦しいからだ。現在の社会が救済を求める苦しい人を、生み出しているからだ。

 その苦しい人を救済する社会ではないのだ。弱者は能力がないのだから、苦しい生活でも仕方がない。社会は弱者を切り捨てているのだ。能力がないと言うことを自己責任としているのだ。努力が足りないのだから、差別されても仕方がないと思い込まされている。

 最後の差別が能力主義なのだ。誰もが能力によって差別を受けない社会ができない限り、新宗教の欺瞞は広がり続けるのだろうと思う。これからさらにIT社会になればなるほど、宗教の意味は重くなって行くはずだ。人間の労働が変わって行くときに、心の問題が残されて行くからだ。

 どう生きれば良いのかと言うことを、自分自身に求めるのが曹洞宗の考え方である。只管打坐という修行である。その日々の姿が僧侶に求められるのだろう。ボランティアをする僧侶の価値など間違っている。社会における意味を、ボランティアにしか見いだせない僧侶では力が無い。

 自分の生き方で示す意外に無い。これが禅宗の僧侶ではないかと思っている。結局の所私は私のやり方で進む以外にない。学生の頃東井先生の本を読んだとしても、変わることは無かったのかも知れない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« コロナ死者数は深刻化している。 | トップ | 第141 水彩画 日曜展示 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

」カテゴリの最新記事