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写実絵画の問題

2014-06-15 04:38:46 | 水彩画


陽朔 10号 時々桂林に行った時の絵を描く。描いてみたくなるのだが、良く理由は分らない。





現代の描写性の強い絵画を面白いと思うことは少ない。その理由は、描いている人の意図が写す気持ちで消えてゆくからである。描いている作者の個別性の様なものが無くなるからである。描写性が強く成り、ボタニカルアートのようになれば、写真以上に正確なのかもしれないが、描いた人が見ている、花を見て美しいとかいうような感情的要素は消えてゆくことになる。この点で私が考えている絵画とは、だいぶ違うものになるのだ。1960年代アメリカでスーパーリアリズムとか、ハイパーリアリズム絵画とか言われるものが登場した。その際だった、写実性と言うのか、写真的描写というものが注目を浴びたことがあった。しかし、驚きがあったが絵画という気は全くしなかった。芸術というものは、自己表現なのだという、小林秀雄流の考え方に染まっていたので、なんで自分を消してゆくことに専念するのだろう。アメリカはさすがに文化的伝統の無い国なのだとしか思えなかった。

ロシアのレーピンなどの絵画も、あのロシアイコンの魅力からいえば、あんなつまらない絵画をもてはやすのか不思議でならなかった。現代日本でも、入れ替わり立ち変わり、リアル絵画というものは登場する。ダリ等のリアル表現は、シュールな世界観を表現するためのリアルさであり意味がある。そうではなく、ありきたりの静物や花を、自慢げにリアルな表現をしている人を見ると、その知性を疑わざる得ない。特に嫌な所は、そういう技術的な巧みさをアピールしている厭らしさである。上手いは絵の外というのは、少し芸術というものを理解した人なら分かるはずだ。芸術作品というものは、どうやってうまさを見せないかが重要な要素になる。少々上手い技術などというものは、その人間の知性の浅さを表していて、冷や汗が出てくるような恥ずかしさを私は感じている。何故そういう絵画を評価する人がいるかと言えば、コンマ以下の芸術の分らん人が沢山いるからである。

日本でも文化レベルの高かった時代には、そんな絵画は見向きもされなかった。幕末が近付き、終末的な文化に対して自信の持てない時代になって、司馬江漢や高橋由一の様なリアル絵画が登場する。明治時代も全体にそういう時代で、日本文化への自信喪失と、西欧文化への崇拝的盲目が支配している。その中で、梅原龍之介や中川一政の様な、日本的な文化を背景にした絵画がやっと評価されることになる。しかし、絵画芸術というものが、私的なものと商品的なものに成った現代では、商品絵画におけるリアルさ嗜好は現代社会の、価値喪失の反映を見るような気がする。書道が代書屋化したのと、類似である。私が見たいのは、竜馬の書から、竜馬が垣間見えないかが書というものなのだ。書画すべからく類似化して、活字化しているような時代では、書を通して人間を見ようということが馬鹿げている。絵もそう遠くない所にある気がしてならない。

スペインにおけるリアル絵画ベラスケスをリアル絵画に位置ずける絵画感の愚かしさ。その意味では、モナリザを見ても、リアル絵画だと、写実絵画だとジャンル付けをするのだろう。何故そうなるかと言えば、絵画というものを情報からしか見ることができないからである。ベラスケスを始めとするルネッサンス会が全般にあるリアルさは、リアル表現が目的になっているのではなく、表現手段としているだけなのだ。だから、誰にでもベラスケスとゴヤの違いは分るのだ。その意味では、確かにワイエスのリアルさには個性がある。その個性は浅いものだと私は感じるが、確かに個別性は感じる。見る側のレベルの問題が大きいと考えている。日本の桃山期でも、ヨーロッパのルネッサンスでも、絵を評価する側のレベルが高い。そういう時代には、ただのリアル絵画は、出現する余地がない。
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