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日本精神史 阿満 利麿 著 筑摩書房

2024-03-01 04:28:51 | 


 日本人の不甲斐ない精神性の理由を探ろうとしている本のようだ。問題は天皇制を作ろうとした、日本の政治のひどさにその理由の大半があると書いてある。確かに日本の政治は最悪のものが続いている。しかし、政治をこうも悪くしているのも日本人である。

 読んで思ったことは、精神性に関して、民族間に優劣などあるはずがないと言うことだった。どこかに素晴らしい精神を持つ民族がいて、それに較べて日本人の精神はひどいなど、言えないだろう。精神性というくくり方で、民俗全体でひっくるめて考えると、話が本質からそれて行くと思う。

 精神はどこまでも個人のものだ。お前のはどうなのかと常に考える必要がある。確かに日本人的な精神というものはあるだろうが、そこでとらえられる精神性は、傾向という程度のことに過ぎない。やはり精神性となると個人的なもので、親子でも兄弟でも似ているとは決まっていない。精神性は個人が培うものだろう。

 問題にしているのは、国家による洗脳だと思う。北朝鮮を見ればわかる。宗教や政治に洗脳されてしまう問題である。天皇を神とする明治政府の洗脳教育によって、日本人は天皇というものを江戸時代までの天皇とは、違うものと考えさせられるようになってしまった。しかし、江戸時代までの日本人の精神も、洗脳された明治以降の日本人と大きくは違わない。

 江戸時代は江戸時代で様々な洗脳を受けている。一番は儒教教育である。孝行な子供を表彰するような教育である。今だって、テレビは盛んに日本人を洗脳しているようなものだ。余りにつまらないので、テレビを見ないことにした。一億白痴化だと嘆いたことは当たっていた。

 だからブログを書いているのだ。受け手だけでいると、いつの間にか洗脳される。発信することが重要だと思っている。日本精神史は、知識が無いと難解な本で、誤解もしやすい本だと思える。特に浄土真宗についてその歴史的背景と、現状を分かっていないと読めない。

 つまり日本人の精神性というものの、全体性で言えば、日本の風土が作り出した、日本の自然宗教を考えるほか無い。例えば諦めやすいとか、信念が足りないとか、人の顔色が読めるとか、柔軟に受け入れるとか、そ言うことは日本の風土、水土、自然環境に順応した暮らし方から来ている。

 阿満氏には親鸞、法然にその視点があるように読める。浄土真宗の信者であれば、念仏を唱えることで、救われると信ずるのだろう。そんな馬鹿げたことを信仰の無い人には信じられない。洗脳されるから、そう信じて念仏を唱えるのだろう。

 信仰があるから日々をこれでいいと思って生きる事ができる人になりうるのだ。洗脳されなければ、そんな理屈にも無いようなことを信ずることが出来るわけが無い。道元禅師の只管打坐だって同じことだ。私には、そんな馬鹿なという気持ちがどこかにあり、それで続けることは出来なかった。その善悪を考えずに、信じて坐禅を続けることは出来なかった。

 宗教には洗脳がある。すごい宗教者に出会うと、洗脳されてしまうのだろう。この人が言うなら信じてみようと言うことになる。道元禅師の書いたものから学ぶという範囲では、学問としての哲学と変らない。学問は問題意識から始まる。疑うものは宗教者には慣れない。信ずるものが救われるわけだ。

 精神史と言うこととに成ると、話は違う。日本人は宗派宗教の影響は受けてきたが、一番影響が強いものは、自然宗教であろう。日本は歴史的にも自然災害の厳しい国土にあり、何度も何度も壊滅的な破壊にあい、立ち直り、なおかつその自然と共に生きるほかない。たどり着いた最後の地で、逃げ場のない国なのだ。

 この時には荒れ狂う自然の山や海や木や湧き水を信仰してきた。農業をしていると、自然というものと対話が始まる。自然をよくよく見つめて、予測をして判断をしなければならない。そして自然に裏切られては、自然に対して願うようになる。

 祈りを捧げ、豊作を祈願する。その気持ちは縄文人も私も、日本の自然に生きる以上かなり似ているに違いない。自然から自分の身体で食糧を得る暮らしは、自然への祈りが生まれてくる。4季のある、変化にとんだ自然が日本人の感性を豊かにし、祈りの精神を作り出した。

 それが柳田民俗学の探求の目的であった。そこでは日本人の精神が良いとか悪いとか、そんなことは全くない。日本人というものがどんな精神構造をしているのか、その原因を探ろうとしたのだ。たまたま、日本人は他民族の影響を受けにくい環境で暮らしをしてきたために、古い日本人が残されていた。

 他民族から離れた島に暮らしていたために、日本人の成り立ちが民俗学的な分析で見えてきた。仏教や儒教が日本に入っては来るが、それが日本人を変えてしまうほどの強い影響には成らずに、日本人を残しながら、日本教の中に取り入れることが出来た。

 イザヤペンダサンの日本教は日本の自然宗教を意味する。縄文人にまでたどることが出来る、ある意味一筋に続いてきた日本人の精神性である。しかし、その日本の民俗学も、ぎりぎり成立したのであり、20世紀が終わりほぼその痕跡は失われたと考えた方が良い。

 そもそも民俗学の手法は誕生したヨーロッパでは成立しなかったのだ。だから、民族学となり、民俗を残している、原始的な生活をしている人々の研究になった。そのなかでは、精神性に進んだものや、遅れたものも無い。違いがあるだけだと言うことが確認される。

 天皇の問題がある。天皇制を考えるときに、具体的に考えるためには北朝鮮の金一族支配を観察すると良い。金一族の疑似天皇制は、植民地時代の天皇制をそのまま引き継いだものだ。あの奇妙奇天烈な姿が日本の明治帝国天皇制を表している。

 現状の天皇制の問題点である。早く止め無ければならない。徐々に天皇の存在を薄めて行くことが良いと思う。現状は明治政府の天皇利用によって、実に不自然な形の天皇制度が継続されている。まず、天皇家は京都か奈良に戻る。そして、日本の象徴から外れる。

 そして、人間宣言では無く、一般人宣言をしなくては成らない。天皇家が古い日本文化を継承する一家として尊重されればいい。江戸時代の天皇家に戻ることが、日本にとって一番健全なことではないだろうか。後水尾の天皇のように、修学院離宮で暮らすことが良いかもしれない。
 
 天皇制の問題を別にして考えるとすれば、日本の宗派宗教はあまり関心した状態ではない。明治維新に協力して教団の生き残りをした浄土真宗。戦争協力に力を注いだ、仏教各派。そして、現代の創価学会を始めとする、奇妙な新興宗教の登場。オウムのように暴力革命を起こしたテロ集団。統一教会のように、政治の裏側にへばりついて、反日活動をする宗教。

 今の時代は資本主義が行き詰まった方角の見えない時代だ。日本人の確立されない精神に忍び込むように、蠢いている様々な新興宗教があるはずだ。オウムも統一教会も、これで終わりではない。むしろこれからこうした怪しい新興宗教に洗脳され、巻き込まれる人が続々と現れるはずだ。

 農業分野でも、似非科学がもてはやされている。おかしな教祖的な農業者があちこちにいて、信者のような人を集めている。気持ちが悪くて仕方がない。科学的思考を出来る人間になる必要がある。学校教育が正しい科学的論理性を身に着けることを、目標にしなければならない。
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